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歓びの朝はおだやかな熱を帯びて
登場人物一覧
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白いカーテンがふわりと揺れた。穏やかな陽光が降り注ぎ、心地の良い風が室内に流れ込む。
細いその躰には余りにも似つかぬ程に膨れた胎。撫でつければぽこりと音を立てた様に少し動く。
ぎしり、と病室のベッドを軋ませる。
「もうすぐですよ」
膨らむ腹を撫でながらエイル・ヴァークライトはにんまりと笑みを浮かべる。
「ああ。エイル、辛くはないですか?」
「誰だと思って居るんです? これ位! 辺境でモンスターの卵を奪取したときよりもへっちゃらですよ。……はやく、逢いたいですね」
とん、とん、と腹を蹴る衝動は時折痛みを伴うものではあったが、エイルはそれさえも心地よく感じていた。
「名前を決めたんです」
「名前?」
「ええ、名前――。この産まれてくるこの子の、名前は――」
唇に乗せた言葉は、何処までも甘い。
スティア、と。そう、笑みを浮かべたエイル・ヴァークライトにアシュレイ・ヴァークライトははた、と瞬いた。
「良い名前です。エイルと、この子――いえ、スティアと共に歩む日々が楽しみだ」
胎をぼこりと蹴る痛みと重くなっていく身体。
辛いだろうと背を撫でるアシュレイの掌に心地よさそうに目を細めて、エイルは「不思議ですね」とアシュレイを見遣った。
若い頃はこうして『病室で寝ている』なんて事は想像しなかったとエイルはアシュレイに可笑しそうに笑った。
「だって、辺境地帯にまで足を運んで火を噴くモンスターのタマゴを奪取しろという依頼を受けた時は病室で寝ているではなくて墓の下に居ると思って居ましたもの」
「エイル、何度も言いますが出会ったばかりの私は君の葬式に行かねばならないのかと不安になっていましたよ」
「まあ。戻ってきたらすぐに出迎えてくださったじゃありませんか」
形の良い唇を悪戯に尖らせてエイルは笑う。何気ない夫婦の、何気ない日常。
アシュレイにとっては騎士として人々を断罪する日々の中で、エイルと――そして、新しく増える家族と――の何気ない日常がかけがえのない物の様に感じられていた。
交流のある貴族や、親交のあった騎士たちの中で不正義の者が居れば断罪されていく日々だ。自分がいつ『そう』なるか分からない状態の中では妻と、スティアと名付ける新たな家族との日々はとても大切で。
誰もが羨む夫婦であるとは自負している。ただ、新たな家族――子供――となれば不安がある事は否定できない。
そのような事を口にすれば、腹に子を宿したエイルを不安にするだろうかと、言えずにいるがアシュレイはエイルが「大丈夫ですよ」「へっちゃらです」と笑うその笑顔で安堵を覚えていた。
その笑顔は安堵を与え、そして、不安を消し去るのだ。
貴族の妻となった時にエイルは笑っていたのだから。
――あら、大丈夫ですよ。貴族であろうと平民であろうとも何も変わりはありません。
――少しだけ、ほんの少しだけ穏やかに微笑むだけです。
嗚呼、なんと心強いだろう。きっと、彼女と二人ならば難なくやっていけるはずだ。
エイルと共に『スティア』の手を引いて歩む事が今から楽しみになってくる。
小さな掌を握り、おいでと手招くその光景が浮かぶようでアシュレイの口元に笑みが浮かんだ。
「まあ、どうかなさったの? アシュレイ様」
「……なんでしょうか? エイル、私の顔を見て、どうして笑って……?」
「いいえ、笑ってらっしゃるから。なんだか、嬉しくなってしまったの」
可笑しそうに笑う。エイルの手は胎へと添えられている。時折、驚いた様に眉を顰めるその様子に「蹴っているんですか」と問い掛けるその声にエイルは緩く頷いた。
「エイル」
「なんでしょうか?」
「……その子は――スティアはどんな子になるのでしょうね?」
「私に似て、きっと『穏やかで可愛らしい子』になりますよ」
冗談のようにくすくすと笑うエイル。彼女は貴族の妻として申し分のない女だ。
