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いつか天使になって
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夜の帳が落ちる。天蓋には星を飾って。鮮やかな空の下、宵色のカーテンを閉めて目を伏せる。
おやすみなさい。
今日は良い一日でした。明日もまた、幸せでありますように。
祈る様に、花瞼を落として。アレクシアは眠りに落ちた。
深く、深く眠りに落ちる。
とぷり、と沈む様にふかふかと布団に埋もれていけば、その身体は宙に浮く。
――――
――
沈む。そして、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
夢うつつの判別は付かず、アレクシアは白い部屋に座っていた。
青いチェアに深く腰掛けて、真白のワンピースに身を包んだアレクシアの眼前には大きい窓が一つ。
青空に雲が流れていく。白はその軌跡を描き、時の流れを感じさせるから。
(夢……?)
椅子に腰かけた儘、窓を眺める。背後に或る『錠前が落ちた』扉には開く気配のない儘。
流れる空の色が変わり始める。青から暁へ、ゆっくりと――灯の様に燻る其れを眺める。
白き部屋には時間の感覚は分からず、只、窓の外の移り変わる空色を眺めるだけだ。鮮やかな青に差し込めた宵の気配が、赤く赤く燃えている。
まるで、焔が揺れるようだとアレクシアは茫と空を眺めた。
宙ぶらりんな気持ちの中で、空を眺める以外何の変哲もない白い部屋。音もなく、自身の息遣いだけが静かに感じられる。
「なんだろう……?」
ふと、気配がした。
ゆっくりと立ち上がれば、アレクシアに合わせた様に背後の扉に何かがぶつかる音がした。
こんこん、と音がする。リズミカルなノックと共に何者かの来訪を告げた扉の錠前が勝手にカシャリと音を立てた。
白いワンピースのスカートを持ち上げる。アレクシアは「どなた?」と首を傾いだ。
「こんにちは」
それはドス黒く濁り切った靄であった。赤と黒――まるで酸素に触れて色味を変えた血液の様な――濁った靄は人間の様に動いている。
「……どなた?」
「こんにちは」
再度繰り返された問答にアレクシアは息を飲む。その靄は次第に大きくなり部屋を埋め尽くす。
じわり、じわりと白い部屋に広がる赤黒き気配に彼女の背には大粒の汗が伝った。じめじめと夏に降り荒む雨の様に気色の悪い気配を孕んで、滲んだ汗の気配を祓う様にしてアレクシアは「あなたは」と囁いた。
「あなたは……人間?」
「こんにちは」
嗚呼、挨拶しか返らないではないか。プログラミングされた返答の様に繰り返す問答。
気づけばとっぷりと窓の外は闇に沈み白き部屋が靄に侵食され、頬に触れる気配があった。
――判別している。
彼女の脳裏には練達の研究者、クラシック・ローズの言葉が過った。
魂には重さがあり、肉体を捨てたならばそれだけちっぽけなものなのだと。世界を超越することができる『旅人』が肉体と言う質量事にこの世界に移されたとして、その事象そのものにケチをつけるわけではないがクラシック・ローズにとっては『魂の入れ物』が本来の自分であったとどうして証明できる? と問い掛けた。
悪人と前任の判別とて『入れ物』が違えば見方が変わるだろうとクラシック・ローズは言っていた。
幼い子供がやむを得ず人を殺したなら?
狼狽した女が怨恨で人を殺したなら?
大切な人を護るために男が人を殺したなら?
判別。判別。判別。
アレクシアは直接的でも間接的でも、そしてクラシック・ローズの研究でも手に掛けた人々のいのちがその頬より伝わった。
「こんにちは」
挨拶が、反響してる。狭い部屋に無数の声がする。子供の、大人の、女の、男の。
こんにちは、こんにちは、ハロー、ハロー、英雄、勇者、素敵な魔女様。
どうして、なんで、たすけて、いやだ、なにもしていないのに。
あなたに殺されました。あなたに殺されました。あなたに殺されました。あなたに、あなたに、あなたに―――
「ッ――――!」
がばり、と体を起こした。普段の自分の部屋が其処にはある。
それは汚泥の様な夢であった。悪意を鍋で煮込んだような深い憎悪の赤い夢。
自身の頬を触れど何の感触もない。赤黒い靄もなければ閉じたカーテンの向こうからは朝日が滲んでいる。
そろりと布団よりその脚を差し出して、スリッパに滑り込ませる。着地した足の感触を確かめながらアレクシアはぜ、ぜ、と息をした。
夢の中、確かに誰かの貌が過った。白い白衣に身を包んだ、あれは……
(クラシック・ローズさん――練達の、研究者……)
アレクシアはゆっくりと姿見の前に立った。普段と変わらぬ自分と、普段と変わらぬ自分の部屋が写っている。
その表情は暗く、いつものアレクシアだと言えば「違う」と否定する者もいるだろうか。
寝間着に身を包んだ自分を確かめて、アレクシアは小さく息を吐く。時計の針はもう直ぐ起きる時刻を示していた。
起きて支度をしなければ、ああけれど――不細工だな、と小さく笑う。頭を抱え、アレクシアは首を振った。
どうにも悪夢が頭から離れる気配がなくて彼女は深い息を吐く。
命を判別している。悪人と善人と、身勝手な判断で誰かを犠牲にしている。
――なんて、クラシック・ローズに言われるまでもなかった。
今まで依頼だと割り切って様々な人を『判別』してきたのだ。命に貴賤はないのだと口では言いながら――殺すべきだと言われたら凶刃を振るう。
何故? そんなの簡単ではないか。
憧れたのだ。物語の英雄に。兄に。
彼らは何時だって救いだった。暗雲立ち込める世界に光を。闇を払い退けて、笑顔と言う輝きを届ける。
だからこそ、一人でも多くの人を助けたかった。現実は物語程に甘くも穏やかでもなくて。
物語の英雄は傷付けど立ち上がった。物語の英雄は挫けても助けてくれる人が居た。
物語の英雄は――……
「甘くも、穏やかでも、強くも、万能でもないもんね」
ただの一度の邂逅は、その運命を違えるのだとアレクシアは知っていた。
ただの一度、瞳を合わせた時点でその相手を『どうするか』の判断を委ねられることは多々とあった。
相手を殺してほしい。
――依頼なので遂行します。
あの人を助けてほしい。
――依頼なので遂行します。
あの人は悪人だと思う。
――依頼なので遂行します。
依頼だから、という付加価値を付けようと、それを『判別』して切り捨てた。
ならば、切り捨てた相手に『依頼だったから』なんて理由で赦しを越えるだろうか――?
