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シラス(p3p004421)
超える者
シラスの関係者
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シラスの関係者
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 幻想王国レガド・イルシオンの空は高い。顔を上げれば見える王城の壁は遙か空の上にあるかのようにも思えた。見上げれば英雄の島と称される空中神殿が――などと、子供のように御伽噺を語らうほどに少年は幼くは無かった。
 王都より少し下るだけで変容する世界で生きて行くことを決めた、否、生きていくことしか選択肢が存在して居なかった少年は、我楽多と汚物ばかりが転がった不愉快な泥と煤の気配の中で今日も息をしていた。腐敗した果実、熟れきった国の馬鹿らしい象徴を見上げながら恨むことなど忘れたままで。
 然うして擦り減っていくのは心だった。ひゅうひゅうと喉を鳴らして大げさなほどに呼吸を繰り返した女は薄汚れたベッドシーツをぎゅうと握りながらぼろぼろと涙を溢す。傍らで介護を行う息子の事など目にも入らぬと言うように夢を語らう唇は何時だって親不孝者あにの名を紡ぎ続けていた。
 其れでも良かった。其れでも、中々家に帰らぬ兄を心配しているだけなのだろうと感じていたからだ。シラスとて兄のことは心配していた。
 兄の噂は聞いていた。裏社会の重鎮の縄張りで悪さをして取引相手が減り報復を受けたのだという。それでも兄が死んだという情報は無かった。兄の周辺に存在して居た荒くれが薬に溺れ、非業の死を遂げていることだけ。留守にすることが多い兄に大丈夫かと聞く時間さえシラスには存在して居なかった。
「――ゥ」
 何か、母の唇が動いたと少年ははっと顔を上げた。母は呻き続けている。が母を蝕み続け、其れを求めて泣き叫ぶ声にもシラスは慣れてしまっていた。
 気のせいだったのだろうか。母は瞼を固く鎖したままに呼吸を繰り返しているだけだった。
「母さん」
 少年の声は呼気に掻き消される。淡い期待が存在したのかも知れない。それでも、彼女の先程の声が自分の名前を呼んだと、淡い夢を見ていたのだ。
「―――ゥ」
 嗚呼、ほら、屹度。
 家にも帰らず荒くれる兄とは違い、甲斐甲斐しく母の世話を焼き、常に隣に存在する自分を見てくれる筈なのだ。
「母さん……」
 何度も何度もその名を呼んだ。母を慈しむように、優しく優しく声を掛けて。
 幼い頃からそれは漠然と存在して居た。今になれば母の仕事の内容も、母が如何してこうなったのかも何となくは理解している。母も自分と同じだったのだ。心を擦り減らして生きてきた。身勝手にも、一度の関係を持った貴族にもう一度目を掛けて貰える事ばかりを夢に見て。
 誰の子とも知れぬ自分よりも、救済の蜘蛛の糸と成り得る男の子供を愛するのは間違いではない。人間は、弱いから。
 ――それは、シラスが自分に言い聞かせてきた言葉だった。
「母さん……」
 ヒュー、と音がする。
 呼吸だ。深い息を吐いたのだ。母の顔を随分と長い間見ては居ない気がした。否、見た筈だ。だが、シラスにはそれが美しく微笑んで居た嫋やかな『母親』ではなかった。
 薬に溺れた中毒症の哀れな女。身体を冒され破壊されたそれは病とは比べものにならぬ程の悍ましさを身に纏い続けている。
「母さん……」
 呟いて、感覚が死に絶えたか動くことのない母の指先を擦り続けるシラスの背にのっぺりとした影が落ちた。其れはまるで、絶望と希望が混ぜ合わせたような奇妙な影だ。背後に立っているのが誰であるかを振り返らずとも理解が出来た。
「何しに帰ってきたの」
「シラス、手を貸せ」
 頭に血が上る感覚がした。この状態の母を見て、最初に出た言葉がそれか――!
 だが、目の前の母の眼球が僅かに動き兄を視認した気がしてシラスは居た堪れずに感情を嚥下した。唇を噛めば、鉄の味がする。指先に力を込めて母へと息子は此処だと主張するように撫でる。母は、何も言わなかった。言えなかった。口を動かして発音することさえ怠いとでも言うように緩慢に唇を揺るがせるだけだ。
「……厭だ」
 静かに首を振った。シラスは、兄が何をしているのか気付いていた。街の中には母と同様の症状を患う人間が増えていた。最早其れは人間と呼ぶにも悍ましいような有様だ。
 其れ等を見て気付かないわけがない。兄の薬が少しずつ日常に侵蝕している。製法が広まってしまったならば――?

