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アネモネ・コントゥール
登場人物一覧
貴族の社会は常に宮廷闘争に塗れている。
誰がどこに属しているか。誰がどの派閥にあるか。
その家族は――繋がりは――奴らは敵か味方か、あちらとこちら――
いつもいつもそんな事ばかりだ、と。
そんな事は分かっていたけれど。
「…………はっ?」
まさかその一端が己にも降りかかってこようとは。
……ある日の夜。静かなる風を頬に受けながら、しかし――思わず声を零してしまったのはリウィルディア=エスカ=ノルンだ。彼女の下に届いたのは一つの手紙……いや厳重に封がされたソレは密書と言うべきか。
誰の目にもつかぬ様に己に直接届けられたソレの送り主は、ノルン本家。
――つまる所彼女の実家だ。
胸騒ぎがする。
実家との縁はリウィルディアがイレギュラーズとして召喚されてからほぼ途絶えていたに等しい関係だった筈だ。それが今更に手紙、しかも人目に付かぬ様に届けられたなどと……あまり良い内容ではない気がする。
が、無視する訳にもいかないかと――家紋が入った封蝋印を開け確認してみれ、ば。
「縁、談? 僕に……?」
――ソレは彼女の未来を定める代物。
ある貴族との『縁談話』が――転がりこんできたのだった。
●
「――へぇ。リウィルにもそういうのが来るんだな」
「あぁ……まぁ、その。なんというべきなんだろうね。
曲がりなりにも貴族であれば……とは思っていたけれど。
どこか遠い出来事だとも考えていたよ」
数日後。リウィルディアはある人物と出会っていた。
それはアオイ=アークライト。彼とは……とても、親しい仲だ。
故もあるだろうか、ついそういった手紙が届いた事を話していて。
「まぁノルン家は伯爵家だったよな。ていう事は縁談とか、元々山の様にあったり……?」
「うーん……まぁ正確には本家というか遠縁の親戚から、だけれどもね。
正直そういう親戚がいるだなんて知ったのも、この手紙が届いてからだよ」
尤も、それは向こうもかもしれないけれどねリウィルディアは紡ぐ。
そもそもイレギュラーズとして召喚されるまではノルン家の領地から出る事が数える程しかなく、あまり知られていなかったぐらいだ。遠縁の親戚など認識の範囲外であった事だろう……
まぁイレギュラーズとしての活動があったからか、それ以外の理由かは知らないがノルン家にリウィルディアという存在がいるのを知って接触してきた訳であるのに間違いはない。『使える』とでも踏んだのだろうか――?
「……兄さんも失踪してるし、白羽の矢が立った訳だ」
吐息を一つ零す。或いは兄が健在であればこうはならなかったかもしれないと……
貴族にとって婚姻とは大きな意味を持つものだ――家同士が繋がり、血を共にすることによって結束と成す。そうして政治的な意味合いを強めていく……などという事は、遥か昔からずっと行われている貴族の常。
王家周りなどは特に苛烈極まるものであろう。
誰が頂点の隣にあれるかで今後の政治情勢が目まぐるしく変わるのだから……
たしか王家に近しいミーミルンド家にも色々あったとか――まぁそこまでではないにせよ、ノルン家も幻想に在りし貴族としてそう言った出来事に無縁ではあれない。リウィルディアも幼い頃から伯爵家令嬢として『いつかは』と教え込まれてもいたものだ。
少なくともあの当時はそれをおかしいと思っていなかった。
貴族の者としての責務でもあったから。だけれども今は……
「…………それで、リウィルはどうするんだ?」
と、その時。
アオイが視線を此方に。合わす様にしつつ紡ぐのは。
「縁談が来たっていう事は、どうにせよ聞かなかった事には」
「ああ――出来ないね」
元々の話。そう、縁談をどうするのかという事。
わざわざ手紙が届いたのを無視は出来まい。受けるにせよ断るにせよ何かしらアクションを起こさねばならぬと。苦笑する様な笑顔を浮かべつつ――しかし。
「――いや、実はね。なんとか断った」
実はもう既に決着はしているのだと。
リウィルディアは吐露する。此処に来たのは相談の類ではなく、愚痴の類であったのだ。
困った手紙が来たのだと――彼に話したかっただけ。
「……貴族の話はあまり詳しくないつもりだけど、断るとか出来るのか?」
「まぁ、その辺りは色々と、ね。言い方とか理由とかがあれば出来ないことも……って所かな」
覗き込む様にアオイが見てくる。あぁ、あぁ嘘ではないとも。
流石に簡単とはいかず苦慮はした。正面から『断る』文章を書いてもダメだから。
あれやこれやと理由を付け、己がイレギュラーズであるという立場も込めて。
様々な観点から尚早であるとしたのだ――
