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生命を救うと決めたなら
登場人物一覧
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ざあざあと雨音が聞こえる。
ざあざあと雨音が聞こえる。
仰向けになって、髪を泥で濡らして。そんなの、普段ならすぐにでも飛び起きて、払い除けたいところだけれど。
ざあざあと雨音が聞こえる。
傘もさせていないというのに、動く気になれない。雨宿りもできていないというのに、動かすことができない。
雨音が続いている。雨音が続いているのに、身体を雨で打たれているはずなのに、その感触がない。体中を細かくつくような、あの感触がまるでない。
感じるのは、腹部の熱ばかりだ。鋭い牙で貫かれ、赤々と濡れた腹だけが、強烈な熱を持って現実だと知らしめている。
外皮の硬い化け物だった。どんな熱も通さず、獰猛で、俊敏で、あのままでは討つことも逃げることも叶わなかった。
外側がダメなら、内側ならどうだろうと、自然に思いついた。根拠なんかない。鎧が硬いなら、その内部は脆いのではないかという、ただの予測だ。だがそれも、易しくはない。動きのは早い怪物の、口の中を狙って攻撃するなど、万にひとつも不可能だ。
だから、だからだ。自然な発想。牙が武器だと言うのだから、自分に噛みつかせてその内に攻撃すればいいと考えた。
少なくとも、この身体が豆腐のように崩れ去ることはない。肉に噛み付いた瞬間を狙うことは容易い。ましてや正真正銘のゼロ距離なのだ。外す方が難しい。
問題があるとすればふたつ。本当に体内が弱点であるかは確証がないということ。そして、致命傷を避けられる保証がないということ。
たったそれだけだ。だから実行した。
自分に身を相手の前にさらけ出し、腹部に噛みつかせ、動きが止まったところを焼き尽くしたのだ。
賭けは半分成功で、半分失敗。
予想通り、硬い外皮に覆われた中身は脆く、術式の勢いに耐えきれず、怪物は内側から炭になった。
そして代償に負った傷は思うよりもずっと深く、こうして雨に晒されようと、フルールは身動きひとつ取れずにいるのだった。
良くはない状況だ。それを理解はしているのだが、どこか遠い他人事のようにも思えてしまっている。それは自身の死生観によるものか、はたまたこの状況を認識する能力が脳から失われかけているのか、それとも、両方か。
現実として、腹部に感じる熱すらも失われつつある。つい先程まで、あんなにも痛くて、何か他のことを考える余裕などまるでなかったのに。
指先ひとつ動かない。このままでは死ぬ。わかっていても、何をするということもできない。
結果は出ていて、それが瞬間ではないと言うだけ。そんなことを思っていると、ぬっと、自分の上に影がさした。
雨音が一瞬、聞こえなくなったように感じる。誰かと確認しようにも、既に視界すら朧気であるのだ。
追い剥ぎか、実は生きていた怪物か、血の匂いに誘われた獣か。それとも、稀有なことにどこかのお人好しか。
そのまま任せるには分の悪い賭けであったが、だからといってこれ以上、自分で何ができるわけでもない。だから意識を手放して、任せてしまおうと思った。これも運だ。
なに、今日は分の悪いギャンブルなど一度済ませてある。
結果はフィフティフィフティ。どうにも出目は良さそうじゃないか。
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目を覚ました時に知らない部屋にいたら、どのような反応をするべきなのだろうか。
誘拐、という線はまず薄い。丁寧にベッドに寝かされて、拘束されているわけでもない。部屋の鍵くらいはかかっているかもしれないが、自分を閉じ込めるには、不十分もいいところだろう。見るからに術者と言った特徴を持っているのだ。悪意によって対面するのなら、無警戒にも等しい行為である。
だから結論として、
「天国って、あったんですねえ」
とりあえず布団が暖かく、まだ寒気の残る朝のそれにはなるべく触れたくはなかった。
布団を被り直そうとして、違和感と痛みがそれを留めた。全身を硬直させるそれが、記憶を呼び覚ませてくれる。意識を失う前の記憶をだ。
戦って、いたはずだ。何とだっけ。少しだけ曖昧。息も絶え絶えに、最後の力を振り絞り、玉砕を覚悟で。そのような戦いであったはずだ。どうなったんだっけ。相打ちに、なったんだっけ。
「じゃあ、やっぱり天国かもしれません」
それにしては、想像していたものと随分違うけれど。
痛む身体に顔をしかめながら、ぬくもりという誘惑を跳ね除けて上体を起こす。体の内側から針で刺されたかのように痛むものの、咳込みも、血を吐きもしなかった。
じゃあ大丈夫だと、楽観的に考えてしまう。
ベッドから立ち上がり、全身を確認する。
「お化け屋敷で、アルバイトができそうですね」
それがまるで衣服であるように、全身の至るところに包帯が巻かれている。裂傷、擦過傷、切り傷、噛み傷、骨折、逐次数えていれば指折りで足りはしまい。
何よりも手厚くされているのは腹部のそれだ。包帯越しに指先で撫でると、そこにある傷の深さを思い出したようにぐらりと身体が傾いた。
どさりとまた、ベッドに倒れ伏す。目の前がチカチカと瞬いている。脳に電気の網が巻き付いたような錯覚。手足が異常なほど重く、けだるい。
「…………ひどい貧血」
「それはそうだろう。あのままでは、出血と体温低下で死んでいた」
いつからいたんだろう。声をかけられて、ようやっと気配を認識することができた。驚いて振り向きたいのは山々だが、もう少しの間身体は動かない。
男の声。気配を感じさせず、部屋に入ってきたのか。それとも、最初から居ても気づけぬほど自分が衰弱しているのか。
