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ペールグリーンの姫君
登場人物一覧
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小高い丘の上から見渡せばアルパイン・ブルーの空と綺麗な町並みが広がる。
アレクサンドラ・カルティアグレイスはこの場所がとても好きだった。
爽やかに吹き抜ける風がカルティアの赤い髪を浚う。
長いまつげがふわりと上がり、蒼穹を讃えた青い瞳が前を向いた。
「さてと。今日はどんな楽しい事が起こるのかしら?」
意志の強そうな視線で眼下の街をを見渡してカルティアはゆっくりと駆けだした。
カルティアグレイス領はレガド・イルシオンの南西にある小さな街である。
気候は穏やかで首都や観光地とはほど遠い。所謂田舎というやつだった。
鉄帝侵略や天義事変はおろか、国内で起こった幻想蜂起やサーカスとの交戦すら噂に聞いた程度という平和ぶりを保っている。山に囲まれた小さな街を攻め落とした所で、得るものは雀の涙ほど。隣接する領土からも攻める利点は無いと判断され、時の流れから取り残されたように穏やかな時間が流れていた。
そんな平和な領地を颯爽と赤毛の少女が駆けていく。
――お父様は高齢なんですもの、私が政務を担うのは当然の事です。
お転婆姫のカルティアは幼い頃から次期領主として育てられた。
騎士道に帝王学、魔術と学ぶべき教養は数え切れない程あっただろう。
特にカルティアグレイス家は代々『風』を司る魔法を宿して生まれてくる。
カルティアも例外では無く、その身に宿した魔力は成人前にして現領主に匹敵する程だという。
そこに至るまでに、積み重ねられた時間と技量、苦悩は普通の人の想像を超える。
修行の厳しさに涙を流す事も、自分では対処しきれない政務に悔しさを噛みしめる事もある。
けれど、それらを嫌だと思ったことは無く、自分の人生に組み込まれたものとして享受していた。
父親は高齢で体調を崩す事も多くなり、益々カルティアの責任は重くなっていく。
だから。という訳ではけして無いのだが多少の息抜きも必要だろう。
そう、これは重い政務を課せられた自分へのご褒美なのだ。
「今日は洋菓子店の新作が発売するのよね……じいや、ねえじいや居る?」
「はい。ここに居りますよ」
ゆったりとした動作でカルティアの声に反応した老年の男性は朗らかな笑顔で彼女へ耳を傾ける。
「ねえ、じいや。私の名前を言ってみなさい」
「……アレクサンドラ・カルティアグレイスお嬢様です」
その返答に満足した顔をしながら立ち上がる少女は、窓へと近づきバッと振り返った。
縦ロールの長い髪が遠心力で広がる。
「いいえ! 今から私は『サンディ・カルタ』よ!」
得意げに胸に手を当て瞳を輝かせるカルティア。
洋菓子店の新作はこの暑い季節にぴったりの冷や菓子だという。
冷たくてぷるんとした食感のそれは口に入れた途端ホロホロと崩れて甘さが広がると店前の看板に書いてあった。繊細なイラストがついて是が非でも食べたいという気持ちにさせられる。
――そんなお菓子を私は食べたい!