 早くう――! ねえ、ねえ―――!

 ――思い出した。母が、狂ったように叫んだ様子を。屑の様に崩れる身体に、安価で手に入りやすい麻薬の中毒性から逃れられぬ儘に呻き続けるその姿。
 人間から、屑に。死へと急転直下で落ちていく母に。多幸感に陥って、崩れるその姿。健常とは呼べぬ母を見て、兄は笑っていたのだ。
「薬を『あの女狐やろう』の縄張りにバラ撒く。分かるだろ?」
「……どうして? 分かる訳ないだろ。どうしてそんな事をするんだよ!
 兄さ――ッ、お前は、街の屑達だけじゃない、母さんを酷い目に合わせてるんだぞ! たった一人の、俺と、お前の母親を!」
 兄は一線を越えてしまった。
 あの日、抱き締めてくれた腕も遠い。あの日、微笑みかけてくれたぬくもりも遠い。感情が濁流のように押し寄せる。
 大好きな兄だった、それでも、分からないわけが無かった。『外に出ていない母親』がこうして街の者達と同じ中毒症を患っている。
 自身と、兄しか介護する者が居ないならば『その犯人』が誰なのかは自明だ。シラスが日銭を稼ぐために真っ当な仕事を行っている隙にカラスは一度帰宅して母に薬物を投与し続けたのだ。薬漬けであった母、病に冒されたその身体から解放されるような多幸感で溢れた母。――其れを作り出したのは、誰でもない、唯一人の兄。
「お前は――ッ! 母さんに如何して!」
 爆発した憤りの儘に兄へと詰め寄るようにその襟口に手を掛けた。至近距離で見た兄の整った顔に浮かんでいたのはシラスと同じ憤り。母と瓜二つのシラスと、面影さえ感じさせない兄。其れが厭でも兄の父親を――母が自分を見てくれない理由を幻視させられる気がしてシラスは酷く苛立った。
「また『あの女』の話かよ」
「あの女――!? 巫山戯るな……! 母さんをそんな風に……!」
 カラスは手を掛けたシラスの腕を払い大仰な溜息を吐いた。苛立ちと、不満。母の愛を求めると言うだけで否塞の弟を哀れむ様に一瞥をやって。
 男にとって、あの女狐ヴォルピアは如何しても捨て置けない相手であった。裏社会で抗争を行い、一泡吹かされた居た堪れなさ以上に気になる事はあった。彼女ほどの人間が家族けつえんを知らない訳がない。死に際を悟った母はまだ良い。だが、一人残される弟のことを知らないわけがない――あの女も大概に甘いのだ。甘いから故に、カラスを報復の対象とすれば弟が悲しむで在ろう事に慮っている。家族全員を含めるのは境遇を鑑みての事だろう。貴族の愛妾を止め、娼婦であった母。それを高級娼婦であった彼女が同情するのは分かりやすい。
 だからこそ、カラスは酷くプライドを傷付けられたと感じたのだ。そんな自分自身の心などさて置いて、『母さん、母さん』と惘れるほどに繰り返す。
 カラスとて一目見れば明らかなことがあった。弟は母を愛している。弟は兄を愛している。弟は家族を何よりも大事にしていた。
 たった一人の母だから。こんな掃いて捨てるほどに人間の命が転がっているような場所で、唯一の肉親がどれ程貴重であるかをカラスは知らないわけではない。
 だが、母親の皮を被った『貴族の男しか見て居ない女』と『何も知らない癖に母さんと甘える弟』に対して懊悩するのをカラスは止めた。今まで、こんな掃き溜めスラムで家族という絆に縋るように生きてきた弟に決して言うまいと決めていた言葉。喧嘩をしたとて、それを知らなければ彼は甘えたな夢の中で生きていけるはずなのだ。それでも――もう、これ以上は我慢ならなかった。うんざりしたのだ。煩わしく、厭わしい。それ程までにあの女に固執する事が。
「母さん母さんと。よくも何も知らずに言えるな。知らないからこそ、お母さんって甘えたガキ見たいに出来るのかも知れないな。
 不幸なシラス、よく聞け。俺が止めていなければお前はとうの昔にあの女に殺されていたってのによ」
「――え」
 ぽろりと漏れたのは兄の突飛な言葉に返事を返せないからであった。どう言う事だとシラスの声音が震える。カラスの唇は止らない。堪え続けていた言葉が堰を切ったかのように溢れ続ける。
「お前が生まれて直ぐの頃に、成長が一つずつ進む度にそうだ。熱病に浮かされた夜も、初めて言葉を口に――お前があの女をママと呼んだ日に。
 あの女は不意に自失に陥って、お前の首を絞めた。どうしてどうしてって繰り返しながら。テメェの所為で孕んで、テメェの所為で生まれてきた子供に責任を問うんだ。
 笑っちまうだろ? お前が愛して護ってきた母さんは、お前のことを何度も何度も殺そうとしてきたクソみてェな女だったって事だ!」
 叫んだ。カラスは勢いの儘に全てを吐き出した。
 望んでいない子供だった。望まなかったからこそ、シラスの成長を母は何よりも疎んだのだろう。大切なカラスに止められるまで首を絞めて幼児の命を奪おうとして。
 言い切ってしまった。言わないで置けば、幸せであったはずの弟に。その全てを、吐き出してしまった。
 だからこそ、気付かなかった。茫然自失としたシラスが呆けたままその言葉を聞いて涙を目に湛えていることにも。何も聞きたくはないと頭を抱えていることにも。

