君に倖あれ

登場人物一覧

　ましろいはね。
　陽のひかりを編み込んだきんいろの髪。
　あおい、晴れ渡ったそらのようなひとみ。
　澄んだ白い指先。
　祈り、神の言葉を聞き届けるいきもの。
　――わたしの生まれた村のひとびとが御遣いと信じていた『天使様』

　もしも、もしも世界に天使様が居たならば。
　きっと――彼女のような姿をしているのだと、そう思った。

　その日はちょうど、雨が降っていた。ざあざあ、と音を立て滴が人の言葉の様に詮無く降り注ぐ。
　白亜の都に似合わぬ泥の気配を纏った旅人の後ろに、息を潜める様に姿を隠した天使様。
　その姿は清廉なる神の御遣いでもなく、ただのひとりのおんなのこだった。
　いとしいいとしいと、しとしとと降る雨の中、その感情を降り積もらせて、泥を啜る様に彼女はそこに居た。
　その姿を見て、誰がかみさまの使いだと口にするのだろう。
　恋に生きて、愛を知って、只、それに惑い涙を流す。
　それはひとりのにんげんであって、ひとりのおんなのこ。
　彼女も、自分も。迷い悩みながらいきている――そう認識させられた。
　ローレットへと彼女を誘い、身寄りのない彼女は日々をローレットで過ごしているのだという。
　雨の日からは暫くは毎日の様に、今では三日に一度、エーリカはローレットへと足を運んだ。
　特異運命座標だから？
　……それもあるだろう。特異運命座標として導かれた者は皆、ローレットを通して仕事をしている。
　エーリカにとってはそれだけではない。

　――彼の命も、あなたのことも背負っていく――

　その言葉に。朧げな、輪郭さえ整ってない月を眺めながらエルピスは特異運命座標の手を取った。
　夜鷹と呼ばれた一人の少女にとってそのことのははどれ程までに自身への重責であったか。
　その重責を担ってもいいと思えるほどに、彼女は残酷なせかいに泣いた少女の手を握りたかった。
　今や友達だと名を呼び、そっと手を握りしめる聖女の殻に向けたことのはを違えぬように。
　彼女の事を背負う。何も知らぬ、彼女の事を。
　幼子の様に珈琲の暖かさも、鮮やかな月の美しささえ知らぬ無垢なおんなのこに会いに行くとエーリカは決めていた。
　不便はないだろうか。
　寂しくは、ないだろうか。
　何か、知りたいことはないだろうか？
　その白魚の指先を握り、エーリカはエルピスと共に街へ出た。
　買い物の仕方を教えようと、彼女も教わりたいのだとエーリカに緊張したような澄んだ空色を向けて。
「……いい？」
「はい」
　緊張に、店主とうまく会話を交えることのできないエーリカの傍らで、自身の事の様にエルピスも緊張していた。
　唇を噤み不安げにエーリカと店主の顔を見比べて。
「先輩、というのでしょう？」
「……わたしが？」
「はい。雪風さまが、仰っていたのです。先達（さきにいるかた）は皆、先輩と呼び親しみ、そして尊ぶのだと」
「頼りに、ならない先輩、かな？」
「そんなこと、ないのです。わたしにとってはエーリカさまはせかいをあたえてくれるから」
「せかいを？」
「はい。エーリカさまの冒険の道に倖あれ。わたしに、おしえてください。
　しらないことばかり。エーリカさまは、わたしにせかいをあたえてくれるのです」
　夜鷹と謗られ、泪していたばかりの自分の幸福を願ってくれる。
　エーリカは「頼りにならないでしょう」と唇を震わせた。
　エルピスはきょとりと瞬き首を振る。林檎一つ買う事もままならぬ自分に教えて呉れるのですから、と笑みを溢したエルピスにエーリカの頬は赤らんだ。
　耳朶に言葉が流れるだけ。かみさまの言葉を聞けぬならば只のあるだけのものであったそれに忘れ路の贈物で聞こえるようになった声を耳にしながらエルピスは店主の笑い声を聞く。
「お嬢ちゃん達はあまり買い物はしない？」
　そうやって優し気にかけられた声にエーリカは小さく頷けばエルピスは「いま、おしえていただいてるのです」と微笑んだ。
「林檎が欲しかった？」
「いいえ、おかいものをしたことがなかったのです。はじめて、ですね」
　たどたどしく――耳の聞こえぬ彼女に取っては言葉もまだ選び、そして、口にするのも緊張するのだろう――告げる其れにエーリカは「そう。たくさんのはじめましてを、してるの」と店主へと告げた。
　手渡された林檎が二つ。その丸みを帯びたフォルムを眺めながらエルピスがほう、と息を吐く。
　上手く教える事が出来なかった。格好悪いと照れを滲ませながら、それでも尚、自身も生き方と在り方を学んでいる最中だから。
　先輩という呼び名は擽ったくも、どこか暖かい。共に知っていけるだろうかとエーリカはエルピスに笑みを溢した。