「はぁ。左様でございますか。お戻りは何時頃になりますか?」
特段驚いた様子も無くじいやは笑みを零した。
彼女がサンディになるのは珍しい事ではない。むしろ一週間に一度ぐらいは街へと繰り出しているのだ。
カルティアは寝室へ入り、クローゼットの中から『サンディ・カルタ』の衣装を取り出す。
簡素な服にハーフパンツ、短いケープと動きやすい革靴に履き替えた。
ボリュームのある縦ロールはまとめてベレー帽の中にしまい込む。
可愛い少年のように変装したカルティアは強気な笑みで寝室から出て自室のドアを開けた。
「夕刻には戻るわ。お父様には内緒よ」
少女は走り出す。堂々と正門から。
変装に意味は無く。父親も溜息を吐きながら我が子を見守っていた。
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街は活気づく。小さいながらにもマーケットには露天が並び、野菜やパンが売られていた。
タープと支柱の間からマーケットを歩くカルティアが微笑むのが見える。
「ふふ、今日も盛況ね」
このマーケットを維持しているのは領主の娘たる自分でもあるのだと少女は笑みを浮かべた。
ガヤガヤと耳を擽る人の話し声と、穏やかな風。青空には白い雲が彩りを足す。
何の変哲も無い田舎町の風景。
「やあ、『サンディ』! 今日は何が欲しいんだい?」
快活な笑顔でカルティアに話しかけるのは果物屋の女将だ。この時期はブドウが出始めた頃だからと一粒カルティアに投げてよこす。ぽすんと手に収まった黄緑色の粒をじっと見つめる少女。
「今年は美味しそうね」
「そうさ! 今年は雨も少なくてお日様が良い感じに照ってたからね。ぎゅっと甘さが詰まってるよ」
女将は嬉しそうに大きな口を開けて笑う。
ブドウは水はけの良い土地で作られる。少ない水分を凝縮して甘くなる果実は、雨が多すぎると大味になってしまうのだと昨年嘆いていたのが嘘のようだ。
日差しに黄緑色のブドウを照らすと透き通った筋が見える。それを皮のままぱくりと口に頬張れば、瑞々しい甘酸っぱさが弾けて広がった。
「本当に、今年のブドウは美味しいわ」
カルティアは果物屋の女将から買ったブドウをトートバッグに入れてマーケットを巡る。
雑貨屋に服屋、花屋に肉屋、それぞれの店主や店番が話しかけてきては品物を寄越した。
一通り巡る頃にはカルティアのトートバッグはいっぱいになる。
「ふう、結構重いわね」
肩に掛けたトートバッグを背負い直し少女は、お目当ての洋菓子店を目指す。
重さにふらりと蹌踉けたカルティア。
「おっと、大丈夫か? サンディ」
「あら、ロニーじゃない」
聞き覚えのある声に視線を上げれば、庭師の息子ロニーが肩を貸してくれていた。
何故ここに彼が居るのかというと、もちろん心配性の領主の勅命を受けたからだろう。
「お父様も心配性ね。いつもの事なのに」
「そう思うならちょっとは自重というものを……」
「あ! このネックレス可愛い!」
ロニーの小言に耳も貸さずカルティアはアクセサリー屋に飛びつく。
「ほら、貸せよ。荷物重いだろ?」
手を差し出すロニーに笑顔でトートバッグを手渡すカルティア。
しかし。
ロニーの手に荷物が渡る一瞬。
トートバッグは物陰からの来客に奪われた。
「な!?」
走り抜ける人影に振り向けば、遠くに走り去る少年の姿。
この暑い日差しの元であってもその足下は裸足。薄汚れた服は解れている。
「待ちなさい!」
カルティアが声を掛けるが、一瞬振り向いただけですぐに路地に逃げ込まれた。
「……どうする? サンディ」
「追いかけるに決まってるでしょう!」
ベレー帽を押さえて少年が曲がった路地に走り込むカルティア。彼女を追いかけるロニー。
地の利は向こうにあるだろう。けれど、カルティアには風の力がある。
「風の調べ来たりて――」
彼女の周りにペールグリーンの風が舞った。いつ見ても不思議な光景だとロニーは思う。
「戒めの檻となれ!」
カルティアが言葉を発した瞬間、風の力は前方へと収束し少年の行く手を阻んだ。
「わぁ!? なんだこれ!? どうなってんだ!?」
目に見えない風の檻を叩いて、慌てふためく少年。
「おいおい、ボウズ。悪さはだめだぞ」
少年はむんずと掴まれた首根っこに手足をばたつかせる。
「うっせえ! ちょっとぐらい良いじゃねーか! お前ら金持ちなんだろ!?」
バタバタと暴れる少年の前に立ち、青い瞳でじっと見つめるカルティア。
少年の手が彼女のベレー帽に当たり赤い髪が広がる。
「あっ、ごめ」
「君、名前は?」
「……ジョン」
女の人を殴ったという罪悪感からか少年は大人しく問いに答えた。
「そう、ジョンと言うのね」