 ああ、そういえば――俺は何時だって、母さんの目には映ってなかった。

「――めろよ、やめろよ! もう、止めろ、言うな! 言うなよ! お前ばっかり母さんに愛されて! お前ばっかり、お前ッ――!」
 恵まれた兄。母の愛に溢れ、何処かの貴族の血を引いた兄。対する母に殺され掛ける程に疎まれ、愛される事の無かった自分。
 恵まれているのに母を塵の様に扱って、違法な薬物で母を苦しめる兄。愛されていないのに母を慈しんで、死の際まで手を取り続けていた自分。
 何て、何て――何て、不公平なのだろう。
 果物ナイフを手に取った事は、シラスも憶えている。其れは全て曖昧だった。錯乱しながら兄へと掴みかかった。不意を突かれたかのように顔を上げたカラスは「シラス」と弟の名を呼んだが遅い。動転したままにシラスは――少年は、初めて人間の胴体にその刃を突き立てた。掌から感じたのは肉を断つ感覚だった。ぶちり、と音を立てたそれが掌に伝う赤い血でどろりと滑る。兄が自身の身体を弾き飛ばしたことに気付く。背が壁にぶつかって派手な音を立てたその衝撃に意識が眩んだ。
 薄明かりの入り込む窓は大きくもないくせにやけに外界を意識させる。暗闇の中に僅かに見えたのは月明りだっただろうか。小鳥のさえずりも遠い夜半の空間に。
「う……う、ぅ……」
 兄の呻く声に、シラスの意識は急速に引き戻された。支えなくては立てないとでも言うように兄が床に転がっている。母の為にとシラスが購入した毛足の長いラグにべったりとした液体が広がっていることに気付いた。血だ。此れは、血だ。
「……あ、あに……きっ」
 唇が震えた。地を這うようにして、兄の元へと近付こうとした。

 ――これは誰がやった?――自分が――いや、まさか――どうして兄貴が――兄ちゃん――兄貴――どうして――誰が――俺が……?

 脳味噌を混ぜ返されるような感覚であった。眼前で倒れたその肉体が、酷く損傷していることだけは分かる。血の量からも分かる。その饐えた鉄の香りから逃れなければならない。死の気配が、近い。痛みに喘ぐ声に、呻き呼び掛けた声は届いていないかどうかさえ定かではない。
 それでも――それでも、と手を伸ばしたシラスの視界に白い足が見えた。湿った足音に詰めた癖を撫でられたかのようだった。まるで、真冬の海に飛び込んだかのような冴えた冷たさがシラスの身体を包み込む。
「――え」
 精一杯の言葉だった。あちこちが捲れ返った輪郭は人と呼ぶには余りにも不躾で。其れでも、人間で在る事を知っている。皮膚も肉も、一体化したかの様な廃人。襤褸であると、人間ではないと揶揄されれば其れを否定することも出来ない『母親だったもの』
 ひたひたと、歩いてくる。歩くことも、指先一つ動かすことも出来なかったはずの、母が。瓜二つのかんばせが、外の灯りから僅かに見えた。
「母さん……!?」
 咄嗟の反応であった。慌てて立ち上がって母を支えようと手を伸ばす。それは彼女の身体を気遣ったのか、それとも兄を刺したことへの申し開きをしようとしたのか、その時のシラスには何方であったかは分からない。其れでも立ち上がりひたひたと歩み寄ってくる母を放置しては居られなかった。
 呼び掛け、寄り添うように手を差し伸べたシラスのことなど母は気付かないままだった。ふらふらとした歩みは、一直線に倒れ伏せた兄の元へと向かっていた。
 最早ぼやけた輪郭に、歩む足だけは何故か確りとしたアンバランスな様子をシラスは茫然と見詰めることしか出来なかった。
「母――さん」
 呼び掛けても反応がない。其れはいつも以上に、自身の存在などこの世界には無いかのように。シラスは眺めて居た、床に倒れたカラスの傍へと寄り添うように座り込んだ母を。
 動きの一つ一つが緩慢で、スローモーションの映像を見ているかのようにシラスは感じていた。のんびりとした仕草で傍らへと座り込み、母は兄の頭を撫でる。幼児をあやすような、優しい指先。シラスが何時だって求めて『兄がしてくれた』優しい動き。意識も朦朧としているのか、兄は母には何の反応も返さない。
 優しい仕草と共に、彼女が何かをぼそぼそと呟いている事に気付いてシラスはゆっくりと近寄った。大丈夫、だとか。お医者さんを呼びましょう、だとか。屹度、普通の言葉を期待したのかも知れない。

