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In Excélsis
登場人物一覧
戦禍の傷跡も生々しいフォン・ルーベルグ。
市街地における騒乱の中心となった聖サヴァラン大聖堂の資料庫が温存出来たのは、天義風に述べるならば『奇跡』であろう。
実際の所は速やかな撃破と制圧による賜であり――無論この国の人々とて重々理解しているが――資料庫で一冊の書をめくる男の活躍に拠る所も大きい。
そもこうした状況とは言え夜々中に至るまで滞在を許されているのは、彼自身が紛れもなくこの国の英雄であるからに他ならないだろう。
尤も――そのように言われて手放しに喜ぶような質でもない訳だが。さておき。
書棚は一見して乱雑なものだった。
古い聖典もあれば、出納の記録もある。
掘ればいわゆる『不正義』がいくらでも沸いてこよう。
今は亡き資料庫の主は、この国における悪徳の枢軸であったのだ。
彼は仲間と共にそれを斬った当人なのである。
そんな『法がどうの』『不正義がどうの』といった辺りはこの国の事情であり、やがて当局――聖騎士達だろうか――が調べ尽くすに違いない。
そんな儀式を経て、この国は新たな時を刻み始めるのだろう。
そこに手を添えることは出来るが、最終的には当人達が為すべきことではある。
理由は兎も角、そういった所に対して彼は殊更に口を挟んではいなかった。
故に目的は別の所にある。
クロバは書を閉じると、そっと棚へ戻した。
それから扉を開けて室内灯を吹き消す。
すっかり長居してしまった。
今頃仲間達は勝利の美酒を呷っているだろうか。それとも喪われた者を悼み、祈っているのだろうか。
けれど彼には、もう少し考えたいことがあった。
大理石の床はあちこちひび割れ、壁や天井が煤けている。
道すがら数名の人々とすれ違った。
聖職者と大工か設計士か知れぬが、クロバに会釈して足早に通り過ぎてゆく。
ちらりと聞こえた会話は、やはり建物の破損に対する事だった。
戦場となった聖域に残る深い傷跡は、これから長い年月をかけて様々な人々の手で修繕されるのだろう。
もしかしたら取り壊されてしまうのかもしれない。
どのみち特段それらに対して、述べる言葉もありはしないのだが。
結局たどり着いたのは、大聖堂の広いバルコニーである。
見上げれば昼の曇天は姿を消し、満天の星空が風に瞬いていた。
あくまで推測にはなるが――と、クロバは脳裏に浮かんだ筋道を己が複雑な心境に言い含める。
それはロジカルに考えるのであれば、確証のない飛躍に過ぎない。
だが――
記録書によれば数十年前、幼い少女がサンタ・レガネスの小さな修道院に姿を見せたと言う。
名もなき少女はその日の星空と、また偶然通り過ぎた馬車の主、その家名に因み、院長からアストリアと名付けられた。
その日から聖典を諳んじる事が出来た天才少女が、やがて聖都で絶大な権力と悪の限りを掌握する等とは、誰も思わなかったことだろう。
同じ頃。より正確にはアストリアが現れる数日前。
サンタレガネスからずっと遠い場所で、一人の老修道女が断罪されたという記録が残されていた。
老修道女にはそれ以外に目立った記録はなにもない。おそらくだが、単なる善良な修道女だったのであろう。
おおかた冤罪でも着せられ、無残に殺されたに違いない。
胸くそ悪い話だが、よくあるといえば良くある話だ。
それら二つの事象を結びつけられる情報はない。ただあの部屋に置かれた記録書が隣同士だったというだけだ。
ほとんどアストリアの私物に近い書籍の中で、その老修道女に関するいくつかの記録だけが明らかに浮いていたのである。
まるで『見つけて欲しい』『繋げ合わせて欲しい』とでも言わんばかりの並びに、隠された意味はあるのか。あるとすれば何なのか。
この部屋にアストリアが秘蔵していたものは。その老修道女とは、ひょっとしたら彼女自身の過去なのではないか。
だとすれば――アストリアもやはり、墜ちる前はただの『人』だったことになる。
善が悪に。あるいは悪が悪に。
魔種化『反転』には、どうやら様々なケースがあるようだが。
いずれにせよ不倶戴天の魔種はやはり、かつての『人』なのだ。
人として様々を願い、行い、生きてきたのだ。
例えばアストリアであれば。この国の民としてその多くと同じように、きっと善良に生きてきたのだ。
そして墜ちた彼女に向けて、クロバは死神の刃を振るった。
誰もが『悪を倒した』と賞賛するであろう。そういうことになっており、実際の所もそうなのだろう。
魔種であるアストリアが犯した罪は甚大である。
この国独特の正義からも、そうではないごく普通の……よく言われる少年の正義感からも、あるいは一般的な法的概念に照らし合わせても、決して許されるものではない。
そういう意味では、クロバは正義を執行する法とやらの言わば代理人を担った。
ならばイレギュラーズとしてはどうか。
魔種とはそこに存在するだけで、世界を破滅に導く要素をため込み続けると言うではないか。
ならば私情としてはどうか。
彼が直接的に知るだけでも、アストリアはこの国の気高い騎士をみだりに殺し、あまつさえ命や魂、人が人たる尊厳の全てを愚弄し穢した。
どんな角度から検証しても、断罪は訪れるべき当然の帰結だ。
つまるところ何をどう転んでも、単純明快に打倒する他ない相手であった。
斬るべきを斬った。
誰もが期待した通りに成し遂げた。それだけのことだ。
――だが。
――――それでも。
烏滸がましいのかも知れないが。
人だった頃に望んだであろう何かは。
彼女の、今や誰も知ることのない願いは。
それだけならば。その程度であるならば。
誰かが『連れて行ってやっても』良いのではないか。
考えるべきはアストリアのケースだけではない。クロバは戦いの中で仲間の縁者がそうだったと知り、更には仲間そのものが墜ちるという経験を突きつけられている。
魔種との戦いというものは、きっと『そういう風に』出来ている。
ならば決してあるべきではない未来。けれど訪れるであろう必然の時に。
この世界に立つ意味を、その定めを背負い続けるならば。
その時。クロバは。
――今度はどうしてやればいい?
たとえばやがて、おそらく。いつの日か。
イレギュラーズは彼等の運命を歪めてしまったメカニズムそのものに相対する事となるのではないか。
それはおそらく、かの『煉獄篇冠位』のような。
或いは、もっと大きな何かを前にして。
アストリアと対峙した時、仲間と共に終止を刻んだように。
そうすることで新たな悲劇を未然に防ぐことが出来るように。
きっとその刃は冷酷にして無比でなければならないのだろう。
そんなことは――
知っている。
――死神だから。
分かりきっている。
――――イレギュラーズだから。
クロバはその背から、新たな相棒を手に取った。
十字の意匠を抱くそれは、柄に回転式拳銃の機構を備えた大ぶりの片手剣だ。
白銀の刃はどこまでも鋭く、トリガーを引くことで魔力を刃に浸透させることが出来る。
それは『より正確に』『より迅速に』相手を終わらせる為のメソッドだ。
天に掲げる一振り。
夜空を流れる一条の光が、あたかも涙のように刀身を濡らす。
決めた。
散った命、願いの残滓を背負い。連れて行く覚悟と共に。
その銘は――
「そろそろ行こうか」
――――ガンエッジ・アストライア。