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雨渡のカプリッチオ
登場人物一覧
●雨を渡る
朝から自分の重たさで落ちてきそうだった雲は、どんよりと鈍色をして。
色濃くなっていくそれが、天涙を零さずに耐えてくれたのは昼過ぎまでだった。
しとしとぽたりとしとやかに降ってくれればいいのに、降り出した雨にはそんな情緒を感じる余裕なんて微塵もなく、大粒の雨がバタバタと慌ただしく大振りの葉を叩いていた。
「わ、わ……」
少しの雨ならそのまま歩を進めようと思っていた『埋れ翼』チック・シュテル (p3p000932)は、慌てて近くの商店の軒先へと飛び込んだ。
街から街へ、何処かからまた何処かへ、何処まででも。旅をする中で友人やちょっとした居場所が出来たけれど、それでも色々な場所へと足を運び続けるチックは、いつだって旅の中。旅には、慣れている。少しくらいの雨なら雨用のローブを着込めば気にはならない。けれどそれは、少しくらいの雨ならば、だ。烟るように降られては、雨宿りした方がチックにもチックの
此処は豊穣の地。馴染み深くない場所で無理はしない。
「……ミィ、大丈夫? 濡れて、ない?」
『みぃ』
雨の中ではぎゅっと抑えていたローブの胸元を寛げてやれば、小さな鳴き声とともにぴょこんと小さな頭が生えた。
白と紺色の斑のふわふわな毛を静電気で少し立たせている、小さな仔猫。名前は、ミィ。ある夏の日の夜に邂逅し、その後チックと行動を共にする友達だ。
「さむく、ない……?」
問いながら指先で毛を整えるように小さな額を撫でてやれば、ミィは気持ちよさそうに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。大丈夫そうだ。
しかし、ローブと自身とで絶対にミィを濡らさないつもりではいるけれど、突然雨に冷やされた空気は熱を奪うかもしれない。何処か落ち着ける場所があれば良いのだけれどとチックは辺りを見渡した。小さな同行者を入れても良い場所はあるだろうか。
ふいに、空が陰る。
堪えきれずに涙を零す重たい雨雲で元より明るくはなかったけれど、雲向こうの太陽の恩恵を受けていた視界に影がさした。大きな鳥か、はたまた己のような飛行種が塒に急いでいるのだろうか。けれどそうであるならば、その陰りは一瞬で、サッと通り過ぎて終わりだろう。
不思議に思って見上げれば、そこには――。
(……ひと?)
ひとが、宙を渡っている。飛ぶわけでも跳ぶわけでもなく、まるで
水底から水面を見上げているような、不思議な心地だった。雨に沈んでしまったのだろうかとすら錯覚した。不思議で、いっとき刻を忘れて見入った。
雨を渡る男と目が合ったような気がしたけれど――すぐにふい、と逸らされる。気の所為だったのかもしれない。
ところが。
――なぁん。
細く、頼りなさげに響いたミィの鳴き声に、スイと中空を移動をしていた男が止まる。笠から垂れる虫の垂れ衣めいた布が揺れて、男がチックを見た。
(――あ)
距離と雨とでその表情は知れないが、今度は確実に、男が見ている。
水が跳ねる音を伴い、
着地した男は何事もなかったかのように直様立ち上がると、チックが目を白黒させている間にも、男が長い足で距離を詰めてくる。
「君」
「……ん、と。おれ?」
「そう、君」
辺りを見渡しても、軒下にはチックしかいない。
気付けば男が手に持つ長物分の距離を空けて、男はチックの前に立っている。先程は見えなかった表情が見える距離。笑った猫のような狐のような顔をした、奇妙な男だった。
「猫、連れているの?」
「……うん。ねこ、いる」
「そう」
バサリと衣を翻し、男はチックに背を向け、そのまま雨の中を歩いていく。
「あの……」
何だったのだろう。
猫の有無を聞く意図は?