 ――♪

 母の唇が、慣れたように唄を紡いだ。懐かしい子守歌、幼い頃に母がよく歌っていた。幼いシラスにとって大好きであった懐かしい。
 己の中で、何かが壊れた音がした。がらがらと感情の決壊が始まった。兄のことも、母のことも、シラスは分からなかった。
 ただ、唯一分かったのは母の中に『シラス』という子供は何処にも存在して居なかったと言うことだった。母の中では『カラス』という嘗ての愛しい人との間の子供だけしか存在して居なかった。生計を立てるために身を売ってきた彼女にとって、望んでも居ないのに身籠もった自分の事は、何もかも。

 ――――――
 ――――

 冷たい、と感じたのは気のせいでは無かった。気付けば一人で街外れに立っていた。
 此処は何処だろうかと周囲を見回せど何時もの如く掃き溜めに生きるだけの人々が存在して居るだけだった。薄ぼらけの空は朝を感じるにも厚い雲が時間さえ忘れたかのようで。
 何があったのか。如何して此処に立っているのか。シラスは思い出すことが出来ない。
 だが、手にはべっとりと誰かの血が付いていた。シラスは雨が洗い流すように垂れてゆく赤い雫を眺めながら余程酷い事をしたのだろうと考えた。
 初めて人間を刺した事など、最早考えることも無く。誰をどのようにしたのかさえも少年の壊れた心は考えることを止めていた。
 嗚呼、屹度。これは何かがあって『生きる為』にしたのだろう。それならば仕方があるまい。人間は生きる為ならば何だってやらねばならないのだから。

 此処から如何するべきだろうか。帰る場所はない。家は――……屹度、自分が此処にいると言うことは母が死んでしまったのだろう。
 兄も暫く出掛けて返ってきてはない。家族の居ない襤褸い部屋に戻った所で得るものは何もない。僅かな日銭を稼いでイイコの顔をして過ごすのにもうんざりだ。
 進む先も分からない。何をするべきなのか。そんな目標さえシラスは持ち合わせては居なかった。
 其れでも、此処で立ち竦んでいれば『子供』なんて奴隷にされるか、売り払われるか、戯れで殺されるか、酷い目に合うことは分かりきっていた。其れに甘んじて運命だと受入れる気は毛頭無い。何をする事もできないままにシラスはふらりふらりとスラムの奥へと流れていった。
 家族という枷など存在して居ないとでも言うように足を縺れさせながら。抜け殻の心に昏い炎を灯らせて。
 その熱だけがという少年を生かす。
 その熱だけが――自分が自分であると教えてくれるような気がして。

 幻想王国レガド・イルシオンの空は高い。顔を上げれば見える王城の壁は遙か空の上にあるかのようにも思えた。
 見上げれば英雄の島と称される空中神殿が見えた。御伽噺で語られたその場所が少年にとってはあり得ないものの象徴で、到底自分には無縁の恵まれた生き方。
 降注ぐ雨の中で、少年は気付かぬままに何もかもを失った。

 お兄ちゃん――そう呼んで。夕日の中で抱き締めてくれた優しくはないけれど格好良くて導いてくれた兄。
 その導きを失った事さえ、憶えては居ない。
 影が伸びた。雲間からチラリと見せた朝日が其れを伸ばして雲に覆い隠されては消えていく。二人分であったそれは気付けば一人に変わって。
 その僅かな時間さえ、忘れた少年は地獄のように己を捉えた炎をその胸に燻らせながら生きて往く。

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