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けれど、いつかは?
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これは極端に言ってみれば、少女のちいさなやきもちの話だ。
痴話喧嘩というとニュアンスが違う。意見の衝突が起きたわけではないし、そもそも縺れる痴情自体が彼と彼女には存在しない。少なくとも、彼も、彼女もそう思っているはずだった。
彼が持つのは『ニーベルングの指環』。黄金をその身にひとひらでも纏う限り、彼は愛を抱けぬ。何者をも愛せぬ。そして彼女は、あいというものの具体的な形を知らない。要するにその二人は、二人が二人両方とも、愛とは何かを語れない。縺れようもないというものだ。
――けれども或いは、それも変わりつつあったのか。
或いはあの海神の涯てから帰ってきた後、同じ顛末で痕を刻まれてきたとして、彼女は今と同じ顔をしただろうか?
余人がこの顛末を聞けば、上述のような疑問を抱くに違いないほどには唇を尖らせて――喉の奥にあるその気持ちに名前をつけない――つけられないまま、『L'Oiseau bleu』散々・未散(p3p008200)は、もうこれで何度めだか、水晶の義手、小さな蒼いこぶしで男の太腿を叩いた。
「痛いですよ、チル様」――窘めるような声も、それと同じ回数だけ聞いた。
声を返すのは当然、傷だらけの男――『黒鉄の愛』ヴィクトール=エルステッド=アラステア(p3p007791)。ランタンの揺れる灯が、傷だらけの彼の身体を照らしている。死に至る傷はない。故にか、ヴィクトールの口調は平素と同じで緩いものだった。未散は時折、この隣人は危機・危険を察する本能のネジをどこかに落としてきてしまったのでは、と疑うことがある。――確かに死に至る傷はない。けれども今少し過てば、命を落としてしまったような傷ばかりだ。切創。刺創。今なお血を滲ませる痛ましく深い傷。鐵の腕は傷つかずとも、身体はそうは行かぬもの。
ヴィクトールの脚の間に座って、未散はもくもくと作業をしながら、「少しくらい痛がればいいと思うんです」とにべもなく言った。これも、叩いた数と同じだけ言ったものだ。
時刻は二三時を回ったところだった。定期的な
事の起こりは一時間半ほど前に遡る。
夜、傷だらけで帰還するヴィクトールを未散が見咎めたのが午後九時半。神威神楽における最終決戦、その作戦の一つで負った深手をまた一人で癒やそうとしたヴィクトールを半ば引き摺るように自分の部屋に連れ込み、その身体をひん剥いて洗浄清拭消毒、やっつけ仕事のガーゼ包帯を総取っ替えして、内部機関のメンテナンスの見当をつけたのが午後十時。――まさにその頃だ、未散の目に、ヴィクトールの腕に灼き付いたその『黒』が引っかかったのは。
最初は未散もただの汚れだと思っていた。拭けば落ちる類のものだろうと。彼の黒鉄の腕は消毒など不要、適切に拭けば通常分解して問題ない堅牢な戦闘用機構である。だから生体部分の傷の手当てが先、多少の汚れは後回し――としていたものである。
――しかし大半の創の手当、縫合などを終えたあと、いざその黒い汚れを落とそうとしてみればこれが落ちない。最初は水と布で、次に脱脂洗浄用の
「ああ、
諦めたような――否、それは確認するような響きだった。未散が訝るように振り向き仰げば、ヴィクトールは蕩けるような表情で(少なくとも未散にはそのように視えた)、痕に視線を注いでいる。
「……ヴィクトールさま」
「なんでしょう、チル様」
「其の汚れ、どうやって付いたものですか」
「……
あい。
その一言に、未散のダイクロイックアイがきゅ、と僅か縮む。
「更級様――更級智泉という魔種と戦いましてね」
ヴィクトールは語る。盲目的に巫女姫に恋し、捧ぐの焼け付くような恋情を捧げ、報われぬ唐紅の愛にその身を焼べ燻る、まさしく煙の魔種たる彼女との戦いの顛末を。
「一方通行の恋慕をするあの方に、一方的に向けられる愛を体験して貰おうと舞台を整えて、一幕共に踊って頂いたのです」
ヴィクトールはこともなげに言った。
智泉と共に現れた
そうするためには、彼女の気を惹く事が不可欠だった。――そのために選んだ演目がそれ。彼曰く、『傍迷惑な愛の体験会』であった。
「愛も恋も識らぬ身の児戯と一緒にされるのは不快極まる――と一蹴されてしまいましたけれどね。けれど束の間、確かにひととき、彼女の
ヴィクトールは続ける。共に戦うイレギュラーズからの集中攻撃を受け、その身果てるまさにその時、智泉は焼けるように熱い増悪の眼で、ヴィクトールを睨め据え、その腕に爪を立てたのだと。