時期が早い、として先延ばしにするのもまた貴族社会における一つの所作。遠回しにお断りの意ではあるのだが、相手の顔を潰さないように言の葉を選べばまぁなんとかもなるものだ……
が。これで終わりとは限らぬものではあるが。
しかしそう言った話はまた起こるとしても未来の話だ――少なくとも現在においては、己が知らぬ誰ぞの所へと往く予定などなく。
「――そっか」
で、あれば。
「それなら良かったな」
「――アオイ?」
「だってよ、リウィルがもし結婚したら……おいそれと会う事も出来ないだろ?」
アオイもまた口の端を微かに緩める様にするものだ。
それは彼の本心。彼の奥底より自然と湧き、器の端より零れた――感情の一端。
嘘ではなく。溢れる程に露わにした訳ではないけれど。
「それはちょっと――寂しいからな」
(ああ……)
それでも、リウィルディアは胸の内が暖かかった。
なんだろうかこの感情は。いや、違う。分かっているのだきっと己は。
――いやそもそも縁談を回避した理由は、きっと。
彼がいたからだ。
「――アオイ」
貴族としてずっと考えていた。ああいう話がいつか出るのだろうと。
だけれど。いざとなった際に脳裏に浮かんだのは――ずっとずっと一人だけの事。
「聞いて欲しい事があるんだ。どうか、君に……」
「んっ?」
「僕は」
アオイ。
ずっと君の事だけを思い浮かべていた。
瞼を閉じても君が映る。どれだけ拭おうとしても拭えない思い出があり続ける。
「僕は、ね」
だから。
「君、が好きだ」
あの日から、ずっと想っていた。
君が僕を、僕が『女』であるという事を――受け入れてくれた日から、明確に。
ずっとずっと隠していたことを君はいつもと変わらない様子で受け入れてくれて……
本当に、心が救われる気持ちだったんだ。
君の事は他と違う特別な感じだと思っていたけれど……
あの日以来、愛おしい気持ちが確かに胸の奥に。
この世で誰か一人を抱擁出来るなら――貴方こそを抱きしめたい。
魂が求めているのだ。
「――」
「あ、いや。アオイ。大丈夫だ、何も言わなくていい。
違うんだ――君から答えを貰いたくて言った訳じゃないんだ。ただ、でも、僕は」
が、刹那。
アオイの沈黙に、途端にリウィルディアは我に返ったように……矢継ぎ早に紡ぐ言葉は曝け出した筈の心を、言の葉で覆い隠す仕草の様で。
「僕は――」
かつて『女』であることを告白した際にも精神的な重圧があった。
押しのけたは勇気。そして彼の掌の温もり。
――だけれども何故だろう。まるで桁が違うかのように心に焦燥が湧く。
どうして、何故。幾度想えどしかし口から零れるのは己も意図せぬ言葉のみ。
拒絶されたくない。嫌だ、違うと言われたくなど――
瞬間。彼女の足は自らも予期せぬ方へと駆けだしていた。
彼方へ。脳裏に過る不安を掻き散らす為が如く――
彼の声も流すように。己を呼ぶ声が、聞こえなかったかのように。
●
空が曇天の模様に染まっている。
雨が来るだろうか――そう思っていれば、案の定だ。
頬を掠める雨粒があると思えば一気に振り出す。
窓を閉め、家の中へと避難する者がいる……その中で、リウィルディアは路地裏へ。
冷たき雫が己が体を濡らそうとなんの気にもならぬ。
――それよりもどうして己は駆けだしてしまったのか。
逃げ出すぐらいであれば最初から何も言わなければ――
「……ははっ」
自嘲するように。呟いている内にも身は濡れる。
ああ。あの日もこうだっただろうか……書斎館へと向かおうとしていた己らを出迎えた突如の大雨。着替えないとな、なんて彼が呟けば『女』であることを明かしていなかった己はつい狼狽してしまった日――
あの日よりも心が揺れ動いている。どうして、どうしてと。
……自らを明かすという事。彼に一歩近づくという事。
ソレらはまた違うという事なのだろうか?
近付くのをもしも、もしも、もしも――拒絶されるなどという事があらば――
「――――」
そんな事があらば、己はどうして縁談を断ったのだ――?
そう思考した、してしまった瞬間途端に怖くなったのかもしれない。
……親類が求めてきたのは『女』としての己。
その身を誰ぞに委ねる事が繁栄に繋がるのだからと。
だけど嫌だった。
貴族にとって個人の感情など排すべきである。そんなモノを優先していては貴族間の闘争など勝ちえない。そして勝てなければ滅ぶのみ、だ。只人と異なる領域に身を置く者は只人などと同じ人生など歩めない――
だけどそんな理屈なんてどうでもよかった。
「アオイ……」
だって僕は、君がいいんだ。
君が、好きなんだ。
言わなければ言わない程に深くなる。心の内に押し込めれば押し込める程に狂おしく。
だから怖いんだ。
君に拒絶されるのが。
「僕、僕は、ね」
貴族の身に生まれながら、上手く生きる事が出来ないなぁ――
兄さんだったらどうしただろうか。もっと上手くなんとかしただろうか?
