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【新道風牙の食ノ道】春の鍋は上品な味
登場人物一覧
血と脂で汚れた服を丁寧に洗い、干す。本日はからりとした晴天で、洗濯日和だった。ついでに湯を桶一杯分貰い、さっとタオルで身体を拭いたあと使い慣れた服の代わりに『よをつむぐもの』新道 風牙(p3p005012)はカムイグラの呉服屋で購入した青い和装に着替え、髪を纏めた。着替え終えた後、囲炉裏へ近づけば、女がにっこりと微笑み、傍らにいる黒髪に白い髪が交じる男もふん、と少し満足げに腕を組む。
「あら、もう着替えたの? お湯は足りたかしら」
「ジューブンジューブン!むしろ、悪いね。助かったよ」
「いいのよ、ウチのかよわい主人の代わりにヤマクジラを捌いてくれたんだからぁ」
「だーれが『か弱い』じゃ! ワシだって腰さえ痛めてなければ……アイテテテ!」
「ほらほら、大人しくしなさい。いい加減自分の年齢を考えて動いてくださいな」
ヤマクジラ退治と聞いた時、はじめこそ化け物か何かかと思った新道だったが、相対してみれば家ほどの大きさの猪だった。もちろん規格外の大きさではあるものの、見たことのある見た目をしたヤマクジラは新道にとって少しばかり安心感を抱かせた。かくして、新道は討伐隊に加わった後、畑を荒らす前にとヤマクジラを討伐した。
屠られたヤマクジラはその後、討伐隊全員で解体し山分けすることとなったのだが、解体で大はしゃぎしていたこの男はぎっくり腰を患い、新道に肉ともども運ばれて来たのだ。男の妻らしい女は最初こそ何事かと慌てたが、理由がわかれば「この阿保がご迷惑をかけてすみません』と頭を下げ、男を小突いた。ぎっくり腰の男は少しの刺激でも激痛になるようで、しばらく呻いていたが。
お礼に寝床と食事をと言われたが、新道は男を運んだだけである。そこまでしなくて良いと言おうとしたが、男が『ウチの女房の作るヤマクジラ鍋を食っていけ』と推すものだから、素直に従うことにしたのである。
囲炉裏にかけられた鉄鍋からはグツグツと音が響く。そろそろかしらと女が蓋を開ければ、そこには味噌で解かれたスープに春菊といくつかのキノコ、豆腐、そしてヤマクジラの肉が浮かんでいた。女がそれをおたまで掬い取り、分ける。
「いただきます」
「……うまそうだ。いただこう」
寒さが和らぎ、暖かくなる季節。ヤマクジラの肉は秋が1番脂が乗っていると聞いたことはあるものの、春のヤマクジラの肉はさっぱりとしていた。美味しさはそのままに、甘味はしっかりとしている。見た目とは裏腹に深く上品な味わいに驚く新道に男がぶっきらぼうに告げる。
「……食い物には裏旬と呼ばれるもう一つの旬がある。オスのヤマクジラがそうだ。俺みたいな年寄りには秋のヤマクジラよりこっちの方が旨く感じる」
秋のヤマクジラは胃にくるからな、と遠い目をする男に女はくすくすと笑う。新道はなんとなく、自分も歳を取ったらそういうふうになるのだろうかと思いを馳せる。豆腐をはふはふとさせつつ、今のうちに、なるだけたくさん美味しいものを食べようと決心していると、スッと女が差し出して来たのは赤い粉末だった。
「ありがとう……えっと、これは?」
「一味といって、唐辛子の粉末だよ。これをかけると味が引き締まるの。ウチの人はこれを二振りしたのが好きなのよ。辛いのが苦手じゃなければだけど、よかったらどうかしら?」
新道はちらりと隣を見る。男が一味を掛けている間、新道はもう一口そのまま食べた。それから、どれくらい掛ければいいのかがわかったので、挑戦してみようと置かれた一味をかける。目に鮮やかな色だ。それがあまりにも赤いので、もしかしてこれは
「……はぁ、うますぎる……」
「ウチの鍋の食べ収めは毎年コレだ。春の鍋も悪かないだろ?」
「むしろアンタはこれが好きだからヤマクジラ狩りの討伐隊に加わるんだもんねぇ」
「なっ、ちが」
食い意地が張っていると思われるのが嫌なのか、それとも妻の食事が動機と思われるのが恥ずかしいのか、男がブツブツ言いながら汁を啜る。耳が赤いのを見るに、おそらく後者だろう。新道はクスクスと笑いながら、ヤマクジラ鍋を堪能した。あっという間に具材のなくなった鍋だったが、うどんと油揚げとネギを加えて〆にどうぞと女が笑う。生卵をぱかりと割って、解きながら食せば、濃くなったスープが幾分かマイルドな味わいになり、ネギと小さなヤマクジラの肉の組み合わせもなかなかに良く、満足のいく仕上がりとなった。五杯は食べただろうか。ちょっと食べすぎたかもしれない。新道がそう思いながらご馳走様と両手を合わせると、隣の男が『よっこらせ』と声を出しながらふらふら立ち上がる。
「嗚呼、食べた食べた……。っし、布団を敷いてくる」
「あら、腰は平気? 動いて大丈夫なの?」
「ヤマクジラさまのおかげでな」
飄々と言う男はまだ痛そうだった。心配そうにしながら止めようとする女の言葉に、男が首をふりながら「客に布団を敷かせるのは嫌だ』と言って強情に去っていく。女はやれやれと言った様子で囲炉裏の鍋を片付けながら、空気を入れ替えるために障子を開けて、厨から戻ると新道にお茶を出してくれた。
「……あ」
お茶を啜り、ほっと一息をついた後、見えたのは美しく咲き乱れる2本のしだれ桜だった。寄り添い合い、時々風に揺られる枝はまるで手を繋ぐように仲睦まじい。なんとなく、この家の夫婦を彷彿とさせた。いつか自分も誰かと過ごすようになるのだろうか。今はまだ、一箇所に落ち着いて誰かと過ごすなど考えられないが、もしかしたら。……そして、その時には平穏が訪れているのだろうか。なによりも元の世界に帰っているのか、それともこの混沌に留まっているのか。
思考がごちゃごちゃとしていると遠くて悲鳴にも似た声が上がる。どうやらまた腰を痛めたらしい。『阿保ねぇ、だから言ったのに』という女の声と、『阿保とはなんだ、阿保とは!いいから手伝え』と不機嫌に応える男の声。新道はお茶を飲み干した後にふっと笑う。
「考えても仕方ないか、今は、自分にできることをする。それだけだ」
新道の言葉を肯定するかのように、風が吹き、桜の花びらが髪に乗る。さながら、頭を撫でられたかのような感覚に、新道は目を閉じた。