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彼女の冒険譚
登場人物一覧
●いつもの日々
水面はきらめき、日の光が海底に影を作る。
それをさらに深く潜っていけば、冷たく凛とした空気とどこまでも暗く澄んだ海底へと至る。
海面から顔を覗かせれば、どこからでも見える空に浮かぶ『空中庭園』が見える。
どんな場所なのだろう、行ってみたい。でもちょっと怖いかも。いや、怖い場所ではないことをわたしは知っている。
流れていく穏やかな時間。慣れ親しんだいつもの場所。
そういった日常の中で、彼女――ノリア・ソーリア (p3p000062)は度々こう言った場面に出会す。
「食べないでほしいですのーーーーっ!!!」
少女の絶叫がこだました。
●逃げきれ!
少女の持てるすべてを出した全速力での逃亡は、悲しいかな襲撃者――頭部だけでもおおよそ2メートルはあろうかという巨大な甲冑魚にとっては早歩きをしている者を追いかけるのに等しく、その距離は徐々に詰められていく。
どうしてこうなったのか。思い返すけれどどうにも心当たりがなく、上がった呼吸を整えながら岩影に身を潜める。
きっと理由なんて些細なものなのだ。そう、例えば『とてもおいしそう(食材適性があった)』とか。
ここは理由を嘆くよりもどうしたらこの絶望的状況を回避できるかを考えた方が良さそうだ。
ほら、モタモタしている内に彼の者はその巨大な顎で少女が隠れている岩をもろとも噛み砕いて来る。
『みぃつけた』
言葉を発しないはずのそれは、目を爛々と輝かせながら確かにそんな風に言った。……気がした。
自分の何百倍も大きな身体。鋭く力強い牙。誰もが圧倒される気迫。
そのどれもを少女は持ち合わせていない。
身体は小柄であるし、ノコギリのような歯ではないし、性格もどちらかと言えば優しくおおらかで人を傷つけることはしないタイプだ。
そんな少女が下した大きな決意。弱肉強食は世の常ではあるが、抗うこともせず食べられてしまうのは嫌だ。
――わたしにはこの現状を変える力がある。
キッと睨みつけるように相手を見据えると『そう来なくては』と言わんばかりに尾をくねらせその巨大な口開ける。まるで見せつけるように、だ。
大きく開けた口の見晴らしはすこぶるよく、ゴツゴツした上顎の白い歯肉は暗い昏い海の底において人魂のように見えた。
あのようにはなりたくない。
だから少女はどのように逃げ切るかを考えた。
たとえば、甲冑魚が突撃してくるとしよう。あれほどの巨体だ、地上に住む人が風を切って走るように、彼(そういえばこれは彼なのか、彼女なのか。一瞬疑問がよぎっていったが)も勢いよく泳げばそれなりの水の流れができるはず。
(それを利用してかわすことができれば……)
あわよくば逃げる為の一助になれば願ったりである。
『そちらが来ないならばこちらから行くぞ』
ぐるぅりと、ゆっくと一回転。余裕の顔を見せながら尾をくねらせる。
水を蹴り上げる。ただ真っ直ぐに相手を食らわんと突進してくるその様はまさに弾丸と呼ぶに相応しいだろう。
引き金を引く。それだけで、命を刈り取っていく弾丸。
だから突進がかわされ、海底の岩壁に激突した時の彼の表情はなんとも間抜けなものだった。
何が起こった? 理解できぬまま視界の端で獲物が逃げていく姿が見えてようやく自分の行動が獲物にかわされたのだと知った。
『なるほど、貴様がそのつもりならば』
泳ぎの速さはこちらの方がはるかに優れている。と、いうよりアレが泳ぐのが遅いのだが。
とにかく、あれは今までの獲物とはまるで違うらしい。為すすべもなくただ食われていくだけの餌とは。
『あぁ、なんて活きが良くて美味そうなんだ』
そのゼラチン質の尾を噛みちぎればぷちりとした歯ごたえの後に口に甘みが広がるに違いない。口内にしばらく泳がせて、おどり食いというのも悪くない。
想像するだけで心が躍る。生唾がとめどなく溢れてくる。
『早く、食べてあげるから』
歪んだ愛情、もしくは要らないお節介と呼ぶのだろうか。
甲冑魚は自分がそんな、色々な感情の入り混じった表情をしていることに気づくことはなかった。
●立ち向かえ!
甲冑魚は鯨の親戚なのだろうか。ぼんやりと、どこか呑気に思考を巡らせる。
一度は逃げ切れたと思った、水流を利用しての逃亡は【押してダメなら引いてみろ】理論で海水を思い切り吸い込んだ甲冑魚によってあっさりと攻略されてしまった。
歯間が広くてよかった。手を、足を、そこに滑り込ませ、下顎と上顎がかみ合わないようにするのが今の自分に出来る精一杯だ。
ちらりと、上下に立ち並ぶ白い歯を見やる。
ギザギザした噛み砕き、切り裂く刃が禍々しい。一瞬力を抜くと、自分もそうなるかと思うと背筋に冷や汗が一筋流れる。
ぐっ、と甲冑魚の口がまた少し狭まる。その度に命が終わるカウントダウンが進んでいく。 だんだん手が痺れてきたし、疲れてきた。彼は待っているのだ。弱音を吐く瞬間を、心が折れる時を。
負けない。屈しない。けれど、視界が霞んできた。手は痺れて感覚がなくなってきている。
また少し、口が閉じた。
このままでは遅かれ早かれ終わってしまう。一か八か、賭けをしてみようか。
「そんなに食べたいのなら、あげますの……!」
ふっと、重たい石から綿に持ち替えたように力を緩める。
支えをなくした歯は、今までかけていた力のそのままに勢いよくそれを閉じる。
――少女の体の一部を残したまま。
失った場所は驚くほど痛みを感じなかった。尾の半分ほどを甲冑魚の口に残してきたにもかかわらず、泳ぐスピードも普段と大差ないように感じる。
逃げよう、逃げきれないならばせめて、身を潜めてやり過ごそう。
例えば目の前に広がるかつての文明の遺産――石造建造物ならば、安心だろう。
さぁ気配を殺して息を止めろ。その間に体力も、体も元どおりになるはずだ。
願わくばこんな悪夢は早く醒めてほしいものだが、贅沢は言ってられない。
(……夢?)
少女の胸に、影を落とした僅かな違和感。
その理由を見つける間も無く、岩をも砕く彼の者が気配を殺して……、
『いただきます』
視界が暗転した。
●穏やかな日常の中で
ノリアは目を開けた。視界には何時もの光景。朝の光を受け水面はきらめき、海底に影を作る。
穏やかな時間。慣れ親しんだ場所でノリアは自分の体を確認する。
あの巨大な魚に食われ失った場所はこの海と同じように透明で、どこまでも見通せるほどだ。
よかった、これは全て夢だったんだ。
安堵のため息と一緒の大きく伸びをして、彼女は海面に向かう。
(悪い夢は人に話した方がいいっていいますの)
曰く、人に話すと悪運が逃げていくらしい。誰かに聞いてもらおう。ローレットや街角ならば誰かしらいるだろう。
そうして彼女の1日は始まっていくのだった。