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Peace of mind

登場人物一覧

シラス(p3p004421)
超える者
アベリア・クォーツ・バルツァーレク(p3p004937)
願いの先

 腹の奥底が最悪で満たされていた。
 蛇がのたうつ様な感覚――シラスの不機嫌が其処にある。
 脳髄の奥が痛み、どうしても不快が付きまとうのだ。
 逃れ得ぬ。
 これは下手な敵よりも厄介だ――内から湧き出る感情は倒せるものではないのだから。
「……チッ」
 小さい舌打ち。それは誰の耳にも届かず風の中に蕩ける。
 ――ここはクォーツ修道院。森の中にある、清らかなる場所だ。
 外からは子供達の声が聞こえてくる。
 遊んでいるのだろうか――和気藹々とした戯れの声は、どこか遠くな様にも感じて。
 窓の外を眺めれば青空。澄んだ空気が心地よく優しき陽光が溢れていて……

 しかし、それでもシラスの心は晴れない。

 むしろ耳を触るかのような子供の声が煩わしい――あぁ否、否。
 別にあの子供達の事を嫌ってなどいない。
 嫌っているのならば、とある切っ掛けがあったとはいえ定期的に勉強を教える身になどなったりするものか。全ての原因は己に在り、沸き立つ全ては己が心の奥底にこそある。彼らには一切ない。
 分かっている。だけれども止められない。
 渦巻く負が彼の魂を覆いつくす。
 それは薄布一枚、ただの帳程度な気もするのだが――覆われたソレは振りほどけず。
 ただただ薄暗く沈んで往く。
 目を閉じても。耳を塞いでも……ただただ酷くなるばかりで……

「――全く。なにしてんのよアンタは」

 瞬間。そんなシラスに一つの声が掛けられた。
 その声の主はリア・クォーツ。この修道院を帰るべき『家』とするシスターでもある。
 彼女はシラスに声を掛けながら窓を閉める動きを。
 ゆっくりと。しかし確かに固定される音を響かせながら……
「調律した方がいいな」
 彼女は言葉を紡いだ。
 ……調律? 単語は知っている、あれだろう?
 楽器の――調整の為の単語。近くにはピアノもあるが、しかし。
「……あっ? ピアノなんて触れんのかよ」
「何言ってんの――あんたの事よ」
 はァ?
 思わず出した声――だが仕方あるまい。そもそもリアが楽器を扱えるなど知らぬし、想像だにしていなかった。むしろ彼女の印象は……シスターの服を着込んでいる癖にがさつな女、言葉の節々が乱雑でなんとなく育ちが悪そう。
 家族の話も聞かないので孤児か何かだろう――ああ『だから』親近感を覚えるのだと。
 そう思っていた。
 『だから』お前も弾けないだろうと……いやそもそも俺の調律などと、どういう――

 刹那。リアの指先から生み出されるのは一つの世界。

「――」
 開かれたピアノの屋根から旋律が零れ。
 シラスの眼前に――世界が見える。負の帳が風に靡き、その先に。
 世界が満ちる。潮の様に。
「――は、ッ。な、んだよ。んな器用っぷりがあったのかよ」
「なによ意外そうに……さてはあんた舐めてたでしょ。『どうせ出来る訳ねー』とか」
 割と心底そうだったので黙っておこう。
 が、リアが弾き始める前の心境はともかく――今の驚きには賞賛の意が確かに込められている。どちらかといえば驚愕の感情の方が大きく、シラスにどこまで明確な自覚があるかはさておき。
 されど自然と口から零れたのは確かだ。
 ――帳の向こうに青空が見えた。
 そんな錯覚を……シラスの瞳に映し出す程で。
「音楽はね、誰しもに自由よ。あんたみたいに荒れてる奴にもね」
「おいおい耳が不自由な奴にはどーなんだよ?」
「タコ。そーいう話をしてるんじゃないの」
 それに。
「耳はあんまり関係ないわよ」
 音楽は響き渡るものだ。壁に反響し、人の身に届き、骨を揺らして。
 ――魂を震わせる。
 耳が不自由であっても名曲を作り上げる、偉大なる音楽家も存在するのだ。
 ただ『聞く』だけが音色の総てではない。

