SS詳細
不定形の罠
登場人物一覧
●
しくじった。
キドーは脳内でそう独りごちながら高い石造りの壁を見上げた。地下遺構の探索中に仲間とはぐれ、戻ろうとするうちに床に埋め込まれた仕掛けを踏んでしまったのが発端であった。
熟練の盗賊である自分が、こんな初歩的な罠――落とし穴にかかるとは。単純だからこそ見落としたのか、それとも今回の依頼で一緒になった新人とはぐれたことに柄もなく焦っていたのか。とにかくキドーは『しくじった』。その結果がこれである。
落とし穴とは単純ではあるが中々に殺傷力の高い罠で、特に落下した際の衝撃は大層なものだ。落ちた瞬間は生きていても骨折等の負傷の可能性が高く、脱出が叶わずにじわじわと命を削られて死に至るパターンが多い。
しかしキドーは身軽なゴブリン、しかも
(さてと……)
しくじってしまったのなら挽回が必要である。
キドーは愛用のククリナイフの鞘の装飾を決まった手順で押し込むと、開いた隙間から小刀を取り出した。それを岩壁の隙間に差し込み、強度と安定性を確かめる。
(よし、いつでも出れるな)
小刀を壁面に引っ掛けながら上まで登るのがそう難しくないことを確認し、小さく頷く。退路を確保するのは基本だ。そこが敵地であればなおさら。
「じゃ、本業のほうを始めさせてもらいましょうかね……」
穴に落ちてすぐ、隅のほうに物品がまとまって落ちているのには気付いていた。本来であればここで脇目も振らず脱出するべきなのは明白であるが、キドーは持ち前の強欲さと慎重さでもって脱出と盗掘の二兎を得ようとしている。
「んン……?」
いくつかの物品を足で転がしてみて、キドーは首を傾げた。落ちていたのは服や鎧やらの装備。ここで力尽きた者たちの遺品であると考えれば自然な品々であるが、納得できない点がひとつ、あった。
(ホトケが無ぇ……)
そう、死体がないのだ。転がるのは装備ばかりで骨も皮も落ちていない。
(獣が食ったのか?)
否。キドーは脳内でそれを否定する。それにしては装備の状態が良すぎた。傷もなければ血痕もない。何故ここに抜け殻のように衣服や装備だけが落ちているのか、キドーのこれまでの盗賊としての仕事とそれによる経験からもその理由を導き出すことはできず、ただ警鐘だけが頭の奥に鳴り響いた。
すぐに出よう。キドーは踵を返すかたわらその手癖――悪癖と言ってもいいかもしれない――で、転がる剣の柄に嵌った宝石を器用に抜き取ろうとした。
どぷん。
妙に水っ気のある音だった。なみなみと水を注いだばかりの水筒を勢いよくひっくり返したときのような、急激に水が移動して空気が押し込まれる音に良く似ていた。少なくとも、埃と砂にまみれた地下遺構で聞くような音ではない。
キドーは瞬時に足を引いた。しかし目の前を鮮やかな緑色が埋め尽くすほうが、ほんの少しだけ早かった。
●
最悪だ。
穴の三分の二ほどを満たした緑色のプールを揺蕩いながらキドーは思う。
「あークソッ、離せ、オイ」
プールを泳ぐことはできない。半固体状の意志持つ粘液――いわゆるスライムは、キドーの全身をがっちりと支えていた。胸から下は完全にスライムに埋まってしまっていて、身じろぎすら難しい。スライムは透明度が高く、下を見れば転がった鎧の影の壁に小さな穴が空いているのが確認できた。
(あそこから入ってきやがったのか……)
なるほど、この落とし穴は落下した者をスライムに襲撃させる罠だったのだ。キドーは脱出方法の検討をつけようと考えを巡らせようとしたが――
「うはぁお!?」
服の隙間に入り込んできたスライムの感触に悲鳴を上げたことで思考は中断された。変な声出た。誰も聞いてないよな? と辺りを見回すが、誰かが聞いていれば助けてくれるのである。誰もいないに決まっている。
「いや待て、コラッ、お前そういうタイプのスライム!?」
そういうタイプのスライムとは。スライムはそれに答えてくれるはずもなく、ただするするとキドーの肌を撫ぜながら器用に装備を外していった。武装を解除していった。もう少しわかりやすく記述するのであれば、服を脱がせていったのである。
「待て待て待て待て! いいのかお前それで、仮にもそういうタイプのスライムだったら女、美形、せめて人間をだな、うお!?」
スライムに需要を説いても意味はないのだ。スムーズに衣服を脱がされながらキドーは暴れ、喚き、そして諦めた。
(死なないならよくね? 誰も見てないし……)
開き直りである。様々な依頼をこなしてきたキドーであった。緑色のプールに全裸で漂うくらい、まあその上があろうとも、流れに身を任せていればいずれ開放されるだろうと踏んだのだ。薄暗い壁を見上げる。天井のシミを数えているうちに終わるとはまさにこのことである。
(――ん?)
しかし、天井のシミを数え終わったあたりでキドーは違和感に気がついた。
何も起きない。
確かに武装は完全に解除されたが、その続きがない。ただひたすらに揺蕩うだけで何も起こらない。開放もされなければそれ以上のことをされることもなく、キドーはただただ確保され続けた。
「お前、何がしたいんだよ……」
半ば呆れ顔でキドーはそう呟き、それからプールの底に沈む鎧や衣服をぼんやりと眺めた。
「……」
ふと。
あれは食べ残しなのではないかと思う。
血肉も骨もすっかりこのスライムの中に溶けてしまって、装備だけがきれいに残されているのだとしたら。
今自分は囚われているのではなく、『食べられている』最中なのだとしたら。
指先から少しずつ溶かされ、じわじわと、ゆっくり、消化されているところなのだとしたら。
「は……」
笑い飛ばそうとしたがうまくいかない。指先がぴりりと痛んだ気がして、そこから一気に悪寒がやってきた。恐怖と言い換えてもよかった。見慣れた緑色の肌が少し薄い緑色の粘液にじくじくと溶け出す錯覚に目眩がする。最悪の形での、苦しみぬいての、ばかみたいに不名誉な死が溶け出した皮膚から染み込んでくるような心地がした。
「嫌だ……」
キドーはもはやただのゴブリンではないはずだった。見る人によっては英雄と呼んでも差し支えなかったであろうし、大悪党であったり、ただのお人好しであったり、良き友人であったり仇敵であったりした。彼は決して練達製のゲームに登場する、序盤のダンジョンで無残に死ぬ小鬼ではない。
ないはずだ。
「誰か、いないのか」
思ったよりも情けない声が出てキドーは笑った。返答はなかった。ただ冷たく仄暗い石壁と緑色の粘液が、哀れな小鬼を見ていた。
●
「いやマジでただ服を脱がせるだけのスライムなのかよ!?」
「ロープ投げて引っ張ったら普通にズボって抜けてウケましたね」
「来るのがおせェんだよオメーは! 後輩だろうが!」
「こっちもこっちで大変だったんですよ! キドーさん緑だから、緑のスライムに埋まってるとよくわかんないし……」
「なんか言ったかァ!?」
「なんでもないでーす……」