凛として美しく、そして何においても物怖じしない彼女。穏やかな反面、やんちゃな冒険者であった彼女の快活さは何よりも救いだ。
冗談めかすものだから、アシュレイもついふざけて見せる。
「君に似ればおてんばになるだろう」
「ががーん」
子供の様にそう言って首を傾ぐ。それは彼女の幼いころからの癖だそうだ。
さらりと長い銀の髪が揺れる。エイルはまたも淑女らしからぬ幼い子供の様に『やんちゃな顔をして』笑った。
「数年後、『お父様』を二人で困らせるようになりますよ。
お父様を置いて辺境へドラゴン退治に行くかもしれませんし、嗚呼、もしかすると他の国へと冒険に出ていってしまうかも」
「それは……困るな。『お母様』も共犯者とは……私はどうすればいいんでしょうか?」
「ふふ、『日常生活にはスパイスが必要よ』? 共犯者は曲者ですよ。
何せ、辺境位なら意気揚々と出かけてしまいますもの。
……ねえ、アシュレイ様――とても、とても楽しみですね。早く、逢いたい……」
スティア、と胎を撫でる。目を伏せて、感じる胎動に身を委ねる。
母の声に反応するように、とん、とんと返す蠢き。
聞こえているのかしら、なんて冗談を交えるエイルの様子にアシュレイは微笑ましいと目を細めた。
もうすぐ、なんですよ。
そう言うその声に僅かな憂いを感じる。
「……不安ですか?」
「いいえ――いいえ、けれど」
死神の鎌が迫りくる。その気配を刻一刻と感じながらエイルは目を伏せた。
悟られぬよう、気取らぬよう、只、幸福に身を委ねるこの時間を大切にする様に。
「焦って、居るのかもしれません」
「焦る?」
「ええ。もう直ぐだとは分かっているのです……けれど、早く逢いたくて。
私の事、母と呼んでくれるかしら、なんて。まだ、先なんですけれど」
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その日は、美しい朝だった。
白いカーテンが揺れている。数時間前に産気づいたというエイルが病室から出ていってから随分と時間が経った気がしていた。
木で出来た椅子に深く腰掛けながらアシュレイは知らせを待っている。彼の人生の中で『出産』というイベントは未だ携わった事がないものだ。月日と共に胎が膨らみ、その胎動を感じるというエイルと比べれば自身はまだ娘の片にすら触っていないのだなと頬杖をつく。
彼女の事だ、出産の痛みを労わればお道化た様にして笑うのだろう――きっと「冒険者の頃なら」なんていつもの調子を付け加えて。
早く逢いたいと笑っていた。ならば、逢った瞬間に感激するのだろうか。
嗚呼、早く彼女の喜ぶ顔が見たい。スティアと呼ぶ声が聴きたい。
スティアを抱きしめて、エイルを労わろう。考えれば考える程に期待で胸が膨らんでいく。
カーテンが、揺れる。
ひらり、ひらりと。春先の風は未だ冷たく、それでいて心地よさを感じさせる。
カレンダーを見遣れば3月12日。11日までの日付にはエイルが小さな猫のマークを書き添えていた。
以前聞けば「可愛いでしょう」と言っていたが、日に日に迫る出産への不安を紛らわせるものであったのかもしれない。
猫のマークの隣には一言だけ添えられていて。
今日はよく蹴った、だとか。胎がぽこぽこと言っていた、だとか。
そうした様子でも彼女が『スティア』を心待ちにしていたことが伺える。
ふと、顔を上げれば使用人たちの慌ただしい足音が聞こえた。
アシュレイ様、と呼ぶ声と、その響きに含まれた気配にアシュレイの眉間にしわが寄る。
胸騒ぎと共に、有り得てはいけない『もしも』が胸中へと過る。
「奥様が――!」
――そこから。
――そこから、アシュレイはあまり覚えてはいない。
慌て、エイルの許へと駆けつければ、ふにゃあと子供の泣き声だけが響いている。
小さな、赤い体を縮こまらせて目いっぱいに息を吸い込んだ子供の生命の息吹。
それを見下ろして、アシュレイは口にした。
「……スティア」
呼んで、タオルにくるまれた小さな体を抱きしめた。
あまりに軽く、腕の中の存在が人間なのだと言われても実感は湧かない。けれど、確かな体温が其処には宿されている。
アシュレイはその小さな掌に壊れ物を扱う様にして触れた。握り返す、小さな気配。
