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命題『いのちとはどこからくるのか』
登場人物一覧
その日、アト・サインはどうしても卵が食べたかった。
倫理と言うものを論ずるうえで必要となるのは常識だが、ローグライフ系観光客たる青年の中には常識と言う者が明らかに欠如していた。常識があってもダンジョンは攻略できないという絶対的根拠の許、彼にはあるべき知識が欠落していたのだ。
ローレットの食堂で空のどんぶりを眺めるアトに雪風は「あー……」と声を漏らした。
しどろもどろの彼はどう声をかけるべきかを迷っていたのだろう。具体的に言えば、空のどんぶりを眺める程に金がないのか、それとももう丼の中身を間食した上でまだ食べたいのか、はたまた、腹を壊したのか……だ。
「あのー、アト……さん?」
恐る恐ると声をかけた雪風にアトは「ああ」と淡々と返事を返す。
どうやら、腹の具合が悪いわけではなさそうだ。
「……ところで、山田君」
「ア、ハイ」
「純種の卵丼は何処で食べれる?」
「ハイ……?」
きょとりとした雪風にアトは「純種の卵丼だよ」と再度繰り返した。
その言葉の意味を理解できなかったのは山田雪風という少年が旅人だからではないだろう。具体的に言えば、人の形をして居る以上、胎生であることを前提に接していた彼にとっては、卵生であるかのように真面目な表情でそう言われるとは思って居なかったのだ――いや、まさか、旅人で常識が違うからと言っても純種が……? 卵生……?
雪風は混乱しながら、咳ばらいを一つ。ああ、とかええ、とか。何度も繰り返した言葉はとりとめもなかった。
「ええっと、なんの純種? え? いや、ごめん、俺、旅人だからかな、わ、分からない」
「ああ。元々すべての生物は卵から生まれてくるだろう?
ドラゴンだって卵から生まれるし、……ちなみに、ドラゴンの卵は貴重なタンパク質だった。
時々コカトリスの卵を食って石化して死んでダンジョンの一階に戻されることもよくあった」
「う、うん。そういうのはあると思う。冒険譚として、うん。」
「まあ、人間は胎生というメカニズムがあることを知ったけど。胎児を食べるとか怖いから流石にやらないよ」
アトは悩まし気にそう言ったが、雪風はいまいち理解できないのか、イヤイヤと首を振っている。
胎生と知っているならばどうして純種の卵という言葉出るのかと雪風は頭が痛む思いで「で?」と子供の様に話を促した。いまいちピンとこなかった事も確かなのであるが……一番はと言えば、『何を言いたいのかを見極めたい』という思いだ。
「それでね、ここに非哺乳類の獣種、海種、飛行種が居るな、と思ったんだ。――卵食べたいな」
「獣種とかの!? え、獣種って卵生?」
「ああ、まあね」
いやいや、と雪風が後ずさる。少年の中では彼らは同じ『コミュニケーションの取れる存在』でるため、胎生であろうと想定してたのだ。いやはや、まさかと慌てる雪風には惧れと怯え、そして『ドン引き』という言葉が似合う気配が感じられた。
驚いた顔をした彼に「あ、疲れ目だね。ほら」と目薬を差し出して、魅了の目薬をぱちぱちと瞬いて付けた雪風。
瞬くその瞳にとろりとした色が見えてアトはにっこりと笑みを深めた。
「卵食べたいよね」
「あ~、うんうん、わかる~」
能天気な声でそう言った雪風とアトの視線の先には茫と窓の外を眺めているエルピスが居た。
――一転した発言よりご理解いただけるだろうが、山田は正気ではない。
『しょうきにもどった!』とコメントが出るまで暫し気が可笑しくなった山田雪風にお付き合いいただきたい。
金の髪を風に揺らし、心地よさそうに本のページをめくる『飛行種』(※卵生だと思われてる)
「……飛行種いるけど」
「エルピスかあ……」
アトは「流石にさ、無精卵産んでくださいって頼んで『はい、1個50Gです』なんてウマい話ないだろ?」と雪風に冗談めかす。
「そんなことはありえないよなあ……」
「無精卵産まないかな」
「俺、無精卵産んだところ見た事ない」
知能指数はとても低い。雪風とアトは話を交えああでもないこうでもないと話し合いを重ねていく。
産んだところを見た事がある方が問題だがそんな事どうでもよい話であった。
「魔眼で産卵させたら?」
「そんな鬼畜なこと出来るわけ無いだろ、君には人の心がないのか!」
