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Till death to us part.
登場人物一覧
月の光が、割れたステンドグラスを透いて赤い絨毯を濡らしていた。その絨毯も、煤け、埃と汚れで斑になっている。参列者が座るはずの長椅子はそこかしこが砕け壊れて、散った木片が足下でざらつく有様だ。
昼、日の光の下で見れば陰鬱で陰惨な教会跡、どこをどう見ても廃墟でしかない空間である。……そこは、疾うに人が去った教会だった。恐らく、神ももういはしまい。けれどそれでよかった。『これは、ごっこ遊びなのですから』、『――それに、誓う先は神ではなく、ぼくでしょう』――
これは、たった二人きりの叙任式。
他の誰もあずかり知らない、世界の片隅の教会で行われる、女王と騎士のささやかな儀式だ。
「――汝、ヴィクトール=エルステッド=アラステア」
呼ばれた青年が、すうと顔を上げた。
跪いたまま声の方を見仰ぐのはヴィクトール=エルステッド=アラステア(『黒鉄の愛』・p3p007791)である。髪を整え礼装の上に外套を纏ったその姿は壮麗にして華麗、まさにこの『儀式』に相応しい姿であった。
ヴィクトールの視線を受けて、硝子で出来た鈴を鳴らすような、透き通って煌めくような声が続き、夜の教会跡の空気を震わせる。
「告げます、我が全ての盾よ。あらゆる暴虐と脅威に逆らい、我が身を斬り穿つ剣を阻む守護者となりなさい。――今、この夜、我が名と汝の誓約において、汝に騎士の位階を与えます」
朽ちた祭壇の前で、青い鳥が謳う。
声を発する少女――否、女王が纏うのは、白い白い、夜目に鮮やかな礼装だった。テールによる色のレースをあしらった純白のドレスに、赤いサッシュ。腰元に青薔薇のブローチが輝く。ダイクロイックアイが厳かに光った。口上は淀みなく、照れも、笑みもなく、ただ静かに、切々と続く。
「前へ」
命ずる声。
――ああ、そうしているとまるで本当に女王様のようではないですか。
ヴィクトールは内心で感嘆しながら、滑らかに立ち上がって女王――散々・未散(『L'Oiseau bleu』・p3p008200)へ向けて歩いた。祭壇の前に至るまでには三段の段差。少々高さがある。長身のヴィクトールであったが、段差の上にいる未散と目線を合わせるには、少しばかり顎を上向けねばならない。
未散まで五歩かそこらの距離まで詰めると、ヴィクトールは段差を上ることなく、示し合わせたとおり、踵を合わせて立ち止まった。鷹揚な未散の頷きに応じて再び、片膝を立て礼を示す。
見下ろす女王。見仰ぐ騎士。
礼装で身を固めた二人の余りの壮麗さと、厳かな空気。余人がそこにいたならば、束の間、ただの廃教会の筈のそこが、儀式に相応しい神聖な場所となったかのような錯覚さえ受けたことだろう。
とつ、とつ、と音を立てて未散が段差を降り、跪くヴィクトールの前に到る。
「我が身命こそ汝が身命。ひとたび、契りを誓ったのでしたら。ぼくの素知らぬ所で斃れるのは赦しませぬ。盾が主を護らず果てては、盾の名折れというものでしょう? ――ふふ、では、誓うや、否や」
無垢に微笑み、儀式を結ぶ前の最後の言葉を投げかける未散。応えるまでもないその問いに、けれど普段の柔らかな口調ではなく――『騎士』としての声を作り、ヴィクトールは返す。
「――今さら否もございません。誓いましょう。
盾の騎士の声に、女王は満足げに笑って頷く。
「ならば、剣をこれに」
目を閉じ、礼するようにうつむくヴィクトールを前に、しゅらり、と未散は剣を抜いた。黒曜石の
剣の平に口づけを落とし、ヴィクトールの肩を三度、その平で打つ。盾を慰撫するように優しく、けれど確かに。剣を引き、音もなく鞘へ収める。鍔鳴りの音を耳に迎えて、ようやくヴィクトールは顔を上げ、瞑目を解く。
――開いた目の前には、嫋やかな手が伸べられていた。
「誓いはここに。――おはようございます、ぼくの騎士さま」
愛らしく笑う未散の手を、正に騎士めいて取ってヴィクトールは立ち上がる。
その腕の中にするりと身を寄せて、未散はヴィクトールの左胸に手を伸ばす。すうと掠めるようにして未散が手を離せば、いつの間にやら彼の外套の襟口には、未散が腰元にあしらったのと同じデザインの装飾が光っていた。青薔薇のブローチ。
「おそろい、ですよ」
「――ありがとうございます」