アシュレイ様、と呼ぶ声に顔を上げることが、今の彼には出来なかった。
「……スティア、『君は』――無事だったんですね」
唇が戦慄いた。その響きの意味を、スティアはきっと理解しないだろう。ふにゃあとまだ弱弱しい声を上げて泣いた体をそっとベットに横たえる。
その向こう側に、彼女がいる。
笑みを、その喜ぶ顔を楽しみにしていた、愛しい彼女。
白いシーツの上で眠るエイルの姿がアシュレイの両眼に映り込む。
「エイ、ル」
美しい銀の髪はシーツに広がり、窓から差し込む陽射しでアシュレイの髪の色を分けた様にきらりと輝いている。
ふにゃあ、ふにゃあと何度もなく小さな娘。かけがえのない――これからエイルと共に歩む小さないのち。
『エイルと、共に』
アシュレイの唇がきゅ、と引き結ばれた。
「エイル……」
真白の肌は、余りに冷たく常の朗らかな笑みを返すことはない瞼はきつく閉ざされていて。
目を開かなければ、この愛おしいいのちを見ることさえできないではないか。
手を動かさなければ、この愛おしいいのちに触れることさえできないではないか。
言葉を発さなければ、この愛おしいいのちの名を呼ぶ事さえ出来ぬではないか。
君が、名付けた名前を。君が、この世界に導いたいのちを。君が、愛した――そのかたちを。
「エイルはいつ……」
「奥様は、お嬢様がお生まれになった時には、もう」
その言葉にアシュレイは爪が食い込むほどに拳を固めた。
スティアという新たな命がこの世界で息をした時に、エイルはもうこの世界には居なかったのだ。
逢いたいと、あれほどまでに言葉にして、焦がれた愛おしいいのちの生誕は彼女のいのちと引き換えになった。
それを不運と呼ばずして何と呼ぶか。
そう、不運だったのだ。
神は彼女のいのちの在り方をそう、決めた。
神が彼女を攫ってしまった――我らが最愛の主は、エイルの運命をそう決めてしまったのだ。
ひとつのいのちを生み出すことが容易ではない事などアシュレイは知っていた。勿論、エイルもだ。
しきりに「スティア」と呼び、幸福そうに笑っていた彼女はもしかすると、この未来を予見していたのかもしれない。
ああ、きっとそうだ。聡い彼女は――きっと、気付いていたのだ。
神が彼女の魂を召そうとしたそれ。気配をしきりに感じていたに違いない。
彼女はそれでもスティアをこの世界に生かすことを選んだ。自分のいのちではなく、スティアを、と。
その時に、決めたのだ。
エイルと自分たちはそれからの運命(みち)を違えてしまった。
それを哀しみ、スティアに愛情を注がなければ、エイルは困った様に言うだろう。
「アシュレイ様。子供とは、親を見て育つのです。
子供はそれでいて聡く、両親の愛情をしかと受け止めます。
私達が愛情を注がなければ、彼女は愛を知らず、私達が向き合わなければ、彼女は人と向き合う事を知らない儘。
私達が道を誤れば、彼女もまた道を誤ってしまう。
ですから……ですからどうか、曇りなきよう――スティアに幸福を授けてあげましょうね」
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、 悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも。
君と共に在り、君を慈しみ、君を只、愛する――それはエイルだけではない、この新たな家族、スティアもだ。
君に誓おう。
君が愛した『スティア』を、私は守ろう。騎士として、君のための剣として。
――私の正義は妻と娘のためにあった。
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『もっと共に居たかった』と願ったのは間違いではない。
それはアシュレイも、エイルも、感じていた。愛しい娘――彼女と共に在る未来を願ったのだから。
歎きの君は、口にする。
――大切な、貴女。
ゆるやかな毒の様に侵食する、愛情という名の狂気。
嗚呼、けれど、それはまだ遠い未来の話で。
今は只、彼女の産まれた歓びの朝を、その小さな体が息をして熱を帯びていくその刹那を。
ただ、ただ、抱き締めて居たかった。