　しとしとと、降る雨がやんで、よっつの月が巡る。
　冬の寒さも、悴む指先のあたためかたも教えた。
　花散る朝に、雪解けの気配を眺めた。
　欠けた月は笑みを見せ、昏く瞼を伏せった夜が明けた朝。小鳥の囀りに挨拶を返してエーリカは街へと出た。
　いつものように。
　けれど、いつもとは少しだけ違うおくりものを持って。
　エーリカはぎこちなくローレットの扉を叩く。
　扉を開いて、顔を出し、エーリカの姿をみとめればその瞳に鮮やかな幸福が過る。
「こんにちは、エルピス……きょうは、おでかけをしない？」
「こんにちは、エーリカさま。おでかけ……はい、よろこんで」
　柔らかに笑うエルピスにエーリカは頷いた。
　夜鷹。その呼び名。闇を纏わずに表を歩く事はエーリカの胸に未だ少なくない不安を残す。
　あの雨の日、夜鷹と呼ばれる乙女は只の聖女の殻、骸と呼ばれた憐れなかたまりの抱く不安を確かに感じた。
　このせかいはそうして不安を抱いた少女たちを傷つける者ばかりではないのだと、確かにエーリカは知っていた。
　石を投げられ、禊とその身を削ろうとも、旅路の中で出会ったひだまりのあたたかさは確かに存在していて。
　やさしいひとたちは皆、その手を差し伸べてくれたのだ。
　今日も、エーリカはエーリカとして、エルピスにあたたかさを教えるために手を引いた。

　ゆっくりと、ひだまりのなかを歩いていく。
　あたたかな陽射しが金に透けて、天使様はおどおどと夜色に縋る様に歩んでいるのだ。
　エーリカは笑みを溢す。光の色を一身に受けた冬の色を閉じ込めた薄氷を細める。
「今日はどこへ？」
「あのね、わたしが幻想にきたばかりのころのおはなしをしても、いい？」
　囁くようにエーリカは云った。街の喧騒がカーテンの様に捲られ、鼻先擽る青い風に目を細める。
「わたしは、街に入ることが怖かったの」
「そう、ですね。とても……沢山の人が居て、とても、きゅうくつです」
「常識が、分からなくて、生き方もあり方も、なにもかも。
　だから、その時に拠点にしていたおおきなおおきな樫の木の『うろ』」
　ゆっくりと指さして、エーリカはいたずらっ子の様にエルピスに振り返る。
　ひとりで座れば少し寒いけれど、ふたりならばちょっぴりきゅうくつな誰も知らないエーリカのひみつきち。
「おおきな樹の、せまくて、ちいさくて、すてきなばしょ。
　ここが、エーリカ様のせかいだったのですね。ここが、エーリカさまのはじまり」
「そう。だれも知らない、わたしだけのひみつきち。――ほら、エルピス。はいって、はいって」
　手招いて。少し、身を縮こまらせてエーリカはエルピスと共にぎゅうぎゅうとうろに入った。
　腰掛けて、二人して寄り添えばきゅうくつだねと二人して笑い合う。
　傍らに落ち着く様に息を潜めて、エーリカは緊張した様に足元を眺めるエルピスに微笑みかける。
「えへへ。ここにだれかを連れてくるのは、はじめて。みて、落ち葉をいっぱい敷いてあるからふかふかなの」
「素敵なカーペット。落ち葉と言うのはこんなにも柔らかいのですね。……わたしが、はじめて……。
　エーリカさまのひみつきちさまにとっては、はじめてのおともだち、でしょうか？」
　ぱちり、と瞬くエルピスにエーリカは擽ったそうに目を細めた。はじめてのおともだちと呼ばれればどこか恥ずかしい。
　樫の木を眺めて不思議そうなエルピスにエーリカは「『ひみつきち』さまじゃないよ」と虚空を撫でる。
「ほら」
　淡い光がふわりと見える。それがエーリカにとっての倖或る隣人。精霊たちであることにエルピスは瞬いた。
　きらり、きらりと光りが躍る。
　エルピスの瞳に映るひかりは確かなもので。唇を動かして、脳裏に流れる様な声音を聞きながら、ぎこちなくエルピスは「これが」と囁いた。
「精霊さまですか？」
「そう。それから、動物たちのちからを借りてつくった、とくべつな場所」
「すてき。エーリカさまの為にと思ったおくりもの、なのですね」
　その鮮やかな青が細められる。エーリカはその瞳に彼女のよろこびが溢れている気がしてバスケットを抱き締めた。
「それは？」
「これは」
　バスケットを開いて、あまいかおりが鼻をくすぐる。たっぷりの果物とたまごを使ったバターケーキ。
　作り方を覚えたばかりのそれを緊張した様におずおずとエーリカが差し出せば、エルピスは「まあ」とぱちりと瞬いた。
「エーリカさまがつくったのですか？」
「……あのね、きょうは、とくべつだから」
「とく、べつ？」
　首をこてりと傾げたエルピスのそらのいろの瞳が瞬かれる。エーリカは冬いろを揺らめかせて、ううんと小さく唸った。
　深い夜色を指先で擽りながら「その……」とエルピスをちらりと見遣る。
「……お、おたんじょうびかいを、したくて」
「おたんじょうび、かい？」
「……あなたの」
　そう、頼りなさげに。揺れる声音で告げたエーリカにエルピスは驚いた様に唇を震わせて「わたしの」と小さく返した。

