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風の通り途
登場人物一覧
石畳へ叩きつけられた雨粒が、砂や土混じりに撥ねては足を染める。物寂しげな街をゆき、ゼファーは夜を凌ごうと一軒の宿へ飛び込んだ。だしぬけの来客と、開いた扉から吹き込む風声は、他の宿泊客をも驚かせた。
「あらまあびしょ濡れじゃないか! すぐ湯を準備するから、部屋へ荷物を置いてきなさいな」
恰幅の良い女主人が、ぎょっとしてゼファーへ声をかける。雨除けの外套を脱いでも着心地の悪さは拭えず、ゼファーが礼を告げると、鍵をぶら下げた別の女性が顔を出す。彼女はゼファーを部屋へ案内しようとして、ぱしぱしと瞬いた。
「あっ、こちらへどうぞ!」
明らかに驚いた様子で彼女はゼファーの前を歩く。歳や背丈はゼファーと変わらない。それどころか冴えた月灯りを思わせる銀糸の髪も、空と海の狭間に似た青い
違う点を挙げるとすると、顔つきに服装、それと。
――なんだか不思議な声だわ。
なぜだか春を想起したゼファーはこの夜、彼女と話を楽しむ機会を得る。
皓々と点る暖炉の前に、湯も食事も済ませた娘三人――ゼファーと、彼女によく似た宿の娘、それと快活そうな短髪の少女――が集った。宿の娘が用意した菓子と飲み物をお供に、荒れた夜から気を逸らすように話を弾ませる。
「ぶちのめしてしまえば分かることの方が多いかしら」
「お強いんですね。どこかで習われたんですか?」
仕事の話をゼファーが紡ぐ度、温順を形にしたかのような面差しで、銀髪の娘が関心を寄せた。
「私には師匠がいましたからねえ。授かった技も知識も、旅路に無くてはならないものだったわ」
「女の子の旅って、やっぱり大変だよなー」
短い髪の少女が神妙な面持ちで頷く。旅人たる彼女も、ゼファーの言葉が身に滲みているのだろう。
こうして談話に実が入るや、新たな話に花が咲く。丁寧さと解れた言葉が、いつからか半混ぜになるぐらいに。
「私、今日のことを画に残すつもりなの」
宿の娘が頬を上気させれば、一驚を声に表したのは短髪の少女だ。
「絵描きさん!?」
「……に、なりたいなって」
「素敵な夢ですね。いつか、あなたが描いた画を見てみたいわ」
ゼファーにそう期待されてますます頬が朱に染まるも、そんな彼女へ茶々を入れる存在があった。カウンター周りを掃除していた彼女の母親だ。
「まずは宿を切り盛りできるようになってからだよ!」
「わ、わかってるよ……母さんったら」
拗ねる感情を露わにした宿の後継ぎを目撃して、ゼファーも、そして一緒にいた少女も笑い出す。
一頻り笑い終えたところで、さてと、という掛け声と共に短髪の少女が席を立った。つられてゼファーも窓の外を瞥見する。夜も更けてきたが、戸を叩く強風は衰えない。席に着くときにはあった向かいの灯りも消えていて、多くの人が眠りに就いた頃合いなのだと知る。
すると宿の娘がせっせとカップや菓子の片付けを始めた。
もう少しだけ、寝るまでの時間を惜しむようにゼファーたちも彼女と一緒に手を動かす。
「アタシね。今日みたいな悪天候の夜は、孤独を感じるんだ」
髪を短く切り揃えた少女が呟いたのを聞いて、ゼファーが共感を示す。
「わかるわ。ひとりだと雨音とか風の音に、なんだか急かされている感覚になるのよねえ」
ゼファー自身が孤独を痛感するのではない。
旅をする者として、雨や風に促され、または急がされる道程はよくあると、感覚で告げただけだ。けれど。
「だよね。だからこういう時さ、今まで会った人のこと、寝る前にしょっちゅう思い起こす」
少女にとって、ゼファーの言は有り難かった。安堵の息が零れるほどには。
「そのうちアンタたちのことを思い出しながら、寂しい夜を過ごすだろうな、アタシ」
「寂しくなくなるなら、いいんじゃないかしら?」
穏やかに連ねたゼファーへ、少女がこくりと肯う。そして銀色の髪の
「離れてても力になれるなら、嬉しい」
素直な所感だ。だからこそ三人して、意識せず笑みを零す。
偶然の出会いを果たした娘たちの一夜は、外で吹きすさぶ雨風をよそに、やがて静かに幕を下ろした。
自身を孤独な風だと、ゼファーは考えたことがない。
風とは
名残惜しくはなかったけれど、自分に似た彼女の「お気をつけて!」という音は、やはり春風に咲う花に似ている。そう思った。
いらっしゃいませと響いた女主人の声は、花が開く様子を連想させる、優しく馨しいものだった。
「こちらの宿帳にサインをお願いします」
慣れた手つきで差し出された宿帳へ、ゼファーは筆を走らせる。そしてふと一瞥した先で、ある物を発見した。
カウンターの片隅で埃を被っている、手垢の染み付いた画板だ。美しい花彫りに薄く埃が纏わり付き、差し込む陽の一片を浴びて、きらきらと輝いている。筆を置いて久しいのだろう。立派な画板だけに、インテリアとして置かれているようにも見える。
「一年ぐらい前まではね、画を描いてたんです」
画板を見つめているゼファーに気付き、宿の主人が恥ずかしげに目を細めた。
「両親が急死してから、宿のことでいっぱいいっぱいで」
「それは大変だったでしょう。忙しくなると、なかなかねえ」
ゼファーが眼裏へ想い出を刷いているうちに、女主人は宿帳に記された名前や宿泊希望日数を確かめ終える。そして日焼けが濃くなった宿帳を仕舞いながら、「ああいう画を描いてたんですよ」と囁いた。眼差しで示された先、カウンター内の壁に掛けられていた額縁をゼファーは認める。
暖炉の前で催されたているお茶会の画だ。
描き手である女主人と当時の宿泊客が、笑顔と四方山話を砂糖にして紅茶やコーヒーへ溶かし、ゆっくり味わっている――そう見て取れるほど、描かれた人の顔は温まって赤みを帯び、心地良さそうに身体を寛げていた。
「素敵な画ね。眺めている方まで温かくなります」
「! ありがとうございます。あれが私の最後の作品なので……嬉しいです」
最後、と躊躇いもせずに女主人は告げた。ちらりとゼファーが顔色を確かめてみれば、諦めとも気持ちの転換ともつかぬ光が、女主人の瞳で揺れている。もう、何かを描くつもりがないのだろう。覚ったゼファーにはしかし、暗愁の念など有りはしない。
そう、と柔らかな返事のみで受付を済ませ、ゼファーは今宵羽を休める部屋へつま先を向けた。
「実はですね、ゼファーさんが入ってらしたとき、私びっくりしちゃって」
部屋への案内を担った女主人が、不意に口を開く。
「私、ゼファーさんとなんとなく似てるなって。ほら、髪の色とか……顔つきはゼファーさんに遠く及ばないけど」
照れ笑いする女主人へ、ゼファーは何を思うでもなくそっと目許を和らげる。
「本当ね、こんなそっくりな人と出会えるなんて滅多にないわ」
「でしょう!? これまでいろんなお客様がいらしたけど、今日が一番ドキドキしましたよ」
他愛ない会話で遠ざかっていく二人の後背を、一枚の画が――女主人の最後の作品が、じっと見守り続ける。
その画に、ゼファーの姿はなかった。