 だから……音楽は人々を魅了するのだ。

 過去も、今も。そしてきっと未来も。
 万人を震わせその精神に影響を齎す。そしてそれは……
「何よ。興味あるなら触ってみる? あんた、これ」
「――マジか?」
 その音色を受け入れるのならば、きっとあんたにもと。
 リアが指差す先にあるのは――勿論ピアノだ。先程まで彼女の指先が触れていたその箱は、今は静寂を携えている。
 新たな主を待つかのように。新たな主の指を――待つかのように。
「…………」
 シラスは近付く。ゆっくりと、しかし一歩一歩。
 このような代物に興味は無かった。
 今まで幾度か修道院に訪れた事はある。その度に視界の端に映っていたかもしれないが……されど認識もせぬ物だった。興味のあるなしが存在感を一変させるという事はあるものだ、が。
 だけれども今は違う。
 今、確かに己が目の前に存在しているのだと明確に『見える』ものだ。
 ピアノ。
 これがあの――美しい世界を生み出すのだと――
 人差し指で鍵盤を一つ押し込めば、奏でられる。先程の旋律の一欠片が。
「あ、優しくな。壊すなよ? 大事なものなんだからな」
「うっせ。そんな不器用じゃねーよ」
 椅子に腰かけ両の五指を白き平原へ。黒き山にも沿わせ、感触を確かめれば。
 ――なぜだろうか。鼓動が聞こえる。
 ――なぜだろうか。己がここに座っているのは。
 ――なぜだろうか。這わせる指先に高揚感を得るのは。
 数多の疑問。けれど、その全てを――

「――――」

 自らが奏でた音色が吹き飛ばした。
 楽譜は読めない。楽譜は知らない。何の知識も持たぬ――けれど。
 先程に『見て』覚えた僅か数小節だけならば再現できる。
 手先の動きは滑らかに。天に祝福されているが如き流れは全てを掴む。
 自らの望むままの音色を。己の記憶の中にある音色を。
「――あんたホントに初めてなの?」
「経験あるように見えるか? ていうかちょっと待て、話しかけるな……!」
 思わずリアも驚くものだ。これは素人が奏でられる領域ではない。
 ――しかし同時に熟練者でないことも彼女には分かった。
 シラスは今己が眼前にのみ集中している。言うなれば必死、だ。
 今の受け答えも辛うじて零したように感じられる声色で……
「あ、ちょ、ま……あ、あああ、あー!」
 同時。崩れ始める音色が無秩序になりそうで――そこで止まった。
 動きが。数小節知っているのならばそれに沿って指を動かす事は出来るがしかし、それではやはり付け焼刃と言える程度が限界だった。知らぬ領域。知らぬ節に到達すれば指の行く末は霧の中を突き進むが如く。
 脳裏に過る不安と不透明なる未来が調和を乱す。
 ――修道院内に低い音が充満する。
 複数の鍵盤を同時に押し続けたままにするとこのような不協和音となるのだ。
「あーあ。最初は上手くいってたけどね。ま、楽譜が読めなきゃしかたな……」
「いや、ちょっと待て。待て待て待て。もう一回やらせてくれよ、次は上手く行くって!」
 座るシラスの横でリアがピアノを覗き込むように。
 さすればシラスは手を振る様にリアを制する――
 まだだ、これで終わりではないとばかりに。
「なんとなく、なんとなーく分かってきたぞ。つまり、ええ、なんだ。これはこの音を示してんだろ? てことは後はここから一段ずつ挙がる様に弾いていけば……おおいけるんじゃねぇかこれ!? こういう事だろ!?」
 再び彼は眼前に集中す。
 天性の勘があるのか理解力が高いのかは分からないが、シラスは楽譜の意味もなんとなく理解し始めている様だ。尤も、仮に確かに読めたとしても、滑らかに動かせる指があったとしても――思う通りには中々行かないものだが。

(……ま、いいかしらね。悪くない傾向だとは思うし)