「……乙女の部屋に入ってくるなら、ノックしてくださいよ」
「部屋を借りたのは俺だから、この場合は俺の部屋だろう」
そういう問題ではないが、反論する気力は湧いてこなかった。
なんとか目の前のチカチカが晴れたので、ごろんと寝返りを打って、簡素な天井を目に映す。
「助けてくれたんですね。ありがとうございます」
確証はない。だけど確信はあった。自分を助けたのは、きっと彼だろう。あの場所で気を失った自分を抱え、治療を手配し、ベッドに寝かせたのだ。
「あのまま放っておくわけにもいかなかったからな」
これで二勝一敗。なんと運の良い日であることだろう。
「死んだと、思ったんだけどなぁ」
「……何か言ったか?」
返事の代わりに、寝返りを打って背中を向ける。別に命を救われたことに不満があるわけではない。感謝とか、警戒とか、混乱とか、そう言ったものが綯い交ぜになっているだけだ。
突然の場面転換に、まだ脳処理が追いついていないだけなのだ。
「なあ」
そんな風に感情を整理できないでいると、向こうから声をかけられた。
そういえば、ここは彼が借りた部屋であるらしい。つまるところ、自分はあられもない格好―――全身包帯はそう表していいだろう―――で彼のベッドに横たわっていることになる。
どこかおかしな緊張を感じていると、かかったそれは思いもよらないものだった。
「なあ、いつもあんな戦い方なのか?」
「……あんなって?」
わかっている。わかってはいる。自分の命を容易く卓上に差し出すような戦い方を選んだのだ。自分から己の命でギャンブルをしたのだ。
これはその代償。そう考えれば支払いの安い方であるというのに、なぜだか思わず聞き返していた。
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竜真が見たものは、それはそれはひどい光景であった。
雨の中。目に映ったのは体の一部を炭化させて絶命している怪物と、流れきらず溢れるばかりの血溜まりに横たわっている少女。
まだ命が残っているのだろうか。仰向けに倒れる彼女の上から覗き込んだ自分を見て、彼女はすぐさま気を失った。すわ息を引き取ったかと思いはしたものの。血は止まっていない。出血で肌は青く変色しているものの、弱くはあるが脈がある。
生きていると確信すれば、判断は早かった。
腹の傷にあて布をし、応急処置用に持ち歩いている包帯できつく縛り上げる。雨の低音も今の彼女には猛毒だろう。すぐさま上着を被せて抱きかかえ、人里までと足を動かし始める。
場を去る時に、ひとつ気にかかった。詳しく調べる時間などなかったが、あの化け物は間違いなく内側から炭化していた。獰猛そうな牙に、べっとりと赤い液体。
つまるところ、この少女がとった戦術とはそういうことだ。距離を縮めて狙いを定めたのか、それとも自分から食われにいってカウンターを決めたのか。
そこまで定かになるわけではなかったが、少なくとも、今まさに命を失いつつある少女が、年齢らしからぬ非常に危険な戦法を選択したのは疑いがない。
戦うなと言うつもりはない。自分たちよりも幼い戦士など無数に居て、それをどうこうしようとは思わないのだから、この少女にもそれを押し付けはしない。
だが、こんな自分の命を顧みないような戦い方が長く続くはずもない。これを続ける限り、この少女の生命はいずれ容易く、あっけなく、なんでも無いところで落とされてしまうだろう。
それは今このときだったかもしれないのだ。
「ならば生命を助けることとはなんだ?」
自分はどうするべきだろう。竜真は自身に問いかける。失われかけている生命を繋ぎ止めて、それで終いでは同じことだ。いずれ、同じことが起きて、彼女はまた倒れるだろう。
その時、今日のような幸運に出会える保証などないのだ。
人はいずれ死ぬ。それは避けられない。だが、この死に方が、本当に少女に相応しいと思うのならば、どうして助けたのだ。
どうして助けたままで終われるのだ。
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聞いてみて、確信した。
この少女は自覚して戦い方を選んでいる。選んだ結果、自分の生命を容易くチップに両替しているのだ。
説き伏せることはできない。そんな戦い方しか知らないのか、それとも好んでそんな戦い方をしているのか。竜真には推量することさえ出来ない。
やめろと、口にするのは簡単だろう。するなと、釘を差すのは容易いことだろう。だがそれは自己満足に過ぎない。自分は彼女にとって生命の恩人かもしれないが、たかが生命の恩人でしかないのだ。彼女の生き方を、あり方を、戦い方を頭ごなしに決めつけることなどできない。
だから自問する。どうすれば救ったことになるだろう。どうすれば、生命を守ったことに―――答えは出ていた。
「そうだな。じゃあ次からは俺が守ろう」
「―――え?」
「そうだな。じゃあ次からは俺が守ろう」
「いえいえ、聞こえなかったわけじゃなくて。え、なんで?」
「それが生命を救うということだろう」
こちらに背を向けていた彼女が、思わず顔だけでこちらを向いた姿勢のまま、目を丸くしている。
どうしてそんな顔をされるのだろう。考えて、考えて、慎重に言葉を選んだ。
「今後、戦う際には俺が傍で君を守るということだ」
「待って。待ってください。え、どういうこと?」
選んだつもりだったのだが、うまく伝わらなかったようだ。もう一度整理しよう。命が危ない→救わねば→傍にいて守ろう。よし、何もおかしいところはない。
「あの、つまり……好きなんですか?」
「どうしてそうなるんだ?」
困った。何も伝わっていない。どうしてそういう話になるんだ。
それから何日も降り続いているこの雨が止むまで、何度も噛み合わない問答を繰り返すことになるのだが。
さて、どうしたものか。