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トラオム、聞いていて
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切り取られたような四角い窓。開け放てば豊かな緑が萌えている。其処から見える代わり映えのしない世界――それが『私』のすべてだった。
白いカーテンが初夏の風に揺れている。模様替えしたばかりの真白のシーツの上に広げた花々はどれもが語りかけるかのように青々としていた。
ベッドの上に腰掛ける幼い少女。蒼穹を映し込んだアクアマリンの眸に、不揃いの前髪が被さった。美容師さんの真似をしてみたくて、勢いよく鋏で『ちょん切った』だけの前髪が乱れてしまわぬようにと『お母さん』が準備をしてくれたヘアクリップはどれも窓の外に広がる壮大なる緑の気配を孕んでいた。
アレクシア・アトリー・アバークロンビーは花弁を一枚一枚丁寧に毟り取る。命の気配が失われるような他愛も無い戯れ。少女の鳶色の髪は寝癖でぴょこんと跳ねたまま。フリルを揺らしたワンピースに身を包んで、一枚一枚。丁寧に毟り取っては窓の外へと投げてゆく。そうして茎だけが残された。見下ろして、嘆息する。
「あーあ」
漏れ出でた吐息は晴天の空にも、暁天にも、似付かわしくも無い湿気孕んだ雨の如く。リズミカルとは決して行かない想像も付かないような雨の日がアレクシアは好きだった。腫れているだけの穏やかな一日は変化なんて感じられやしない。穏やかに朝が来て、穏やかに暮れてゆくだけ。そんな日常だなんて思えない程の、怠惰な毎日がアレクシアは嫌いだった。
少女の世界は四角い窓。それからベッドの上だけ。カーテンの色は季節ごとに母とカタログを見て選んでいる。父は自信が望めば出来る限りを与えてくれた。
自転車に乗ってみたいの。練達という国ではあるのでしょうと問い掛ければ自転車は壁飾りになった。
可愛らしい赤い靴が欲しいの。幻想という国の石畳を躍る様に歩いてみたいと望んでみれば赤い靴は棚に飾られた。
それが両親の優しさである事をアレクシアは知っている。だからこそ、鳥渡した意地悪だったのだ。母が花瓶に活けた花を毟って窓の外に投げ捨てる。その花弁に気付いて誰かが窓の外から遣ってきてくれないか、なんて浅ましいほどにもある両親への意地悪。彼等は窓の外の花弁に気付いてから娘が寂しがっていることを気付くのだ。
――そんな意地悪をしたからって、何かが起こるわけでも無いけれど。
そうして毎日の自己嫌悪を行うのだ。何だって与えてくれる普通の両親に、窓の外から覗き込んでくれる近所の子供達。手を差し伸べて、日々の営みを語らい聞かせ、お土産だと団栗や木のみを拾い集めて笑う。そんな彼等がアレクシアという個人のためにわざわざ『おみやげ』を拾い集めてくれる優しさが、痛くて苦しくて――いいや、違う。違うんだよ。お父さんも、お母さんも、友達も、なぁんにも悪くはないんだ。悪いのは『何も返せない』私。だから、『私』は『私』が嫌いなんだ。
ぶちぶちと、毟った花弁は己のようだった。何時だって、こんなくだらない姿になっても
「アレクシア、新しいお花は何色が良い?」
「……んー、今日は晴れているから、青かな!」
差し込む穏やかな陽光は、時計の秒針同士を口付けさせる。ちくたくと、奏でた規則正しいリズムに倣うように追い付け追い越せ、精一杯の短針に「そんなに頑張らなくって良いのに」と不機嫌顔のアレクシアはベッドの上から動くことが叶わない。
生まれた頃から満足に動くことの出来ない四肢は虚弱体質なのだと両親に聞いていた。生まれ持った物だから。そう言われてしまえば「そうなのかな」と漠然とした納得を。