花言葉なんて概念を、ヴィクトールとて常々気にしていたわけではない。けれど、青い薔薇なんて本来『ありえないもの』の花言葉は、偶然ながらに記憶の片隅に残っていた。
『
――転じて、『夢叶う』。
襟元に贈られた、金に縁取られた青のブローチに、ほのかな熱が点っているように感じられる。
片や、全ての記憶を失い、今やただ人を守る機構として駆動し続ける黄金の王。
そして、王たる血統を帯び、誰しもを救う王となることを望み願った、――優しい誰かの模造品。
彼ら二人共が
けれど、それでも。
その弾指の間、束の間の隣人であったとしても、今この瞬間、思い出せない過去を、空いた心の隙間を埋め合うだけの、ただの傷の舐め合いに過ぎぬ儀式を交わすだけの間柄だったとしても――
ただ、今、それが心地よい。
そうでなくてはこんな、何の意味もない儀式を交わすはずがないから。
剣を通したキスをして、絆を確かめるような事をするはずがないから。
ヴィクトールは小さく咳払いをする。その次の声が曇らぬように、なるべくはっきりと伝わるように。
「まあでもそうですね。しばらく、ボクの隣はチル様の場所かもしれません。我がお姫様……なんて。ああ、ボクには何処までも似合わないですねこういうの!」
先程までの迫真の演技はどこへやら、あっけらかんと笑うヴィクトールに、やや眉を下げて笑い、未散がいらえた。
「そんなことはないんですけどね。…………ふふ、でも、ぼく。想うんです」
「?」
きょとんとした表情を見せるヴィクトールに、内緒話をするように、悪戯な微笑みを魅せて、未散が続ける。
「護られるだけじゃ物足りないと。伴に戦場に並び立つ、そんなおひめさまでも宜しくて?」
「――なるほど」
お転婆、というわけではないけれど、ただ守られるだけではいられない。
ヴィクトールは知っている。この心優しい少女の本質を。
「ええ。勿論構いません――横ならば、いつでも空いて居ますからね」
「ふふ。では独り占めしてしまいましょう。――そんなことを言って、いつ誰かに埋められてしまうか分かりませんもの!」
冗談めかした未散の声は、だれか、自分以外のひとに、その席を占められると危惧しているとは不思議と思えぬ口調であった。
何気ない声。何気ない仕草。けれど、幾度も彼女の手によって
イレギュラーズの隣には、常に最も親しい隣人がいる。
いつ何時抱擁を交わすとも知れぬ隣人。――首に掛かる冷たいその指の主を、死神という。
死んでしまっては何も伝わらない。
想いは煙ほど軽くない。宙には昇らず、だからずっと届かない。
声の裏側を読んで、ヴィクトールは冗談を交えながらそれを肯定した。
「ご尤も。こうやって遊んでいられるうちに遊ぶのが一番です。何が起こるか、わかりませんからね。――けれどチル様、一つだけ。ボクがボクである内は、」
すいと未散の手を掬い取り、ヴィクトールは先刻までの騎士としての声のままで、
「ボクは貴女の騎士にして、盾です。――そこに不安なんて、感じなくて良い」
そこだけは。
その軸だけは遊びではないと伝えておきたかったから。
「――、」
青い鳥は束の間、息を呑んで。プリズムめいた美しい瞳をいっぱいに開いて、驚きを目に湛える。
少しだけ――ほんの少しだけ、ヴィクトールが、それを『もう少しだけ見ていたいな』と感じたその瞬間に、未散はきゃらきゃらと笑って、いつもの表情を取り戻した。
「ふふ、ふふふふふ、ふふふ! あぁ、可笑しい。可笑しいこと! ――ヴィクトールさまが言うみたい。こんなの、ぼくの柄ではないのに! ――ねぇ、笑い過ぎて、喉が渇いてしまいました。騎士さま、お茶を淹れて下さいませんこと?」
未散が一歩、離れた。とん、と、軽やかに、まるで孔雀が一歩下がるように優美に。
それを留める腕も、籠も、ヴィクトールは持っていない。彼はそういう感情を
「おや、其れも亦、騎士の役目なのでしょうか? 何時も通り、適当なものしかお淹れ出来ませんが」
「構いません――丁度、ぼくもそんな感じのものが飲みとう御座いましたので!」
笑う少女に合わせ、ヴィクトールもまた笑った。
笑いかけたい気持ちと、胸の裡に去来した、説明の付かぬ感情の間で揺れながら。
月下の刀礼は、そうして終わりを告げた。廃墟をあとに、歩調を揃えて歩き出す。
暖かい、蜂蜜の入った紅茶を啜りながら語らえば、すぐに何時もの通りに戻れるだろう。
きっと、そうだ。
そう信じている。
青い鳥も。錆びた金の王も。
未知の前では、全てが同じ。
嗚呼、今は、絡めた掌の間の無温を感じながら、
――月下、次に口にするべき言葉を探している。