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惡密を満たす
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悪い子だ。私は、悪い子だったんだ──……。
あれから何日が経っただろうか。
友達を守るため──否。結局は己のためだったのだろう。悪人を屠り、喜悦を満たしたあの日。故郷を、家を、友達を、家族を捨てた日。
苦しみに、悲しみに、絶望に歪む顔を。嗚呼、こんなにも求めている。
◆
少女はあてどなく彷徨い歩く。
庇護もなく、友もなく、名前すら知らない街。好奇の目で見られることもあった。気遣わしそうに見られることもあった。それらを全て躱して、
すぐそばに誰かがいる環境は、良き隣人も悪しき隣人も喰えてしまう環境は。今の彼女には余りにも
誰も住んでいない、周囲に人気のない空き家を見つけられたのは幸運だった。空腹を感じることもなく、一人で隠れ住むことに支障はなかった。
それは却って内に潜む
夜は苦痛だった。
人として生まれ、人として育てられた良い子の詩織が夜は眠るものだと囁く。けれど硬い木床で眠りに就こうとする度、目を閉じて意識を手放そうとする度に、かつての記憶が瞼を焼いた。
それは人としての記憶。優しい両親の姿。仲の良い友達との思い出。朝の小言、美味しいご飯、頭を撫でる手。菫の刺繍、一緒に遊んだ日々、繋いだ手。
忘れ得ぬ記憶。幸福だった日常。鮮明に心に沁みついて。いっそ忘れられれば楽だろうと、手放してしまいたいと、幼心にそう思う夜さえあったけれど。心細さに泣き出しそうな夜も抗え切れぬ衝動に襲われた日も、その記憶は確かに少女を止めてくれた。
それ以上に少女を苛んだものは──
空腹故ではない。そんなものはもうずっと感じていない。ただ、食を必要としない己を空虚に思うことがあるだけ。
愛情故でもない。両親も友達も恋しく慕わしく、思い出は慰めと同時に苦しみをも与えるけれど。会いたいという思いは、会えないという理性で抑えつけられる。
少女を苛むもの。それは、惡密への渇望。己が悪性が満たされぬことへの飢餓。
悲嘆に暮れる顔が見たい。絶望に歪む顔が見たい。目を覆う程の不幸に苦しむ顔が見たい。敵うことなら、私の手で──。
見たい──悲痛に歪む表情を。
聞きたい──枯れるような慟哭を。
味わいたい──打ちひしがれるような感情を。
衝動は止まらない。止められない。
嗚呼、アア、いけない。いけないことだ。こんな酷いことを思うなんて。こんな悪いことをししたいと思うなんて。
けれど。けれど、もし本当にそれを味わってしまったら。そうなったら、私は、
答えは──分かり切っていた。
嫌だ。そんなもの、見たくない。
嫌だ。誰かが苦しむ顔も、苦しむ声も、苦しい感情も。
見たくない。聞きたくない。味わうなんて、有り得ない。
想像しただけでこんなにも苦しいのに。心が締め付けられて、涙が出そうになるのに。
逆さの気持ちは、まるで身を引き裂くかのように少女を苦しめる。拒絶すればするほど、奥底の渇望が心を締め付けた。
人の絶望なんて見たくない。誰かの絶望が見たくて見たくて堪らない。
人の悲鳴なんて聞きたくない。誰かの悲鳴を聞いて眠りたい。
人の不幸なんて味わえない。誰かの不幸でこの胸を満たしたい。
幼い心が擦り切れるのにそう長くはかからなかった。
もう嫌だ。耐えられない。耐えきれない。
自分が罪を犯してしまいそうなことも、誰かの不幸を味わえないことも。
耐えられないのなら、いっそ全て終わらせてしまいたい。
◆
最初に、包丁を首に突き立てた。
刺して、刺して、刺して。手が真っ赤に染まって、包丁が滑り落ちて、首にも体にも沢山の穴が開いて。
痛くて、痛くて、いたくて。
それでも──死ねなかった。
だから次を試した。
縄を結んで高いところから吊り下げて。恐る恐る首を通して、足場を蹴って。
息が詰まって、呼吸も覚束なくて。苦しくて、くるしくて。
それでも、意識が遠のくことすらなかった。
湯舟に張った水に顔を浸してみた──苦しかった。死ねなかったからそのまま体を洗った。
体に火を付けてみた──熱かった。死ねなかったから湯舟に飛び込んで消した。
水仙の根やその辺りに生える茸を食べてみた──苦かった。死ねなかったから全部捨てた。
死ねなかった。死ねなかった。死ねなかった。誰にも迷惑をかけたくなかったのに。”家”を出ずに一人で死ねる方法なんて、もう思い浮かばなかった。
痛い思いも、苦しい思いも、全部我慢して試したのに。そうする
少女の正体の半分。化物の、邪神の躰が彼女に死を許さない。正気を喪うことすらも許されない。
それでも、例え死ねないのだとしても、諦めることなんてできなかった。人にも邪神にも成れず、ただ生きていくことなんて、彼女には。
(どうして死ねないの)
(もう堪えられない)
(お腹が空いた)