任意での産卵でなければ知らないうちに産んだ卵が食べられてるという事件になってしまうのだろう。
「ところで、なんでエルピス? ユリーカのほうが年上じゃない?」
「ユリーカはほら、見た目のせいで青少年の何かが危ない、ついでに背後の蒼剣で命も危ない」
「あー……」
卵は食べたい。けれど、保護者にレオン・ドナーツ・バルトロメイがついているユリーカ・ユリカになれば無精卵をくれと言った時点で大目玉な事は間違いがなかった。
その点、世間知らず、元聖女で心優しそう、一応天涯孤独の身(未亡人っぽい)であるエルピスは格好の的だった。
「あ、ほらエルピスが立ち上がった」
「産気づいてはないよな……」
「あー……結構一緒にいるけどそういうところは見た事ないな」
「なら、隠れて産んでる?」
卵生であることを疑わない二人の視線がエルピスを追い掛ける。
何かを感じ取ったかのように怯えた視線が揺らぎ、ぱち、ぱちと瞬いた。
青に擦れ違う様にふい、とアトと雪風は顔を逸らす。
今、どうかしたのですかなんて聞かれても堪えられる言葉はないからだ。
「……?」
こてり、と首を傾げた金色の飛行種。どう考えてもシリアス界隈の住民であろうエルピスに迫る産卵の危機――それを感じ取ったのか本を抱えたエルピスは「ええと」とたどたどしく言葉を選び、アトさま、と声をかけた。
「あの、わたしが、なにかしましたか?」
「ああ、いや。今からするんだ」
「……?」
「うんうん、そう。後から」
「雪風さまも……?」
ぱち、ぱち。何度も瞬くエルピスからはあからさまな困惑が感じられた。不安を湛えた瞳の色は怯えた色と共に疑問符を浮かべている。本を抱き締めた儘の彼女は何度も唸り、「あの」と声を震わせた。
「わたしが何かするのでしょうか」
「そう。ちょっとね。エルピスも経験あると思う」
「わたしに経験が……? その、聖女として長らく過ごしていたので……あまり、世情には詳しくないのですが」
「あ~、初産になるのかな」
初産、とエルピスは繰り返した。アトと雪風との間に理解のできない壁上がる気がして、エルピスは何とか脳内に或る辞書を開く。書物の世界ではなかなか初産という言葉が出てこない。そもそも、彼女の耳朶にはその言葉はひらがなに『ひらいて』聞こえている訳で、言葉の意味を理解できている訳ではないのだろう。
「その……どういう」
言葉の意味を教えていただけないか、と丁重に問い掛けたエルピスにアトは「ほら」と胎を指さした。
「人はだれしも親が存在するね」
「はい……」
「ということは生まれてくる。我々の様な哺乳類は母の腹で胎児として育ったうえで生まれてくるけれど、そうじゃない――鳥類などは卵を産んでそれを育てて胎児を孵すんだ」
「は、はい……」
生命の神秘ですね、とエルピスは声を震わせた。アトが言いたいことは何となく理解ができる。卵というものがあり、それから子が産まれてくるというのは小鳥たちの生命の営みでもあるからだ。
「それで飛行種もそうだろう?」
「え……?」
エルピスは首を傾いだ。生憎ながら彼女には『そういった知識』はない。もしもこれがユリーカであったならば、彼女はある程度の知識は――情報屋である以上はどの分野もまんべんなく知識を有しているだろう――所有している為、また違った反応を返してくるだろうが残念ながらエルピスはそうもいかない。
「そう、なのですか」
「うん」
雪風がそう頷く以上、エルピスは疑う事をやめた。彼女の知識は大体が共に時間を過ごす雪風に寄っている所はある。『あにめ』『まんが』『げーむ』とたどたどしく口にするところが見られる様子からもその影響は甚大だ。
「それで、エルピスには無精卵を産んでもらって、それを親子丼にして食べたいんだ」
「え……? そ、そのような……」
エルピスの脳内ではある程度の想像がついた。
産む――事が出来るのかは分からないがそういうからそうなのかもしれない。
それを、調理される――自分の身から落ちた物を?
それを、食べる――自分の身から落ちた物を?
「い――」
わなわな、と声が震えた。頬に熱が上がり、エルピスは首を振る。得体のしれない恥ずかしさが彼女の心をざわめかせ、恐怖心の様にわなわなと震えあがった。
「いけません――!」
慌てた様に走り出した飛行種の少女。その背を見送ってアトは「あーあ」と小さく呟いた。
そして、やまだゆきかぜはしょうきにもどった!
「エッ、あ、エッ、エルピス」
もう、何も言えないのである。