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【鏡写しの泉】この遠い世界からでも
登場人物一覧
「……ここか」
草木をかき分け、俺はふう──と息をついた。
気持ちのいい場所だ。鳥のさえずりを聞きながら、ゆるりと視線を巡らせる。
澄んだ水で満たされた泉の水面が、木漏れ日に照らされてきらりと輝いた。
──軽い気持ちで受けた、何てことはない薬草採取の依頼。
特段、魔物などの危険な存在が居るという話を聞くこともない平和な場所であるものの、これだけ雑草や名も知らぬ植物が乱雑に生えているのだ。普通の『ヒト』が指定された薬草を上手に判別するのは難しいのだろう。
まあ、そんな訳で鼻の利く自分にお鉢が回ってきた、ということだ。
「ふむ……」
しかし、あの泉が気になる。まるで引き寄せられるように、その泉に視線を奪われるのだ。
警戒するに越したことはないが──まあ、何かしらの危険があっても、後れを取ることはないだろうと判断した。
何より、此処に来るまで休みなしで歩き通したのだ。少々休んでも罰は当たるまい──と、俺はその泉に歩み寄った。
●鏡写しの泉
「……」
一瞬、眩しいほどの光が泉を覆ったかと思うと、その泉は明確に『ヒト』の姿を映していた。
驚いた。どうなっているんだ? これは……夢なのか?
それは、もう二度と見ることは無いと思っていた──『私』の顔だ。
伏し目がちの目。白い肌に薄い唇。
ありふれた、ごくふつうの現代日本に生きる青年。
そう。『私』は、日本人だった。
忘れていたわけではない。だが、何故だか当時の記憶が、靄に覆われたようにぼやけている。
現実味を帯びていないような不思議な感覚に、地に足浮くような浮遊感を覚える。
そうしているうちに、鏡の中に居る『私』と視線がぶつかった。
すると、目の前の『私』は、黒髪を揺らしながら、ゆっくりと口を開いた。
「この地に降り立って、数十年──帰りたいと、思いませんか?」
鏡の中の『私』はぽつりぽつり、と穏やかな声で語りかけてくる。
「家族は、元気にしているでしょうか」
幼かった弟も、今は立派な青年になって居ることだろう。
彼が、家族の面倒を見ているのだろうか?
苦労を掛けるな──そう、心の中で呟いた。
「人狼一家であることを、隠し通せているのでしょうか」
現代日本において、俺たちのような人狼という存在は異端だ。
存在が明るみになればどうなるか──想像に難くない。
心配だと伸ばす手は、ただ空を切るだけで。
「友人たちは、どうしているでしょうか」
人狼という秘密こそ隠し通してきたが、それ以外のことはなんでも相談してきたし、信用していた友人たち。
夜遅くまで話したり、遊んだり、騒ぎあったり。若かったな、と苦笑する。
彼らは、突然居なくなった自分のことを、どう思っているだろうか。
──時間の流れは、大切だった友人たちの顔すら、霞ませる。
「故里に、帰りたいと思いませんか」
雄大な海が広がる、小さな町だった。
潮のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、友人たちと駆け回った幼き日。
消波ブロックの上で釣竿を垂らし、魚釣りに興じたあの日。
足を滑らせて転んで、大けがを負ったっけか。
あの痛みは今でも思い出せる──そう思っていたのに。
嗚呼、その記憶もずいぶんとぼやけている。
「嫌だ。戦いたくない。幾度も傷つき、傷つけ──浴びた血の匂いが、こびりついて離れないんだ!」
傭兵となって間もない頃、『ヒト』の血の匂いに咽び、苦しんだことを思い出した。
洗っても洗っても、血の匂いは身体に纏わり付いて消えない。
それは今まで傷つけた者たちの呪いであり、俺への報いなのだろうか、とも考えたくらいに。
嗅覚が過敏な狼の姿では猶更、辛かった。
「私は、ただ平和に暮らしたかっただけなのに……」
あまりに唐突に手放すことになった、宝物。
混沌への召喚は、『私』から『家族』を奪った。『友人』を奪った。『故郷』を奪った。
そして──『ヒト』を食わぬ人狼である『私』に対し、『ヒト』であることすらも奪った。
帰る手段も見つからず、人の姿をとる事もできない『私』は、ただ蹲り、震えていた。
この地に骨を埋めるしかないと悟って、怖くなった。
──ひとり。たったひとりで、知り合いの居ないこの世界で、寂しく死んでいくのだ。
●決意
──クツクツ、と喉で笑った。
鏡の中の『私』は、ずいぶんと小さく見えた。
今更すぎるよ。もう、とっくに諦めているんだ。
今も熱心に研究を重ねている練達の者たちには悪いが、俺が生きている内には帰れないだろう。
ならば現状を受け入れ、最大限に生き抜くしかないし──何より、この世界も捨てたものじゃない。
この姿でいても、驚かれることが無い。ありのままの俺を受け入れてくれる。
確かに『ヒト』の姿には戻れなくなってしまったが、俺と似た、人狼の姿をした知人が出来た。
彼らが戦うなら、俺も爪を振るうことが出来る。淀んだ血の匂いにも耐えられる。
それに、俺もいい歳だ。異世界でイチからの人生とはずいぶんと突拍子もないが──まあ、独り立ちするにはちょうど良かったのかもしれない。
勿論、心残りが無いわけじゃない。
だが、彼方より此方を。だから──。
──泉に落ちる、葉一枚。水面に波紋が広がると、泉は元の姿を取り戻す。
水面にゆらゆら映るのは、見慣れた人狼の姿だ。
嗚呼──懐かしい夢を見ていたようだ。
長い、長いため息を吐いた。
郷愁の念に駆られていない、といえば嘘になる。
だが、それに縋るだけでは、ダメだと気付けたから。
「……おっと」
──依頼を完遂しなければ。
漂う濃い緑の匂いに、鼻がひくつく。
間違いあるまい。目的の薬草はすぐ近くにあるはずだ。
泉の中の自分がニヤリと笑った。嗚呼、今にもヒトを噛みつきそうな、人の悪い笑顔だ。
だがまあ、生まれ持ったモノだ。今までも、これからも、付き合っていくしかない。
泉から離れて、草木を踏み分け進んだ。
──立ち止まるな。この世界が滅べば、俺の生きてきた世界も滅んでしまう。
俺は、俺のやれることを。一歩ずつ、少しずつ。
家族を、友人を、故郷を。そして、この世界で出来た仲間を。
この遠い世界からでも、俺はその宝物を守れるはずだから。