SS詳細
撚り合う糸と雨の雫
登場人物一覧
●或る雨の日
ひと粒、ふた粒。
降ってきたと思ったらあっという間だった。
滝のような豪雨は近場の軒先でやり過ごしたところで、地面で跳ね返って膝まで濡らしてしまう。
当分止みそうにないなと思って、家の主にしばらく滞在する許可を得ようとして。
――空を見る。
雨は、好きでも嫌いでもないけれど。
唯、消えないものを思い出す。
●撚り合う糸と糸
己が愚かだったのかも知れない。
暗殺者の系譜にあって、まず重要なのは継ぎ重ねるべき素質。
己は他と比べて、その時点で及ばなかった。
足りないものは他の倍以上に努力を重ね、死ぬような思いで知識と技を磨いた。
その研鑽は実を結び、有能な一人として認められるに至った。
『その腕では最早前線での任務はこなせまい。今後は後進の育成に励むように』
だというのに、どうして。
或る時の、ただ一度の任務で、頼みの利き腕は生還の代償に切り裂かれた。
辛うじてものを掴める程度の、凡人以下の代物に成り下がったのだ。
そのような者に任せられる『後進』も、決して将来を期待された『有能』達ではなく――結局は本来の己と同じような、『素質の足りない者達』だった。
――前線で使い物にならなくなった己など、結局はその程度の価値しかなかったのだ。
そんな拭いきれない不満と諦念が、揺るぎない劣等感へと凝り固まった頃。
「素質が『全く』無い?」
不思議な『後進』を預かった。
どうも突然変異で素質が低いどころか全く無く、調整や強化の薬も効きが悪いとか。
薬が合わないために床に伏せることも多く、まともに訓練ができない日も少なくなかった。
そんな『後進』を、初めは軟弱だと思いもした。
『無い』なら、死ぬ気で這い上がれと。己がそうして認められたように。
彼はまだ若く、それができるのだから。
「今日は何か食ったのか」
「白湯を、少し。気分が悪くて、固形物は」
「そんなもんで熱が下がるか、早く訓練に戻って貰わないとこっちが困る。
粥を用意してやるから、少しでも食え」
軟弱な彼へ、いつしかそんな風に世話を焼くようになっていた。
それは優しさに見えたかも知れない。だが、そうすることで満たしていたのだ。
全てに於いて己より劣る彼に接する間だけは、少なくとも彼より自分は優れていたから。
この凝り固まった劣等感を満たす、優越感を得られたから。
それが危険であることもわかっていた。
深く接し、縁を結ぶほど。その相手が未だ不安定で幼いほど、『運命の糸を撚り合わせてしまう』から。
それが教団の教えに反することは、重々理解した上で。
その糸を撚り合わせる行為は――仄暗くも、残酷なほどに、満たされるものであったから。
●絡み合う糸と糸
やはり、己が愚かだったのだ。
「先祖返り……だって……?」
軟弱な『後進』は、確かに暗殺者としての素質は皆無だった。
しかしそれとは別の、『一翼の蛇』の加護を得ていたらしい。
その加護は、この教団に於いて特別な意味を持つ。
それが判明した時から、この『後進』の意味が変わってしまった。
何も意味が無く、ただ劣っていて愚かなのは己だけだと、理解してしまった。
「師兄、」
「声を出していいって言ったか」
『搦め手』の訓練と称して床に縫い付ける。
組み伏せて、細い喉に刃を掠めれば糸筋ほどの傷が残る。
胸から下には既に幾筋もの赤を刻みつけた。
「お前は前線での戦闘には向かない。素質が無いんだからな」
「では、これは」
「力のない者でもできる方法だ。これなら、ろくに動かない俺の腕でもできる……お前一人の命を奪うことだってできるんだ」
言えば、納得してしまう『後進』。
愚かだ。本当に愚かだ。こんな物は己の八つ当たりでしかないのに。
『一翼の蛇』の加護を持つほどの者を、その尊厳を貶めて、消えない傷を刻んで。
そうすることでしか、もう己の自尊心を保てなかった。
そうでもしなければ、この『後進』を本当に手にかけてしまいそうで。
撚り合わせてしまった糸は、もう雁字搦めの結いの目になってしまいそうで。
●解ける糸と糸
結局、己が愚かだったのだ。
あの『後進』に傷跡が増えているのを、教団の医療技官に怪しまれた。
己の手によるものとわかれば、この後進育成の任さえ解かれてしまうかもしれない。
そうなれば最早、死んだも同じ――それだけは避けねば。
屍人退治の任務に便乗する形で、『後進』ともう一人の半人前を連れて神殿を出た。
ここへはもう戻るまい。教団内には別の系統の派閥もある。
以降はそちらへ身を寄せるつもりで、任務の後に使者と合流する手筈も整えていたはずだった。
砂漠の雨期。