問いたげに響いたチックの声に応えるように、男は振り返り、静かに答えた。
「ついておいで。君と君の猫が温まれる場所へ案内してあげる」
猫が風を引いてしまうよ。
囁くような男の声に、チックはローブの中でしっかりとミィを抱え直す。突然の行動に少し驚いてしまったが、そのためにわざわざ降りてきて案内してくれるようだ。
(……悪い人では、ない……のかも)
チックはフードを深く被り直し、男の背を追う。
烟る雨の中に、男の姿が消えてしまう前に。
雨の中、男は。
「危険なところへは連れて行かないよ。僕は、劉・雨泽 」
名前くらいは知っておいたほうが安心でしょと、男は――劉・雨泽 (p3n000218)は、そう名乗った。
●雨に烟る
雨粒を零す家々の軒先の間を足早に通り過ぎ、角を曲がること幾つか。大店ではないが瀟洒な酒家や茶屋が立ち並ぶ一画を歩んだ。
「ここだよ。――女将、いる?」
振り返りそう告げた雨泽は、戸をカラリと開けて店へと入っていく。
「……うん。健勝そうで何よりだよ。部屋を借りてもいいかな」
「女を連れ込むんじゃないよ」
「もっと温かくてよいものだよ」
チックが追いかけて店内へと入れば、老女といくつか言葉を交わす雨泽がいて、「手巾も貸してほしいな」とだけ残し、慣れた調子でそのまま女将の横を通り過ぎてしまう。
「……あの、」
「気にしなくていいよ。――おいで」
「おじゃま、します」
「強引に連れてこられたクチだろう? ゆっくりしておゆき」
勝手知ったる何とやらと奥へと向かう雨泽が揺らす垂れ布を目で追い、チックは女将にぺこりと頭を下げて続いた。
そうして通された部屋は、窓のある座敷だった。畳の上には卓と座椅子が置かれ、ゆったりと寛ぎながら窓の外を眺められるように作られている。薄らと開かれた障子の向こうでは未だ雨が振り続けている。靴を脱いでねと言ってよこした雨泽は、笑みの形を刻み続ける唇をふいに思い出したかのようにア、と開けた。
「猫もくつろがせてあげて。動物の連れ込みを禁じている店は多いけれど、この店は大丈夫だよ」
だからここへ連れてきたのだと雨泽が吐息で笑った時、「アンタはいつも訪いが急すぎるよ」と女将が手巾をチックへと手渡してくれる。この男のことは気にせず、濡れたところがあれば使いな、と。
「ここの女将は気前はいいけど、口うるさいんだ」
軽口を叩いた男の姿が、寸の間消える。頭上の大きな笠を外したのだと、一拍を置いて気付いた。
室内だと邪魔になるからねと笠を外して壁に立てかける男の頭上に、赤。燦々と輝くような宝石――否、宝石めいた角だ。
「角……。君は……豊穣の、人?」
ローブを脱ぎかけていた手が止まる。ジッと静かに注がれた視線に気付いたのか、「ああ」と雨泽は自身の頭上へと手を伸ばした。表情はずっと笑顔のままだが、吐息のみで笑う気配にチックはゆるく首を傾げる。彼はあまり角が好きでなはいのかも知れない、と何となくだがそう思った。
「うん、そうだよ。獄人ってやつ。外つ国の人だと鬼は怖いもの……だったかな」
「……ううん。鬼の人、悪い人じゃ……ない。知ってる」
「そう」
同時にその言葉は、彼等が差別されている種族だと言うことも知っている、ということだろう。
鬼人――黄泉津言葉では、獄人。精霊種から迫害を受けたり、差別を受けることもままある種族である。
言葉を交わす間にも濡れた上衣も脱いで身軽になった雨泽は、さっさと座椅子へと向かって寛ぎ始める。
「まあこの地に居る時は特に出さないけれど、隠しておいた方が旅をする上では楽なんだよね」
「えと、ラウ……も、旅……してるん、だね。おれも、一緒」
ローブの襟元を寛げた途端に元気に仔猫が飛び出して、部屋の中を物珍しげにウロウロと探検を始めた。雨泽の顔が静かにそちらを向く。出会った時も猫を気にかけていたし、猫が好きなのだろう。気になるものを見つけては近寄り、ふんふんと匂いを嗅いでみたり丸い前足でちょちょんと突いたりする姿にチックはやめさせた方が良いだろうかと気にするが、雨泽は片手を振ることで大丈夫と示してみせた。