 されどリアも無理にその流れを止めようとはせぬ。
 躓くのならば躓いても良い。上手くいくのなら上手くいってもよし。
 ――元々一番初めに述べた様に、これは『彼の調律』の為なのだから。
 リアは天から授かった祝福――ある種の呪いともいえる――クオリアの力を宿している。周囲の人間の感情が旋律として読み取れて……そして今日。目前にいたシラスからは胸をざわつかせるような雑音の不協和音を感じ取っていたのだ。
 いや雑音というよりもむしろ。
 淀んだ沼が泡立つが如き、不快な水音だったと言うべきか。
 何かが奥底にあった。何かが奥底から溢れようとしていた。
 ここに至るまでの彼に何があったかは知らない、けれど。
「はいはい。別に取り上げたりなんてしないから、何度でも弾けばいいわ。
 ガキ共も外に行ってるし、今日はもう拝礼に訪れる人もいなさそうだしね」
 彼の心身にとって良くない状態は見過ごせなかった。
 もしも放っておけば如何なる異物が噴出していたか分からぬ。
 だから彼に――ピアノを薦めたのだ。
 初めは音色を聞かせるだけでも十分かと思った。けれど、その後シラスがピアノに向けた視線の意味を考えれば……彼に実際に触らせるのが吉と踏んだのだ。そして実際彼は――彼の心音は澄み始めている。
 淀んだ負が浄化される様に。清らかなる場へと引き上げられたかの様に。
「あ、あー! くそ、なんだよこの楽譜! マジでこことここ同時に押すのか!? なんだよ嘘だろ!? これ考えた奴、なんかおかしくね!!?」
「いざ始めるとよくある感想の一つよね――それじゃもう一度はじめからね」
 こなくそー! シラスの叫びが木霊するも、もう彼の心にあった闇は薄れている。
 不思議な充足感。
 今まで幾度も――スリやイカサマばかりで使われた指先の特技が、こんな事に。
「……何が起こるか分からねぇもんだよなぁ」
 シラス自らも驚く芽吹きだった。
 この指先が今まで感じたのはサイフの感触で、仕損じれば殴り殺されるかもしれぬ綱渡りの上で共に在った。或いはカードを……ポーカーの場で一枚抜くセカンドディールした際も役立ったか。あの時、場を仕切っていた『裁定人』に指を掴まれた時は折られるかと戦々恐々もしたものだ。
 とかく、この指はそんな人生と共にあった。
 スリル? いや違う。生きる為に必要な事な、死線を潜る為の相棒としてだ。
 冷たい水の中を掻き分け突き進む為の……
 ……そんな指が、今輝いている。
 生きる為とか必要な事――などいう事象とは無縁のこの場で。
 ただピアノという生き物から、美しい音色を鳴り響かせる度に。
「悪かったな」
「んっ――?」
「いや、なに……ちょっと色々あったもんでな。依頼っつーか……そんだけじゃなくて夢見も悪くてよ。荒れた空気醸し出して――来るもんじゃねぇよなぁ」
 さすれば、何故か胸の奥から言葉が『するり』と流れ出るものだ。
 当初ここに来て抱いていた感情はどこぞへと消え失せている。
 ――むしろ晴れやかだ。どうしてこうでなかったというのか。
 だから、というのもおかしいが……とにかく最初の不穏なる己を彼女に詫び――れば。
「全くその通りよホントに。ガキ共が偶々外に遊びに出てたからいいものを……
 皆がいたら絶対引いてたか怖がってたわよ――反省しなさいよね」
 手刀一つ。頭部を軽く叩かれる、も。
 リアも本気で怒っているとかそういう訳ではなさそうだ。
 ただの戯れ程度の接触。そもそも本当に怒っているならこの程度では済まさぬ。
「ま、でも良いわよ。普段から世話の焼けるガキ共と過ごしてるんだから……大きいガキが一人増えた所で手間でもなんでもないわ」
「おいおい大きいガキって酷くね?」
「不機嫌そうなツラでずっといるのはまだしも、ピアノに齧りつくぐらい夢中になるのに?」
 しかも――そんなに目を輝かせて。
 リアはもうここまで至ればハッキリと感じ取っていた。彼の感情の旋律が、完全に安定した、と。不快な水音の泡は鳴りを潜め、暖かなる鼓動の始まりが彼を満たしている。全く……
「ほら。ちょっとそっちに寄って」
「なに、なんだよ?」
「こういうのは手先が器用なだけじゃどうしようもない事もあるのよ。経験ってやつかしらね――でもあんただったら手本を一度見せれば、すぐ出来る様になるでしょ」
 だからと、リアは気紛れにピアノの手解きを。
 楽譜の正確な読み方も教えよう。無意識かは知らぬが、せがむような目もなんとなし感じれば助け舟を出してやるのも教示の一つだ。我流では限界来る事もあろう……ああしかし――なんとも懐かしいものだ。遥か昔はアザレアに……
「――ッ」
 瞬間。リアの脳髄で『虫』が蠢く。
 ……虫というのは比喩だ。あくまでそのような感覚の頭痛が最近、時折あるだけの話。ああどうして近頃多いというのか。伯爵と会った際も似たような感覚を得る事があるが……こんな時にもまた体調不良だろうか。困ったものである――
 折角。
「折角あんたが――素直な音色を出してるのにね」
「んっ、なんて?」
 なんでもないわ。
 額に手を当てリアはそう紡ぐ。そうだ、こんなものはよくある事だ。
 昔はもっと酷かったのだから……この程度が何だというのか。周囲の感情に疑心暗鬼、いやむしろ嫌悪を通り越し恐怖の領域に到達していたあの頃と比べれば『大したことは無い』のだと。
 自らに言い聞かせ、頭を振って前を見据える。
 そうだ。それよりも彼――シラスの音色が深く、手の届かぬ闇に沈む事の方がリアにとって重大だ。
 ……色々と危なっかしくて目の離せない奴。
 その身を見据えていなければいつかどこかで転んでしまいそうで。
 まるで――弟の様なシラス。

 彼の音色が穏やかでなければ私の気が済まない。

「ていうか楽譜も変えるわよ。多分あんただったらこっちの方がいいわ」
「おぉ? そういうのもあんのか?」
 旋律の充足。
 修道院の中には二人の存在と、二人分の音色がそこにある。
 彼らの指が動かされる度に――麗しき音の『世界』がクォーツ修道院に響き渡っていた。
 木漏れ日の様な、穏やかな音色が。
 晴れやかに澄み渡る、安寧なる世界が……

  • Peace of mind完了
  • GM名茶零四
  • 種別SS
  • 納品日2021年03月23日
  • ・シラス(p3p004421
    ・アベリア・クォーツ・バルツァーレク(p3p004937

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