(痛い)
(苦しい)
(もういや)
(早く、早く死なないと)
本当は一人で死にたかった。けれどそれでは死ねないのなら、他の誰かに迷惑をかけてでも。
(今度は、高いところから飛び降りてみよう……)
中途半端な高さでは死ねない。だから、うんと高いところが必要だった。
何日かぶりに外へ出る。誰もいない廃ビルの屋上から飛び降りよう。
確か、人気のないところを彷徨っていた時にそれらしい場所を見かけた筈。
誤算だったのは人の気配。
時折通り過ぎる人影。横顔。話し声。”家”に閉じこもっていた彼女には、余りにも──甘美。
彼女の悪性をどこまでも揺さぶるそれらを耐えて、
通りすがる誰かの歪んだ顔が脳裏をよぎって、両親の優しさを、友人の笑顔を思い浮かべて。
「っ、ひゅぅ────」
引き裂かれそうな心に歩みは遅まり、呼吸すらも覚束なくなって。
「君……大丈夫かい?」
声を掛けられたのは、そんな時だった。
柔和な顔立ちの男性が、心配そうに少女を覗き込んでいる。警察官の制服を着た彼は、しゃがみ込んで少女に話しかけた。
「大丈夫だよ、ゆっくり息を吐いてご覧」
視線を合わせて。
「っ、は……はぁ………」
「そう、上手だ。大丈夫、大丈夫だよ」
落ち着かせるように背中を撫でて。
「僕にもね、君くらいの年の娘がいるんだ」
だから、放っておけなくて。そう照れくさそうに笑って。
あぁ、優しい人だ。
(周囲に人目はない)
こんなにも良い人が。
(誰も見ていない)
大切な家族がいる人が。
──誰の目にもつかないようなところで死んでしまったら、どんなに不幸なことか……。
嗚呼。想像するだけで堪らない──。
抗えぬ誘惑が少女を襲う。両親の優しい笑顔が、友人の明るい笑顔が、脳裏をよぎって──塗り潰された。
彼女の──”詩織”の意識が、途切れた。
◆
気が付いた時には何もかもが終わっていた。
目の前には血の海。警察官の制服を着たぐちゃぐちゃの死体。
優しく声をかけてくれたひと。照れくさそうに笑ったひと。幸せそうだったひと。
絶望と苦痛に彩られ恐怖に歪み切った顔のまま、ぴくりとも動かない。
あのどうしようもなかった”飢餓感”は、きれいさっぱり消えていた。
「あ、ぁあ……あああ…………」
嗚呼。嗚呼。アア。
そうか。私が。
私が、ころした。
私が。わたし、が。
「ああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
どうして。
どうして。
どうして。
殺してしまった。私に優しくしてくれた人。幸せそうだった人。
どうしてこの人が死ななければいけなかったの。
どうして私が殺さなければいけなかったの。
どうして私は耐えきれなかったの。
どうして。
死ぬことも、狂うこともできないのに。
誰かを不幸にしなきゃ生きてもいけないのに。
掻き毟り、剥がれた爪から滴る血は、こんなにも
どうして私はこんなにも化物なの。
どうして、どうして、どうして。
どうして私は、生まれてきてしまったの。
◆
あんなにも耐えていたのに、殺してしまった。優しく声をかけてくれた、善良な人を。
両親の温もりでも、友達の笑顔でも、止められなかった。耐えられなかった。
苦しみが、悲しみが、怒りが、詩織を襲う。掻き毟った頭から、剥がれた爪から滴る血は痛みを伝え、泣き叫ぶ声に絶望が宿る。
どうして。自問しても出ない答えは一層彼女を苦しめた。
コツ、コツ。
己の泣き声に混じるように足音が響く。誰かが来る。こんなところを見られたら。
いっそ捕まった方が、でも、人と触れてしまったら。また殺してしまうかもしれない。
いやだ。いやだ。いやだ。
もう誰も殺したくなんてないのに──。
止まる思考とは裏腹に、足は駆ける。逃げるように、怯えるように。
誰かの叫び声がやけに遠く聞こえる。嗚呼、見てしまったんだ。”私が殺した人”を。見られてしまった。私がした”悪いこと”を。
街から遠ざかるように駆ける。乱れた息に鞭打って、無我夢中で。
早く。早く、死なないと。誰にも見つからないよう、見てしまわないよう、隠れて。
そうしないとまた誰かを殺してしまう。
悪い人ならいい。もし、また善良な人を殺してしまったら。
──でも、どうしたら死ねるの?
分かっていた。自ら死ぬことはできないと。それでも、死に救いを見出してしまった。希望などないと気付きたくなかった。
だってそんなの、余りにも惨い。
お願い、誰か、助けて。
願わずにはいられなかった。救いを求めてしまった。こんな
だってそんなの、余りにも酷い。
幼い心は擦り切れて、摩耗して。
止められない。耐えられない。死ぬことすらも許されない。
両親の優しさも友人の笑顔も遠く掠れて、もう見えない。
何処にも行けず、誰にも会えず、何にも成れず。
救いは与えられず、願いは届かず、渇きは絶えず。
少女の地獄のような日々が、始まった。
◆
──彼女の前に、とある人物が現れるまでは。