　エーリカにとって、陽の色の天使様はきれいな存在だった。
　それでも尚、泥の中で骸と呼ばれ雨に打たれたその姿にエーリカは声をかけずにはいられなかった。

　――あなたとえにしをつなぐことができて
　こうしてことのはをかわすことができることが、とてもうれしい――

　痛みを抱いて、ひかりを望んで。
　諦めて命を絶つ選択肢だってあった。
　いとしいいとしいと泣いたたびのひと。彼のいのちの灯が消えるときでも、彼女はそっと手を取ってくれた。
　希望の名前を背負って生きると決めた勇気。
　あたたかな日の色の天使様の、ちっぽけで、それでも尊い勇気がちからをくれたのだとエーリカはエルピスを見詰めた。
「ねえ、エルピス」
　すこし屈んで？
　そう、強請る様に言ってエーリカは陽の色の髪を撫でる。
　うつくしいきんいろがさらりと彼女の頬を撫でた。その髪を撫でながら彼女によく似たいろのネモフィラの髪飾りを飾る。
「これは――」
「おはな」
　夜の色にも、淡いあおいろを咲かせて、エーリカは照れくさそうにエルピスを見る。
「おそろい、というのでしょうか？」
「そう。おそろい」
　淡いあおにエルピスは嬉しいと目を細める。
　あまいかおりのバターケーキを手渡して、一口齧ったエルピスが「エーリカさまはわたしに奇跡を与えてくれるのです」と瞬いた。
「あまいお菓子も、こうした自然のかおりだって、わたしにとっては未知ばかり。
　エーリカさまが、『お誕生日会』をしてくれたから、わたしはたくさんを知れたのですね」
　こういう時、プレゼントを渡すのでしょう？　とエルピスは笑った。
　彼女の知識は共に在る情報屋――雪風の見聞にも随分寄っている。彼は一般的な少年であり、エルピスにとっても悪いことはあまりないのだろう。
　誕生日だと彼が何となく投げて寄越したペンとノートにエルピスはエーリカが教えて呉れたものをたくさん書き込んだのだと嬉しそうに目を細めた。
　エーリカは瞬き、自身のことのはがエルピスの中で『奇跡』として綴られていることに幸福を覚える。
　きっとそれは、ローレットの扉を叩くのと同じように、エルピスへとあたらしいせかいを与えているのだろう。
「わたしはおしゃべりが上手じゃないけれど……でも、わたしの見たせかいのことを。
　ひろい、ひろい、このせかいのことを、あなたに、たくさん伝えたいから」
「はい。わたしも、エーリカさまのおはなしをたくさん、たくさん聞きたいのです」
　白亜の都の、有り得もしなかった未来を夢見るだけだった聖女。
　彼女の手を握りしめる。

　――生まれてきてくれて、ありがとう
　――わたしの、たいせつなおともだち

　ほんのりと暖かい。その掌がここにあるのだと教えて呉れるから。
　木漏れ日の下でないしょの話をしよう。
　ひとつ、ふたつ。
　見て、知った、しあわせを。
　見て、泣いた、ふこうを。
　見て、驚いた、しんぴを。

　あなたに、どうか、さちあれかしと――ねがいを、いのりを、ことのはに託して。
　たいせつなたいせつなおともだちに、この広く美しく、残酷なせかいをことのはに乗せて語り続ける、
　わたしたちは、痛みと共に生きている。
　けれど、だからこそ――せかいをひとつ知るたび、いとおしいと思うのだ。
　あおいはなを揺らして、言葉にしよう。

　きみに、さちあれ。