アレクシアにとっては部屋の中、窓の外から見える景色、ベッドだけが己の世界であった。
手の届く範囲に作られた棚には幾つものプレゼントが並んでいる。
何時か其れを履いて出掛けたいと願った可愛らしい赤い靴。乗ってみたいと願った自転車に、何処かの海を描いた絵画。世界を構成する『世界とはなんたるか』
その中でもアレクシアが一番に気に入っていたのが『天使』の御伽噺であった。父がプレゼントしてくれたそれは、悲しい話であるのに関わらず、如何したことか心を掴んで離さないのだ。
絵本の頁をゆっくりと開く。天使になりたいと願った英雄のお話は、心の柔らかな部分にナイフを突き立てるようだった。柔肌をなぞる冷たい気配。ひやりと伝って、そして突き刺すような痛みを覚えさせる。
一人の少年は英雄となった。沢山の人を救う為に少ない犠牲を払ってきた。アレクシアにとって、どうして少ない犠牲を肯定できたのかは理解が出来ない。
それ以上に、英雄という存在が神様のように思えて。誰もが彼を愛するはずだと信じて已まなかったのだ。
けれど、そんな彼は願ったのだという。
――いつか、天使になって――
沢山の人々を救うほどの英雄となったのに。それでも彼はまだ願うのだ。
『何ものにもなれない』アレクシアは悄然とした。恵まれているくせに、どうしてそれ以上を求めるんだろう。
唇を尖らせて、ずるいとシーツの上でばたばたと足を動かしたい衝動に駆られる。それでも、次の言葉にどうしようもないほどに心を惹かれる。狡くて、狡くて、堪らない。
それでも、どうしようもなく焦がれるような。甘ったるくて莫迦らしくって幼稚で、幼い言葉。
――いつか、天使になって世界中の不幸を摘み取りたい。
けれど、不幸な誰かを見る事が幸福な人もいる。その人から見れば私は悪役なのかもしれない。
ああ、けれど、それでいいの。私にとっての正解は不幸を摘み取る事なのだから――
――もしも、私を悪だという人が居たならばその人の事も覚えておこう。
この世界にそうやって生きた人がいた事を。忘れてはいけないの。
だって、その人はそうして生きて来たのだから。それを否定してはいけないの。
その人が生きたという事を確かに、私は覚えておこう。それがその人へのせめての手向けなのだ――
アレクシアはそこまで読んでから理解出来ないとベッドにごろりと転がった。
誰かに嫌われてまで、その人を好きで居られるだなんて。どんな心地なのだろう。御伽噺が返事をするわけではないけれど。もしも、英雄に会えたなら聞いてみたかった。
優しい皆に、報える自分になるために。無力な私は、誰かに嫌われてまで、その人を好きで居られるのだろうか。
そんな、答えなんて何処にも無いのは分かっているのに。自嘲してからアレクシアはシーツの上に転がった。
ずきりと体が痛んだ。浮かび上がった淡い気配。魔法だ。小さな頃に行きずりの魔女が悪戯めいて施したという魔法。
混沌世界では『稀にある』と言われた奇病の一種。魔女の魔法と呼ばれた其れは、体内の魔素が少なければ少ない程に肉体を侵食していくらしい。
これが、魔力を食べているのだと、そう言われた。治す為には外的な影響を齎さねばならないと、そんな有り得もしない可能性に縋らなくては為らない奇病に、両親だって、アレクシア当人だって諦めていた。
リュミエ様のような素敵な魔法使いになりたかった。魔法使いになって、世界を救いたいと夢見たことだってあった。
四角く切り取られた窓の世界、その『外』に憧憬を抱き続けた自分がバカらしく感じられて。諦観は常に傍らで歌っていた。アレクシアを嘲笑うように、傍らで歌い続ける諦観は何時だって自己を肯定するための材料のようで。
