SS詳細
理性的鏡像
登場人物一覧
●調査報告。
貴家より調査依頼を受けましたD氏(以下、仮称ガブリエル・デマレ氏の名を用います)の病的な窃視癖に改善は見られません。
1.
偶然は運命の積み重ねだ。
僕が偶然落ちていた新聞を見た事も、僕が偶然マルベート・トゥールーズの名を知っていた事も、僕が偶然近づいたタイミングで開いた紙面に彼女の絵姿が載っていた事も。
あらゆる全ての事象が、僕の運命の女性は彼女だと示していた。
もっと彼女の事が知りたくて、人を雇って調べた。
マルベート、マルベート・トゥールーズ。
何て美しい音だろう。天の音楽、響きの福音。
マルベート、あの天使のような微笑みを思い出す。
マルベート、あの小悪魔じみた仕草に魅せられる。
マルベート、マルベート!!
舌の上で名前を転がすたびに生乳のように繊細で、珈琲のように仄かに苦い思いが心を掻き乱していく。
乙女のように髪をかきあげる仕草も、あどけなく小首を傾げる姿も、妖艶な緋色の目も、若鹿のように健康的でしなやかな肢体も、壊れた機械を前に目をくるくると回した表情も、ランニングに輝く汗を流す姿も、何もかもが素晴らしい。
ワインが好きなこと、私服は黒色が多いこと、相手を弱らせる不思議な力を使うこと、機械の操作はあまり得意ではないこと、狼が好きなこと。
調べるほど彼女は様々な顔を見せてくれた。
特に僕を魅了したのは世界を救う特異運命座標としての顔だった。
ローレットへの登録は初期。初依頼はローレット情報提供者の誕生日祝い。心優しい彼女はパーティーの差し入れに生ハムの盛り合わせを持って行ったそうだ。美しい薔薇の形で提供されたそれらは参加者を大層喜ばせた。僕はマルベートの高い料理技術と優しい心の二つを知り、いっそう彼女の虜となっていった。
それから勇士としての顔。ラド・バウでも名高い午餐会の
彼女の名前は輝かしい歴史と共に刻まれるのが相応しい。
嗚呼、どうして幻想には闘技場が無いんだろう。これでは戦う彼女の姿が頻繁に見られない。あの無能な放蕩王は僕たちの税金を使って一体何をしているんだ? 天絹の如き翼をはためかせ、紫雷を身に纏い、時に凛々しく時に残酷に術を操り戦場を駆ける姿を目に焼き付けたい。ああ、また内乱が起きてくれたら良いのになぁ。
そして僕は、あの日の彼女と出会った。
普段は威風堂々としたマルベートが年頃の少女のように服を選び、果実の光るタルトとコーヒーの前に悠然と座り、買い物ついでに公園の屋台でアイスクリームを買ってベンチで舐めるという奇跡のような姿に。初めて目の当たりにする神々しさに何度膝を折ったことだろう。神よ、素晴らしい光景を感謝いたします。一生の宝ものです。
それと同時に僕は、自分以外の人間が彼女のプライベートを知っていることに愕然とした。
彼女の私的な一面を知るのはマルベートが認めた人と僕だけでいい。
若木のような溢れる生命力と月下美人の如き気品。中性的な色気は男も女も獣も魅了する。下賤な虫けらが可憐な花にまとわりついて、邪な視線で彼女の笑顔を翳らせてしまうかもしれない。そう考えるだけで心が痛んだ。
人を消すのは思ったより簡単だ。
壁が少し汚れがついてしまったけれど、大きく引き伸ばしたマルベートの優しい笑顔が隠してくれた。
彼女の記事をまた一枚、壁に飾る。壁を覆いつくしたがまだ足りない。
憧れはとっくの昔に崇拝へと変わっていた。
彼女の活躍を記事や絵で満足できる時間は終わってしまった。今度は僕が自らの手で、彼女の手助けをするんだ。
僕は彼女を
悪魔に魂を売り渡してでも、あの美しい夜色の女性を識らねば。肉ある彼女の姿を両の目に焼きつけねば。それが、僕の使命だ。
2.
神も、僕と彼女を引き合わせようとしているに違いなかった。そうでなければ、この奇跡を説明できない。
見張っていたカフェに彼女が来た。
美食家である彼女は美味い肉とそれに合う葡萄酒の組み合わせを好むようで、午後からの依頼の前には外で食事を取ることが多かった。
ローレット付近での目撃情報が多い事から肉料理を出すこの店に当たりをつけていたのだが正解だったようだ。
マルベートは神が自らの手で創り給うたと見紛うばかりの肢体を太陽の下に晒し、月光のような横顔で食事に耽っている。しかも、誰もそれに気づかないでいる。
信じられない!! 君たちの目の前にいるのは、幻想を救ったあの、マルベート・トゥールーズなんだぞ!?
