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私を盗み出して
登場人物一覧
少女――アリス・ウィリーは資産家の一人娘として生を受けた。
資産家の子供ならば何一つ不自由のない暮らしを送れると、さぞかし羨ましがられる事だろう。
しかし、実際はそんなことはあり得ないのだと彼女は知っている。
不自由はしないかわりに自由もない。少女は可愛い娘であるが、それは大人達に都合のいい道具であるから可愛がられているだけ。
『外には汚いものが多いから』と母は外出を認めてくれない。『必要な知識は本で得ればいい』と父は新聞を読ませてはくれない。
(違う! 本でも知識は得られるけれど、私が知りたいのは『今』なの!)
心がぎゅうと締め付けられて痛かった。言葉を吐き出そうとする喉は震えて、思ったことを言わせてくれなかった。
――結局今日も、言えずじまい。
四角く切り取られた空を見上げて少女は何度目かのため息をつく。
変わらない景色。変われない自分。そういったものに何処か苛立ちを覚えながらもどう変わったらいいのかわからない自分がいて、それがさらに自分を苛立たせ、いっそ惨めだと嘆く。
そんな毎日が繰り返されていく。今日も、明日も。そうやって大人になっていって、それから――
「私はどうなっていくんだろう」
呟きは誰にも聞かれることもなく、重たく地に落ちた。
その噂は父との商談相手で20も歳の離れた許嫁からもたらされた。
「最近、無睾なる混沌(フーリッシュ・ケイオス)で暗躍をしている泥棒の話はご存知ですかな?」
「泥棒?」
少女は首をかしげた。確か前に読んだ小説にもこの世界を渡り歩き、あらゆる美術品を盗み出した『怪盗』の話が書かれていた。
けれどあれは所詮紙の上で繰り広げられる絵空事。現実ではない筈。
「それが実在するらしいのですよ。しかも『自分を盗み出してと求められたもの』しか盗まないらしい」
全く、どうせ盗むなら我々の悩みや煩わしさを持っていってくれればよいものを。
『全くだ』と彼らは笑う。
少女もつられて愛想笑いをするが、その胸中に壮大な計画を練り始めていた。
どうしたら『泥棒』に盗み出してもらえるのか。その日の夜から、少女はそればかりを考えていた。
好きな時に思うがままに外を歩くことはできない。ならば手紙を送ろう。この辺りは午後になると強い風が吹き抜けることが良くある。
風に乗せて、届けてもらうのだ。そもそも届くのか、という疑問はあるけれど、本当に来てくれるかはわからないのだから同じことだろう。
机に向かい、臼桃色の便箋を前にペンにインクを浸す。
書き出しは何がいいだろう、あまり固すぎると困らせてしまうかな。でもお願いするのだからある程度は……、
(あぁ、なんだか)
――ラブレターを書いているみたい。
普通の女の子はこういう風に悩んで、悩んで考え抜いた自分の言葉を思い人に伝えるのかな。
それって、すごく自由でとても素敵なことじゃない?
今書いているものは依頼状。それと同時に私の思いを詰めたラブレターなんだ。
そう考えるとするすると言葉がでてくる。止めどなく溢れてきて、鼓動が早まっていく。
もうすぐ書き終えるといった頃には手はインクで汚れて、便箋は底をつきはじめていた。
そろそろ身体を動かさないと身体が固まってしまう。身体を反らせて大きく伸びをすると、頭上で『視線が合った』
「お嬢様」
柔らかな物腰と無駄のない所作。最近父が雇った老齢の使用人だ。
……えぇと、たしか名前は……、
「グロウリー」
「はい。わたくしめでございます。旦那様が、お嬢様が長く部屋から出てこられないことを心配されておりましたよ」
『ですが、』彼の視線は私ではなく、その向こう。机の上の便箋に向けられていた。
「あっ……!」
これは見られてはならない、重要機密だ。
あわてて隠そうとするが、それは私の手をひらりひらり蝶のようにすり抜けて彼の手元に行ってしまった。
老いても大人は大人なのだ。子供の私が敵う筈がなかった。
そして、大人はみんな両親の味方なのだ。私の愚行はすぐに父の耳に入って、酷い叱責を受けるだろう。
きっと、このひとも。
使用人は考え込むように手をあてて、手紙を読んでいる。
どうしよう、怒られる。
しかし使用人は怒ることなく、目線を自分に合わせてこちらに訊ねてきた。
「……なるほど、これはお嬢様が望まれていることなのですね」
そんな優しくこえをかけられたら、嘘をつくなんて出来なくなってしまうじゃない。
小さく頷くと、使用人は今まで見たことのないような顔で笑った。
「ならばわたくしめにお任せください」
お嬢様の願いを叶えるのが私の勤めですので。
その言葉は、信じられないものが多いこの世界で、少しだけ信じられる気がした。
しかし、待てども暮らせども泥棒は来てくれなかった。
それどころか、あの使用人すらも近頃見かけなくなってしまった。
(やっぱり、大人は嘘つきだ)
失望にも似たどす黒い感情を、長く自分のなかにとどめておきたくなくてため息と一緒に吐き出した。
こうなれば強行手段だ。現状を打破するには家出しかない。
そのための準備は密かに住ませていた。トランクをもって、この四角く切り取られた窓から、外の世界へ――!
「全く……、お任せくださいと言ったはずですよ?」
開け放った窓。落ちてきたのは一度は信じてみようと思えた、包み込まれるような柔らかな言葉。
見知った顔。しかし、その姿は夢にも見た怪盗のそれで。
さぁ、と差し出された手は待ち望んでいたものに違いなく、嬉しさとこれから始まる自分の人生への希望に高鳴る鼓動を押さえきることはできずにただ、その手をとった。
懐かしい夢を見た。
美術品や宝石など、様々なものを手に入れた人生。そのなかで唯一、本気で欲しいと思った少女がいたこと。
最初はどこかに出掛けるところだった少女を遠目で見たのがはじまりだった。
声が聞こえる距離ではない。けれどたしかに、その少女の目はこう言っていた。
『助けて』と。
それは他ならぬ自分に向けられたSOSだと思った。少女の家に使用人として紛れ込み、機会をうかがった。
そしてあの日。少女は籠の外に飛び立った。
ウィリー家のアリス嬢はあの日、盗まれてしまったのだ。
残ったのはウィリー家のゴタゴタと、突然にできた孫ほど歳の離れた可愛い弟子。
「師匠ー! お茶が入りましたよー!」
「あぁ、いま行くよ。アリス」
そして、今。『老齢の使用人』こと『大泥棒』レオナルド=G=フィールドはアリスという少女と二人で静かに暮らしている。