……いや、どうであれ僕の問題だ。
それよりもどうしたものか、と。全身を濡らす雫が彼女の熱を冷まし思い起こす。
――アオイから逃げてしまった。なんと言って戻ろうか。
まるで迷路の中に迷い込んでしまったように彼女の心は戸惑い。足がどこにも進まず。
寒さに震える体が――温もりを求めて――
「――リウィル」
瞬間。
彼女の頭部に――何かが乗る。
それは彼の掌。あの日と同じ、彼の――温もり。
「えっ、あ」
「探したぞ? 全く、いきなり走り出すからどこに行くのかと……」
「な、どうして」
此処にと。言うのだが、上手く言えない。
心の臓が跳ね上がり呼吸が荒く。しかし――
「落ち着け、大丈夫だから」
「――ぁっ」
「大丈夫。大丈夫だから……」
彼が言葉を重ねれば鼓動が安らぐ。落ち着きを取り戻せば己が視界に世界が戻る。
――眼前ありしはアオイの顔。彼の青き双眸が己を捉えてい、て。
「俺は、さ。誰かを好きっていう感覚が――分からないんだ」
直後。彼が言うのはリウィルディアへの返答とも言うべき一声。
それは拒絶でもなければ抱擁でもなく。
ただただ彼が真実自らの心中を吐露しているだけ。
……かつての世界において彼は仕事漬けの毎日であった。
兵器を整備し歯車と毎日向き合い、鼻先に煤が付くばかりの毎日。
その最中に誰かと心を交わせる余暇がどれほどあっただろうか。
――故に分からぬ。友は分かり、同僚は分かり、家族は分かっても。
魂を共にしたいとする者の在り方そのものが――分からないから戸惑ってしまう。
自らの中へと踏み込んでくる者が、分からないから……
「でもさ」
だけれども。
「ありがとな。リウィルにああ言われて……悪い気はしなかった」
だけれども――
「俺は、嬉しいよ」
「――」
それが彼にとっての正直な心であった。
リウィルディアが打ち明けた瞬間に沈黙してしまったのは――戸惑いがあっただけの事。それは嫌だからという訳ではなく、そういった方面に疎いが故……つまりリウィルディアの気持ちに全く気付けていなかったからだ。
混沌に召喚されてから――随分と日々が楽しくて。
だから、その日々に慣れすぎていたのかもしれない。
けれど彼女が面と向かって言ってくれたおかげで気づけた。
知らないから戸惑った。分からないから動揺したけれど。
最後に出てきた感情は決して薄暗いものではなかった。
いやむしろ……あの感情は……
「本当にうれしかったんだ――ありがとう」
だから、逃げないでくれ。
大丈夫。
大丈夫だからと。何度も何度も彼女に紡ぐ様に。
「ァ、オイ……」
「まぁ、ちょっと、そのビックリはしたけどな」
「――お、女の子だって言う時は、ビックリしなかったのにかい?」
「あの時は気付いてたというかそれはそれというか、これはこれというか……」
互いに綻ぶ心の糸。
そしてアオイは自らが羽織っていた服を一つリウィルディアへと被せる――
「とにかく一度帰ろう。その恰好のままじゃあ、風邪を引いちまう」
「あ、あぁ……そうだね」
「――また着替えないとな」
あの日の様にと。彼の笑みが其処に在る。
――ああ変わらない。
彼はずっとずっと変わらない。いつもと同じでいてくれる。
女である事を明かした後も。己の気持ちを明かした後も。
だから好きなんだ。
…………この想いがどこまでいけるかは分からない。
縁談の反故の話。断ったのは事実だが、しかし。拒絶した理由が他に好きな者がいるから――などとしれればどうなる事か。『ならば』と何かが起こる可能性もある。全くないとは言い切れない。
だけれども、嫌だ。
眼を塞いで生きるのは。耳を閉じて、己を塞いで。
心を縛り付けて生きていくのは……
かといって令嬢という生まれながらの
例え関係が断絶に近い状態であろうとも。
斯様な話が来たように――無縁であり続けられるとは限らぬ。
それでも。
「……ありがとう」
「んっ?」
「あのね、アオイ」
雨の音。その最中に掻き消え、余人誰の耳にも届かぬ言葉をもう一度。
君だけに伝える、たった一つの真実。
溢れる心の雫が――頬を伝って雨粒に蕩けた。