諦めきれば楽だと言うのに、諦めることの出来ない停滞を抱き締めて、
そんな物に諦めて、絵本にばっかり問い掛ける。
だからこそ、培われるべき倫理観も子供らしい残酷さもアレクシアにとっては絵本の中での世界であった。花を毟って、捨てる行為だって子供じみた我儘でしかなかったのに。
それでも、其れが肯定される世界が煩わしくて汚らしいとさえ思えて同じように繰り返す。
花弁を毟って、毟って、毟って。
自身を慈しみ、厳しく叱ってくれる両親は、その行為だけは叱らなかった。
アレクシアにとっての精神安定の一種として受入れられていたのだろう。鳥の羽をむしるわけでは無い、人を傷付けるわけでは無い。切り花を恋占いのように毟るだけ。
幼い少女の幼い行いに怒りの鉄槌が落ちるわけでは無い。そうした日には愛情を寄り煮詰めたように優しい声音が抱き締めてくれるのだ。
アレクシアと名を呼んでくれる優しい両親に。アレクシアと笑いかけてくれる優しい友人に。
――
あれ、とアレクシアは首を傾いだ。擡げた疑問から黒い濁流が溢れ出す。理解も出来ない程の嫌悪感が喉奥から迫り上がる。
唇を尖らせて、音を飲み込むように嚥下した。ごくん、と音を立てた唾は乾ききって無理に滲ませた程だったのに。
口蓋に引き攣ったように音が張り付いた。同情なんて言葉は何処にも必要は無かったはずなのに。そんな、誰かを否定するようなくだらないことを考えてしまった自分が酷く、悍ましい生き物に感じられた。優しい誰かに報いることの出来ない自分が、その誰かを否定する。そんな恐ろしい己の在り方が許容されてしまうことが酷く、怖かった。
気付けば、眠っていたらしい。夜の帳の傍らで、開け放った窓を覗き込むように梟が首を傾いで。眠る時間なのに悪い子だと揶揄うように鳴いた梟の声色に、母が部屋に入ってくる物音がした。
「窓を開けっぱなしにしてしまったの」
少しだけの叱る声音。それから、愛おしそうに撫でる指先が。頬を滑って、落ちて往く。眠った
私の体が動かないのは貴方達のせいじゃないのよと口にすることも出来ないような。そんな穏やかで恐ろしい時間。父と母にとって、体をぴくりと動かすことも厭うような病に冒された娘はどれ程に恐ろしい存在だっただろう。自分を責めたのだろうか。そんな人達に私は
……屹度、眠かったんだ。眠ってしまえば、明日には忘れていられる。
誰かの優しさを享受して、それに返せない愚かで無力な私を責めていられるだけの普通のアレクシアになれるはずだから。
「アレクシア」
父さんの声がする。「今日はプレゼントを買ってきたけど、また明日にしようか」
「アレクシア」
母さんの声がする。「よくお眠り。明日はどんなお話をしよう?」
私の世界の半分は二人で出来ている。私の世界は、父と母で作られた。小さな窓に、世界を沢山詰め合わせた飾り棚。沢山の絵本と、夢を詰め込んだ世界。
外に出ることが無くっても、これで世界を知ることが出来ると、机上だけの世界旅行を楽しむように。様々な国を模した贈物ばかりが並んだ
そんな場所で、私は両親の声色に甘えるように擦り寄るのだ。抱き締めて、手を繋いで、二度と話さないように慈しむ心の傍で眠っている。
おやすみなさい、と囁かれる言葉が遠く私を導いてゆく。
ゆらゆらと、この世界は揺り籠のよう。眠りに落ちれば揺蕩うだけ。母の胎内で揺らぐ水音を聞いていたような。微睡みの傍らで私は固く目を閉ざして何も聞かず、見ずに過ごすのだ。
この鎖された世界が開かれたときに、屹度忘れてしまう幼い頃の思い出に。
ちっぽけすぎた世界が、色褪せてしまうその刹那に。
……だから、トラオム、聞いていて。
遠い遠い物語は