力強く握った智泉の手は、やがて彼女が存在限界に到るのと共に、その身体諸共煤めいてほどけて消えたが――ヴィクトールの腕には、呪いめいて消えぬ彼女の手の痕が残った、という寸法だ。――呪いめいて? 否、それは真実、
暫時、未散は言葉もなくその痕と向き合うこととなった。胸の裡に去来した思いは、すぐには言葉の形にならない。
なまじ周りを綺麗に丹念に磨き上げた分、黒い痕ははっきりとくっきりと、智泉の手の形に浮かび上がる。むくれ面で、なおも消そうとがしがしと擦ってみるも、手が痛くなるばかり。益なし。
視界に入れることを厭うように未散は
皮肉なことに、腕の中にまで及ぶような損傷はなかった。
「……、」
こういう時に限って、とでも言いたげな顔をしながら、未散はヴィクトールの腕を元通りに閉じ、螺子を締め直す。マイナスの螺子を締め終えてしまえば、少女は嫌でもまたその黒い痕と対面することになる。
「……」
――黒い手の痕に、冷たい男の鐵の腕に、指を伸ばす。未散は密やかに水晶の爪を立てた。冷たく黒いその呪痕を、彼が消そうと務めもしないことが、どこか甘やかに、それをアイと呼んだことが、彼女にとっては人差し指に埋まったちいさな棘のようだった。
青い鳥は囀る。
「狡い」
――そうして、冒頭の話に戻るのだ。またひとつ、空いた未散の手が、ぺち、とヴィクトールの太腿を打つ。
「此れは流石のぼくでも嫉妬する、――狡い、……ずるい」
狡いと思うこの感情が、どこに根ざすのか、それすら分からないまま未散は言った。ヴィクトールの脚の間に挟まったまま、彼の胸板をどふどふと後頭で頭突く。ヴィクトールが「う」「チル様」「あの」と声を上げても、駄々っ子のように何度か繰り返す。
ぐりぐりと艶めく銀糸を彼の胸板に押しつけ、未散は唸るように言った。
「此れからあなたさまの腕を開く度に、この黒がわたしの目に入るのでしょう。……見せつけられている様で、些か腹が立つ。呪いですよ、こんなの。ぼくに対しても、呪いに他ならない」
「そんなつもり無かったんですけどねえ。汚れてしまったのは取れませんし……」
対するヴィクトールは飄々としたものだ。『ニーベルングの指環』。アイという言葉を使う癖、彼はその何たるかをまるきり理解していない。
「というかチル様もされたかったのです? 顔面パンチ」
ピントのずれた解釈に、尖らせた唇の間からぷすりと息が漏れた。確かに裏拳で智泉の頬を張り倒したのは聞いたが。けれどヴィクトールが話題を逸らそうとして突拍子もない返しをしたのではないことは、未散はよく分かっている。かれはそういうことをする男ではない。
奇しくもヴィクトールの突飛な返しが、未散に幾分か平静を取り戻させた。
「其れはもう、御免ですけれど」
ふう、と息を一つ吐く。
嫌でも目に入るその腕の黒から、未散は、今度は目を逸らさない。
――『私を愛するならば、その心は煙で満たさなければ。
更級智泉は、お前を愛さず憎んだのだから』
「……でも、嗚呼、嗚呼。そうだなあ――あなたさまのことを、呪う事でしか<アイ>せないのでしたら、ぼくは――」
これは、この執着は、親愛か、友愛か、畏愛か。はたまた隣人愛か、家族愛か、――それとも?
それとも、何だろう。――考えてはいけないような気がする。何かが崩れてしまうような、漠然とした不安がある。だから未散はほとんど無意識に、思索を深めるのをやめた。代わりに、黒痕を塗りつぶすように水晶の手を重ねる。
こいと呼ぶほど烈しくはなく、あいと呼ぶほど優しくもなく。
稚気めいた独占欲を籠めて、未散はヴィクトールの腕を取る。
「理解したいと思うと同時に、そんなの。クソ喰らえって、思います」
――それは、まるで、
「……告白?」
どこかぽかんとした風なヴィクトールの返しに、未散はほとんどそれと分からぬほど、眉を下げて笑う。
「……違いたいと思いますね?」
未散自身、何故こんな言葉が溢れてくるのかわからない。
わからないけれど、それでも今はこの冷たい鐵の腕に触れていたいと思った。
「ですね。ボクとチル様には似合わなすぎる」
ヴィクトールが穏やかに笑い、あやすように、未散の髪をメンテナンスの終わった手で撫でる。
尖った未散の唇が、少しずつ緩んでいく。
ヴィクトールの言葉の通りだろう。少なくとも今は。
けれどこの手に付いた痕に、爪を立てたくなる欲は、前にはなかったものだから――
いつか何かが変わっても、きっと何もおかしくなんてない。
「……ええ。ぼくも、そう思います」
――今は。