一歩カルティアが近づけば、びくりと身体を震わせて不安気な表情を見せるジョン。
「人から物を盗む事が悪いっていうのは分かっているわね?」
「……分かってる。でも」
「でも、じゃないだろ、少年。先に言うことがあるだろう」
ロニーの言葉に地面へ落ちたトートバッグを見遣るジョン。
「ごめんなさい」
ジョンはうなだれて俯いた。カルティアはベレー帽の埃を払い再び被り直す。
彼女が路地裏の奥へ視線を向けると、傾いた軒が見えた。活気あるマーケットの裏にはこういったスラム街がある。この少年もスラム街で生まれて知識も教養も与えられず日々の食べ物にさえ困っているのだろう。
「あいつが居た頃はこんなことしなくても良かったのに……っ」
地面の砂を握りしめてジョンは悔しそうな表情を見せる。
少年の行動にカルティアは小さく息を吐いた。
こういった事は一度や二度ではない。荷物を奪い取ってでも食いつながねば、生きていけない人々がこの街には居る。そして、彼らは口を揃えて『あいつが居れば』『ボスが居れば』と言うのだ。
「でも、他人のものを盗んで良いとその人は言ったの?」
「それは……っ! 違う、けど」
彼らから伝わってくる『あいつ』の情報は、盗みや過度の暴力を嫌っていたはずだ。
カルティアが街へ降りる前に居たという『あいつ』は強いカリスマと行動力を持っていたらしい。
悔しいけれど、この街には彼の残滓が至る所に根付いていた。
特にこのスラム街には。未だ色濃く『あいつ』の影がちらつくのだ。
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「サンディ・カルタ」
この名前だったというスラム街の『ボス』について情報を集めたことがある。
軽薄だったり強くなかったり。育ちは良くないのだろう。
それが、ある日を境にこの街から姿を消した。風の噂で特異運命座標に選ばれたのだと知った。
カルティアはお目当ての洋菓子店を訪れ冷や菓子を口に頬張る。
「ん……、美味しいわ」
洋菓子店の店内で舌鼓を打つカルティアとロニー。
「んでさ、そいつがどうしたんだよ」
「私の偽物よ」
カルティアが街に降り始めた頃。この名を名乗れば訝しげだった店長達の雰囲気が和らいだ。幾度か通ううちに少女自身を見てくれるようになった。
「それは……」
カルティアが領主の娘であると、彼らが知ったということ。
けれど領主の娘という立場で市井の民と共に時間を過ごすのは他領に隙を見せる事にもつながる。
だからこそ、サンディ・カルタという存在でカルティアは街に繰り出したのだ。
「もちろん、私は『知っている』わよ」
街を取り仕切っていたというもう一人のサンディ・カルタの存在。
はじめはカルティアの方が偽物だと思われていたのだろう。
けれど、街の人たちはカルティアを許容し受入れてくれた。
「彼らが私を領主の娘だと知っている事も。それでもサンディとして迎え入れてくれることも」
いずれカルティアはこの領地を治める存在だ。その彼女を臆すること無く懐に呼んでくれるこの街の人たちの温かさ。
「だから、私は彼らに報いたいのよ。共に歩もうとしてくれている彼らに」
そのためならば、明るくお転婆な姫君を演じよう。
そして、サンディ・カルタが出来ていたスラム街の統治も成してみせよう。
「まあ、お転婆なのは元からだけどな」
「そ、そんなこと無いわよ! ロニーだって泣き虫だったくせに!」
頬を膨らませた少女の顔は年相応の可愛らしさで。ロニーはくつくつと笑ってしまった。
やがてこの小さな肩には、領民の希望が重くのし掛かる。
先ほどの様な軽い犯罪だけではない。命を落とすような事件に巻き込まれる可能性だってあるだろう。
その時、庭師見習いである自分は彼女に何をしてやれるだろうか。
「ロニーどうしたの?」
「何でも無いよ」
先の事は分からない。
けれど、彼女が気軽に街へと出かけられる内は、こうして側で見守ろうとロニーは思った。
風が吹く――
街を見渡せる小高い丘の上に少女と青年が立っている。
空はクローム・オレンジに染まり全てが同じ色をしていた。
「ねえ、ロニー。私やれるかしら」
ベレー帽を取って髪を広げたカルティアは少しだけ目を伏せる。
強気でプライドが高く、高飛車に見える彼女であっても未来に対して漠然とした不安を抱えているのだ。
「やれるさ。アレクサンドラ・カルティアグレイスに不可能なんて無い。そうだろ?」
「……」
長い睫がふわりと上がる。
「ええ、そうね。この私に不可能なんて無いのよ!」
蒼穹を讃えた青い瞳は強い輝きを帯びていた。
風を纏いしカルティアグレイスの姫君は未来に向けて視線を上げる――