砂地に河を作るほどの突然の雨に襲われた三人は、どうにか雨だけは凌げる廃屋へ身を寄せる。
互いの声すら叩き消される雨音の中、外に『それ』を感じた。
経験からわかる。これは《死》だ。《死》が凝った屍人だ。
「実戦訓練にはちょうどいいか……お前だけ一緒に来い」
「師兄、俺は」
「お前は来るな。足手纏いだ」
素質が無いこと、前線での戦闘には向かないことを教え込んだ『後進』は、そう言われれば大人しく引き下がる。その瞳には自尊心の欠片もない。
こんな時に、そんな姿にさえ、己のどこかが満たされるのを感じる。
――置いていきたくない、などと。感じてしまったのだろうか。
迎え撃った屍人は、よりによって己らと同じ暗殺者の系譜の者だった。
必然と能力も高く、『撚り合わされた糸』も強い。
対してこちらは、かつての実力を万全に発揮できない己と、経験の足りない半人前。
結果が出るまでに、さほど時間はかからなかった。
「ぃやだ、死にたく……な……」
「お前はもう助からない。……それは俺も同じ事か」
どうにか屍人だけは退けたものの、『糸』には抗えなかった。
先に《死》へと引かれたのは、致命傷を負った半人前。ついで引かれたのは、その半人前にとどめを刺した己。既に屍人によって負わされた腹の傷も大きかった。
意識が途切れる少し前に、見馴れた影を雨の中に見る。
「師、兄…………」
――そんなことって、あるか。
あれは今、何をした。《振り払った》……?
「アー、マ……デル……」
死にたくない、というより。置いていきたくない。
彼だけは。裏切った彼だけは。
彼が生き残って、己だけが死ぬなど、そんな愚かで惨めなことが。
「…………」
そんな己のために、どうか泣かないで欲しい。
せめて泣くなら、幼子の癇癪のように泣き叫んでくれ。
壊れた人形が溢すように、涙を流さないでくれ。
でないと――ただ、ただ。
己が愚かになるばかりだ。
●或る雨の日の雨上がり
消えない傷は今も残る。
師兄が最後に、何を思って名を呼んだのかはわからない。
ただ、あの日に自分が流した涙は今も覚えている。
自分は道具ではなくヒトだったのだと、初めて知ったものだった。
師兄を失いたくなかったのだと、悲しかったのだと。
己の無力が悔しかったのだと知ったから。
――ふと、雨音が静かになる。
見上げた空では雨雲が切れ始め、薄らと日が差し始めていた。
いつまでも他人の家の軒先で、過去に耽るわけにもいくまい。
そろそろ、行くか。
おまけSS『師兄の姿』
●満ちていた頃の話
師兄は、利き手にうまく力が入らないらしい。
任務から生還する際、神経ごと深く斬られてしまったからだとか。
何とかものを持てる程度には回復したらしいが、それ以上には戻らなかったと。
そんな師兄が、折を見ては自分の世話を焼いてくれた。
薬が合わなくて伏せがちだった頃から、何故かよく気に留めてくれていて。
「どうだ。食えそうか?」
「…………」
「味、わかるか?」
味はわかる。匂いもわかる。
ただ、食欲のない今の自分にはこれすらも辛い。
どう伝えたものか迷う内に、胃から迫り上がってくる感覚。何も食べていないのに。
「ああ、粥も無理か……悪かったな、水だ。飲めるか」
差し出してくれた水を、その手ごと握り急いで喉へ流し込む。
どうにか戻してしまうことだけは避けた。
「水は大丈夫か……なら、果物の汁はどうだ」
「……味と、匂いがあるのは」
彼の厚意は有り難いが、正直に話す。今は本当に水だけで精一杯だ。
「そうか……医療技官は何か言ってたか? このままだと何も食えないぞお前」
「薬の効きが悪いらしいので……本当は鍛錬もしたいのですが」
そもそも、鍛錬を休みがちな自分に何故ここまで。
一度聞いてみたこともあるが、「後進の面倒を見るのが自分の仕事だから」としか教えてくれなかった。
多分、嘘ではないだろうか。自分にかかる時間があまりにも多く、あまりにも長い気がする。
そう思いはするものの――彼が自分で言うのだから、恐らくはそれが正しいのだろう。
「体力が戻らなきゃ鍛錬も何もあるか。体質ってのも厄介だな……」
水を飲むために起こした体を横たえられる。そろそろ帰るのだろう。
「また明日来る。早く元気になれよ」
「はい……おやすみなさい、師兄」
見守られながら、目を閉じる。
彼の気配はしばらく傍らにあってなかなか去らなかった。
それどころか、自分はその気配を感じながら眠りに落ちてしまうことが多く。
思えば、師兄とは。
深い縁を結んではいけないとわかっていながら、己でも気付かぬ内に伸ばしてしまったのかも知れない。
師であり、兄であり、近しい人であり。
そのような人に向けられる、運命の糸を。