否だ。
そんなの、無理だ。
『だめ』って、知ってた。
アレクシア・アトリー・アバークロンビーは曖昧に笑う。姿見に手を添えて、不細工に笑みを浮かべぬ自分を見遣る。
「判別した人に責められるのも、怒られるのも、何をされるのも文句は言えない。
それに文句を言うのは英雄じゃない物。兄さんだって――きっと、言わない」
垂れ下がった髪を纏め上げる。身支度をしながら、相変わらずの昏い顔に別れを告げる様にアレクシアは「よし」と言った。
だから、切り捨ててもその人を覚えて居ようと思った。
傷つけて、命を奪って、殺して、責めて。煮え湯を飲まされるような憎悪を向けられたとて、魂にその命を刻み込む。
思いの欠片も、その果ても、未来に届ける事が出来たならば。
あの赤い靄はその魂に刻み込んだすべてだ。魂に刻み込まれた『誰かの記憶』なのだ。
どす黒く濁った感情論。未来に届ける為にわざと自分の傷とした塞がらぬままの瘡蓋。
(辛くて、苦しい――けど、『そうされた人はもっとそうだった』。
私の悪夢は、私の記憶。私は、憶えてられるんだ)
気づけば笑みが浮かんでいて。何時ものアレクシアが其処には立って居る。
人は誰しも判別をしなくてはならなかった。殺すことを是とするわけではない。
けれど、取捨選択は必要で。物語の悪役を切り捨てて英雄は確かに『英雄』として立って居られるのだから――
悪人。
善人。
英雄(ヒーロー)と悪役(ヴィランズ)。
その区別は誰がつけるか。クラシック・ローズの研究に協力してもそれはアレクシアには分からなかった。
あの研究者は先の研究でどう感じたのだろうか?
クラシック・ローズはその判別がついたのだろうか?
何となく、何となくでもその結果は教えて呉れることはないだろう。
クラシック・ローズはその結果さえも『自身が勝手に判別したものだ』と言うのだろうか?
もしくは『クラシック・ローズとて、その結果を明確に理解できない』のかもしれない。
その考察は気になるがクラシック・ローズの言葉を聞き、教えてもらってアレクシアはどうしようとも思わない。
生きていく上では誰しもが、悪人と善人の区別をつけ続けなければならない。
結局は、アレクシアは『アレクシア・アトリー・アバークロンビー 』としての判断をしなくてはならないのだから。
それが正しいかなんて分からない。
クラシック・ローズに否定されるかもしれない。
……本棚に並んだ英雄譚を眺める。英雄たちは皆、『物語の中で』も悩んでいたのだろうか?
悪人だと断じた誰かにとって悪と断じられる事もあるかもしれない。
悪役だと謗られるのかもしれない。ただ、それでもいい――それでも、それが『アレクシア』という少女の歩いた道なのだから。
すべての人に誇りを。
それが、アレクシアだと言えるように。
――いつか、天使になって――
いつか見た御伽噺に書いてあった。
――いつか、天使になって世界中の不幸を摘み取りたい。
けれど、不幸な誰かを見る事が幸福な人もいる。その人から見れば私は悪役なのかもしれない。
ああ、けれど、それでいいの。私にとっての正解は不幸を摘み取る事なのだから――
そうだ、何時か天使になろう。
そうして世界の不幸を摘み取ろう。誰も悲しまぬような世界を『私の視点』で作ろう。
判別するのは何時だって自分だ。自分の判断を疑ってしまわぬように。
――もしも、私を悪だという人が居たならばその人の事も覚えておこう。
この世界にそうやって生きた人がいた事を。忘れてはいけないの。
だって、その人はそうして生きて来たのだから。それを否定してはいけないの。
その人が生きたという事を確かに、私は覚えておこう。それがその人へのせめての手向けなのだ――
その記憶に全てを刻み込んで、誰かを忘れぬように。生きた証を刻みながら。
もしも、悪夢がひどくなろうとも誰かが救われたならそれが本望だ――だって。
――だって、私はヒーローになりたいんだもの。
姿見の前にはいつもの『私』。
アレクシアはにこりと笑う。そして、いつもの言葉を口にするのだ。
「おはよう。今日も、」
いってきます。