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情けは人の為ならず
登場人物一覧
●ならばそれは誰の為?
それは夏と呼ぶにはまだ早く、風が涼やかに石畳の上を駆けていき、それに乗せて小鳥達が歌を届ける、そんな時分の事だった。
色白、金髪、ゴシックロリータにエプロン姿。それ以上に目立つ、金色に輝く、秘宝種の特徴たる円錐状のコアを持つ少女が、黙々と、石畳の隙間に詰まった砂埃や落ち葉を箒で掻き出している。
これが彼女……イロン=マ=イデンの毎朝の習慣だった。
「お嬢ちゃん、今日もお掃除しているの? 偉いねぇ」
そしてそんな彼女に柔和に笑うのは、すぐ近所のパン屋の奥さん。今日も今日とて開店前に、店前の清掃に励んでいた。
「ああそうだ、もうすぐ今日最初のパンが焼けるから、お嬢ちゃんも食べて頂戴な」
「あっ、いえ、ワタシはその為に起きている訳でもありませんし……」
「いいのいいの! 働き者の良い子にはご褒美、あげなくちゃ。朝からお掃除してお腹空いちゃうでしょ」
ウチの息子、いつも起きるのが朝ギリギリなのよ。イロンちゃんみたいに『良い子』になると良いんだけどねぇ。
このやり取りも、彼女にとって最早日常の一部となっていた。
そして辺りが活気付き出す頃にはイロンもパン屋も掃除を終えて、まだ温もりの残るふわふわのパンを抱えて住処に戻り、それを朝食に一日の活力とする。
勿論、パン屑一つさえも残さず、綺麗に食べ切って。
夫妻が分けてくれるパンが美味なのもあるが、それ以上に大きな理由があった。
ーー本日の糧も、残さず全て戴きました。これはきっと、善き行い、ですよね。
食事の度に彼女は心の中でそう唱えて、小さく手を合わせるのだ。
そんなイロンは明くる日も石畳を清掃していたが、あの香しいパンの匂いが今日は漂ってこない。
不審に思いパン屋の方へ歩くと、婦人がまさに『本日は臨時休業』の紙を貼ろうとしていた所だった。
「ああ、イロンちゃん? おはよう……」
「おはようございます! 今日はお休み、なのですか?」
「ごめんね。主人が怪我、しちゃって。今日は美味しいパン、届けられないの……」
「一体どうして?」
ぽつりぽつりと、彼女は事情を語り始めた。
曰く、事の起こりは前日の夕刻。
閉店間際にパンを盗み、逃亡した男が居たのだ。
店主はすぐにそれを追いかけたが、男は激しく抵抗。
店主を力づくで振り払い、足元に転がっていた煉瓦で彼を何度も殴打、そのまま逃亡した。
幸い店主の命に別状はなく、医者に見せた所、少なくとも今日一日は安静するよう言い渡され。
パン泥棒の男は、まだ捕まっていないらしい。
「でも、お店が休みだからってお掃除はサボれないし、何より私の癖だから……」
朝から気分の良くない話を聞かせちゃってごめんなさい、明日にはきっと大丈夫だからと、婦人はイロンに深々、頭を下げ、箒を手に、付近の掃除に戻るのだった。
話を聞き終えたイロンの箒を握る手に、静かに力が籠もる。
これは正式に持ち込まれた依頼ではない。故に、彼女が動く義務などはない。だが。
パン屋の夫妻は毎朝早起きして、せっせと働いている。彼等は善き人だ。
それに引き換え、件の男はパンを盗み、その事を謝らないばかりか、店主に暴力を振るい、逃亡した。許し難い。
善良に生きているだけの人間を脅かす悪人がいると聞いて尚、黙っていることなど出来ようか。否。
婦人が店舗兼住宅に戻る前に、男が逃げた方角はさり気なく聞き出した。
ならば、後は己の脚を動かすのみだ。
●巡り巡って己の為に
ここはとある路地裏。
今日も夫妻のパン屋に接近しようとしていた若い黒髪の男を、イロンが捕らえたのだ。
「ひ、ひぃ……何だよお前……!」
己がか弱い少女と見下した筈の存在に見下され、情けなく震え上がっている。
「違う、違うんだよぉ……俺は、ただ」
「釈明は不要、ですっ」
善良なる夫妻の心身を傷つけたパン泥棒の男には、罰が必要だ。
「えいっ!」
「フギャッ!」
ポコンと威嚇術。男への罰は、敢えてそれで留めておく。
罰とはいえど過剰な暴力をしてしまえば、己もまた、目の前の彼と同じ『悪人』となってしまうだろう。それに、一件少女に見える自分に打ち負かされた、その事実だけでも、充分屈辱となるだろうから。
「因果応報、勧善懲悪、なのです!」
バタンキューと伸びた男に、もはや抵抗する様子は見られない。
背に、胸を張って、彼女は家路へとついた。
夜、いつもの時間にイロンはベッドに横たわる。
今日は、婦人の話を真剣に聞いた。パンの盗人を突き止め、そして懲らしめた。
そして今日も今日とて(秘宝種たる彼女には必須では無いのだが)、しっかりご飯を食べて、夜更しする事もなく、定時に眠りに就こうとしている。
ああ、今日も善き事を重ねた。だから。
「どうしようもない、このワタシの罪も」
いつか、きっと、許されます……よね?
その言葉が唇から零れるよりも早く、彼女は静かに、眠りに落ちた。
翌朝、箒を手にした彼女の元に。
また、いつものパンの匂いが届くのだった。
おまけSS『それはあの子のためだった』
●
とっぷり夜が更けた頃、黒髪の若い男はフラフラとした足取りで、傾いた家の歪んだドアを開けた。
極力静かにドアノブを引いたつもりでも、古い家は何をするにもキィキィと小さな音を立ててしまう。
すでにボロ屋の中に居た者も、その音を聞き逃さなかった。
「おかえり、兄ちゃん」
「ああ、ただいま……」
ボロい毛布に包まった少年は、コホンコホンと小さく咳を繰り返す。慌てた男が駆け寄るが、大丈夫だよと弱々しい声を返した。
「それより兄ちゃん、ちゃんと昨日のこと、ゴメンナサイ言ってきたの?」
「……今日は誰もいなかった。だから、明日ちゃんと言いに行くよ」
「もー、絶対、だよっ」
男があの日、パン屋に足を伸ばした理由。
弟が『いい匂いだなあ』といつも呟く匂いの元にたどり着き。誘われるように、店内へと入ったのだ。
けれど、自分達にはパン一つろくに買う金すら足りていない。
けれど、弟はいつも『こんなにいい匂いがするなんて、きっと美味しいパンなんだろうなあ』と笑っていた。だから。……有り体にいえば、魔が差したのだ。
「ほら、兄ちゃんも今日はもう休も」
「……ああ、そうしよう」
あの少女の言うとおり、自分のしたことは、許されることでは無い。明日は早起きして、今度こそ。
ちゃんとパン屋の夫妻に、謝ろう。
そう思いながら、目を閉じた。
翌朝、彼の目を覚ましたのは。
遠くに香る、あの素晴らしいパンの匂いだった。