「そうじゃないかと思っていたよ。君、土地勘なさそうだったしね。そうだ、君。名前を聞いても?」
「おれ、は……チック。チック・シュテル」
「チック。小鳥のように愛らしい名だね。――と、褒めているよ。可愛いと言われるのが嫌いだったらごめんね。チック、そっちの元気で素敵な毛並みの可愛い子は? 君のともだち?」
「……うん。この子は、ミィ」
『みぃ』
名を呼ばれたと思ったミィがチックへ顔を向けて鳴いた。
「ミィは自分の名前のわかる賢い子なんだね」
そのままトトトと近寄ってきたミィを抱き上げ、ローブを脱いだチックも座椅子へと向かう。外からざあざあと告げる音が、強い雨はまだ暫く続くことを告げていた。
「入るよ」
チックが座ったタイミングで戸が開く。顔を覗かせた女将が茶と団子の乗った盆を持ってきてくれた。雨泽の一言だけで察したのだろう、子猫用に煮干しも載っている。
「あ……ありが、とう」
「ありがとう、女将。でも僕は酒のほうが好みなのだけれど」
「アンタは一言多いよ。連れがいるんだ、我慢しな」
えーとはーいの間の子みたいは返事を返した雨泽を呆れたような目で見た女将は、再度チックへゆっくりしておゆきと告げてから部屋を出ていった。
「店の人、やさしい。ラウは……親しい、する、してる?」
「女将とは結構長い付き合いかな。僕が獄人でも他の客と態度を変えたりしないし、こうして部屋も貸してくれる。うん、そう思うと女将は君が言う通り優しい人と言えるね」
暖かな湯気が立つ茶碗を持ち、ふうと息を吹き込んだ。立ち上がる湯気は一度途切れたけれど、すぐにまた立ち上る。雨泽は口を付けずに、鳥が彫られた茶托へ戻した。
カタンと小さな音とともに、室内には静かな空気が流れた。
外の雨の音と、仔猫が齧る煮干しの音。
茶の良い香りに室内は支配されている。
チックは穏やかな時を好むし、言葉が辿々しくなってしまうから、そんなに話す方ではない。だから眼前の男が口を紡ぐと自然と静かな空気で室内が満たされる。
しかし、この雨泽という男。よく話す方の
「チックはミィとふたり旅なのかい?」
「うん、そう。ミィと会って……ずっと、一緒」
「こんなに可愛い子と会えるだなんて、チックは幸せものだね」
手のひらを茶碗で温めるチックの顔を見て、煮干しを美味しそうに食べるミィを見る。
「ラウ……は、ひとり?」
「そうだよ、肩が凝るからね。僕は自由が好きなんだ」
『み!』
口もとをペロンと舐めたミィが満足そうに顔を上げる。
「おいしかった?」と尋ねながら自身の懐を弄った雨泽が、スッと何かを取り出した。
「……ラウは、ねこ、すき?」
「好きだよ。温かいし、可愛いからね」
「いつも、それ……持ってる、する、の?」
「持っていない時もあるよ」
つまり、大抵は持っているということだ。
雨泽が取り出したソレ――猫じゃらしがミィの動きに合わせてピッと振られれば、ズザーッとミィが転がっていく。すぐさま立ち上がり、ぺん、ぺんと繰り出される素早い猫パンチ。時折当ててやりながらも躱し、お尻をフリフリ目をランランとさせるミィを翻弄した。
時折会話を交えながらゆるりと時を過ごせば、いつの間にか雨は上がり。
外からの音が聞こえなくなった事に気付いたふたりは身を整えて店を出た。
「――チック」
名を呼ばれて振り返る。
「今度会う時はさ、雨泽って呼んでよ」
そっちの方が
それじゃあまたね。チックが口を開く前に掌がひらりと振られて。
「また、お茶をしよう」
言葉と同時に雨泽が地を蹴り、男の姿は屋根の上へと消えた。
「……うん、また」
翻った裾に、声は届いただろうか。
一期一会かもしれない。けれど何故だかまた会えるという予感がある。
みぃと鳴いた懐を見て、チックは僅かに唇の端を緩めた。
「見て、ミィ。空……虹、かかる……しているよ」