怒りにも似た感情の炎が頭と思考を焼いていく。
ローストされた鹿肉に銀のフォークを突き刺し、火の通りが浅い薄桃色の断面を持ち上げる。てらてらとした光沢のある赤褐色のソースが滴り白い皿を汚した。
貴族のように丁寧に咀嚼したかと思えば、まるで稚い幼子のようにペロリと赤い唇についたソースを舌で舐めとり……その瞬間、顔を上げた彼女の視線が僕を捉えた。
慌てて双眼鏡を構え直す。
そんな筈はない。この距離を道具も使わず視認できるものか。
再び見た彼女は店員を呼び会計を済まそうとしている。
さっきのは気のせいか。
今日はこれから依頼に向かう筈だ。
目があったように感じたのは偶然だったけど、彼女の全ては僕の心を狂わせる。あの眼差しに魅了されずして何が
彼女は平日の昼から依頼をこなし、夕刻には報告がてらローレットに戻る。そのついでに近くのワインバーでひとりで酒を嗜むことも多かった。
僕の日課は夕方から夜にかけてローレット近くのワインバーを一軒一軒まわって彼女が来そうな店を探す事だ。
今日の店は当たりだ。老舗であるためか店内は品のある静けさに満ちていて、程よく客で賑わっている。
カウンター席は食べこぼしも無くて清潔。時計やグラスは勿論の事、机や椅子も殆どが丁寧に使われ磨き抜かれた骨董品だった。こうやって古い時代から取り残された品をマルベートは愛していた。少なくとも愛用する傾向があった。
「隣、いいかな」
「はぁ……えっ」
ぼんやりしていた僕は声をかけられた事に最初気がつかなかった。視界へするりと射しこんできた紫紺の袖を辿って顔を上げ、驚いた。そこには愛してやまない彼女自身が立っていたのだから。
「ま、マルベートォ!?」
「おや、君とは前にも会ったことがあったかな」
子兎のように目をぱちくりとさせる彼女。威厳に満ちた兵ではなく少女のように無防備な顔。オフの彼女と一緒に居る。覚えのない甘い花の香りが鼻をくすぐる。その事実に頭が茹りそうだった。
「勿論! あ、いやそのつまり、王都メフ・メフィートに住む者で君を知らないやつなんて居ないという意味では会ってるよ」
僕の言葉にマルベートはふぅんと目を細めた。直接目の当たりにする本物の彼女の微笑みは、紙と全然違う。一瞬たりとも目が離せなかった。
「今日は、あんまり食べないんだね」
テーブルの上には香草を乗せた黒スグリのリキュールソーダとスライスオリーブを乗せたプロシュットだけ。
「ああ、今日は屋敷で食事をとろうと思ってね」
そう言ってマルベートはグラスを一気に傾けた。
艶血に似た色の液体が白い喉を通って彼女の胃の腑へおさまっていく。その姿に見惚れていた僕を、妖しい流し目が貫いた。
「新鮮な食材が手に入りそうなんだ。良かったら君も一緒にどうかな」
白い指先が蛇のように触れた。彼女から、僕に。
「店に入った時から君の事が気になっていたんだ。隣に座りたいと言ったのはただの口実さ。その若さ、瑞々しさ、肉体の豊満さに、どうやら私は惚れこんでしまったらしい。しかも君は私の熱心なファンだと言ってくれるじゃないか」
――運命だと思わないかい。
唾液を飲み込む喉骨の動きが億劫で、動かなくなった脳みそが麻痺しながらも必死に頷けと叫んでいた。
断る理由なんてどこにも無い。マルベートが優しく僕の手を引く。まるで夢の中にいるかのような、そんな心地で星の無い夜道を歩いた。
ゆらゆらと、どこを辿ったかも分からない。黒い睡蓮の花が咲く幻想的な湖の向こうに重厚な石造りの洋館が見えた。
「此処が私の屋敷だよ。環境の所為か『黒睡蓮の館』とも呼ばれていてね」
屋敷自体もだが、その呼び名も気に入っているんだと楽し気な彼女の声がどこか遠い。黒い睡蓮の花が誘うように風で揺れた。水面を漂う花弁はきっと、彼女の翼と同じ滑らかな手触りなんだろう。
「ここに人を招く事は滅多に無いんだ。君は特別だよ」
その言葉が本当でも嘘でも構わなかった。彼女の家に、内側に入り込めたという高揚感。耳元で囁かれた甘い声に理性が徐々に麻痺していく。
夜から朝にかけてマルベートが街で目撃されたことは無い。彼女はこの屋敷にある寝台で、朝まで眠るのだ。その意味が分からないほど僕は清廉でもないし、彼女に慎ましやかさを求める男ではない。
屋敷の扉が開く。矮小な人間を一口で飲み込む悪魔のような悍ましい肉の赤々しさが見えた。それは煌めいたシャンデリアの光に真紅の絨毯の色が反射しただけだったのだけれど、この扉をくぐってしまえば、僕たちはもう二度と元の関係には戻れないという、そんな確信があった。
僕はマルベートがどんな人間であろうとも全てを受け入れる覚悟ができていた。
いま、この黒い世界には君と僕の二人しかいない。君の愛を受け止めて、僕の愛を捧げよう。
だって僕らはこれから、ずっとずっと一緒なんだから。
●失踪報告。
ガブリエル・デマレ氏失踪の為、調査を終了します。
おまけSS『黒睡蓮館の楽しい食卓』
とろけるような熟成肉を作るためには時間と低温保存が必要である。
器材が揃っていても暑い時期には難しい。
熟成、というからには死後硬直後のタンパク質の動きに期待しなくてはならず、必ずしも完璧な味として完成する訳ではない。
赤身の多い肉ならまだしも、脂肪分の多い肉。
さあ、どうしたものかと愉しい悩み。
愛は開くほどあったし懐いてくる子犬ほど可愛いものはない。なので感情的味付けは上々だ。
串に刺して鉄板で焼いた肉汁滴る理性的な一皿よりも、血肉の一滴すらも残さず丁寧に欲望的に食べるほうが相応しい。
このサシの美しさといったら、見ていて飽きない。肉塊ごとローストしたレアとワインの組み合わせは外せない。
暑い日が続くから、さっと湯通しして柑橘系のソースであえてみようか。付け合わせは摩り下ろしたラディッシュ。
骨はコトコト煮込んでスープにしよう。最後には細かく砕いてスパイスと一緒に骨髄の出汁が効いたシチューに。
よく、神の逆像は悪魔だと言うじゃないか。
さあ、明かりを灯して。理性的で欲望に満ちた晩餐を始めよう。