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死を雪で隠した日

登場人物一覧

赤羽・大地(p3p004151)
彼岸と此岸の魔術師
赤羽・大地の関係者
→ イラスト


 逃げる。逃げている。
 とうにどこを走っているかなど自覚していない。ただ視界にあった道を直感的に選んでいるだけだ。
 足はずっと前から悲鳴を上げていて、太ももが鉛でも括り付けたかのように重くあるものを、腕を無理やり振り上げる連動で動かしているに過ぎない。
 息も上がっている。喉が渇いた。空気とはこんなにも熱いものだったろうか。酸素とはこんなにも薄いものだったろうか。
 ごうごうと耳鳴りがしていて、周りの音も不確かだ。今しがた道路に飛び出したところを、走っていた車とぶつかりそうになった。
 咄嗟にボンネットに手をかけて、走る勢いを殺さぬよう前転でそれを回避する。
 背後から運転手のものらしき不明瞭な怒鳴り声を感じながら、三船大地は自分の行動に驚きを覚えていた。
 こんな動きができるとは思っていなかったのだ。意識してもう一度やれと言われても自信がない。それ以前に、一度足を止めてしまえばもう立っていることもできないだろう。
 同時に、物語のようにはいかないものだとも感じていた。
 これが現代モノの主人公であるならば、物陰に隠れてやり過ごしたり、見た目を変えて人混みに紛れたりと機転を利かせたのだろう。しかし現実に逃げる側に回ってみればそのような余裕などまるでなく、ただただ懸命に足を前に出すだけだった。
 ちらりと背後を見やる。そんなことをすれば速度が落ち、追いつかれる可能性は大きくなるばかりであるというのに、そうせざるを得なかった。
 誰だって、殺人鬼を後ろにして確認もせずに走るだなんてできやしない。
 ともすれば愛らしい、ともすれば可憐。そう形容できるだけの容姿はしかし、自分の身の丈程もあろうかという鋏によって帳消しになっている。
 血に塗れた大鋏を振りかざし、悦楽の笑みを浮かべて追いかけてくる。誰がどう見たって、十中八九あれをこう表現するだろう。
 殺人鬼。あれは紛れもなく殺人鬼だ。
 その姿を確認し、畜生と胸中で悪態をつきながら、どうしてこのようになったのだと大地は己の不幸を嘆いていた。


 長期休みとは言うものの、冬のそれは二週間しかなく、その上でクリスマスと年越しという大きなイベントを連続して抱えているものだから、『長期』という言葉には多少の違和感を覚えるものだ。
 しかし未成年には定期的にそれらを楽しんでもいられない時期がある。受験というやつだ。
 進学をする以上、一定以上の学力を見せなければならない。本の虫を自称する大地と言えど、そのサイクルからは逃れられなかった。
「むしろ、『本の虫』は秀才だという風潮には異を唱えたいね」
 参考書も書物であることに変わりはないのだが、どれほどの読書家であれ自学以外の目的であれを開くという輩を見たこともない。であるならば、参考書を前にして勉学に勤しむという行為は『読書』と呼ぶわけにはいかないのだった。
 さて、一月も三が日を過ぎれば、初詣の参拝客も多少は鳴りを潜めてくれる。元旦も朝から足を向けたほうがご利益も期待できるのかもしれないが、人混みに揉まれて窮屈な思いをしながらというのは、なんとも時間の無駄に思えたのだ。
 そうというならばこの時間すら勉強に充てるべきなのやもと思いはするものの、正月の全てを学業に捧げれば多少気が滅入りもする。息抜きと言うならば、神社へと続くこの長い長い階段も少しは有効であるように感じられた。
 少しだけ体力の衰えを感じながら石段を登りきる。ふうとひとつ息を吐いて顔を上げれば、なんとも静かな境内が視界に広がっていた。
 首を傾げる。静寂に過ぎるのだ。大きな神社でないとは言え、三が日を過ぎたとは言え、シーズンがシーズンである。人っ子一人見当たらないというのは、何とも違和感があった。
「ご利益に乏しいのだろうか」
 神様が聞いていれば罰のひとつも当たりそうなものだが、現代日本人の大半は信仰心が薄れている。無くなってはいない。薄れている。ラッキーに感謝するほどには、暗がりを怖がる程度には。
「これも幸運と捉えれば、いいのかな」
 ティーン向けの物語であれば、鳥居を潜った瞬間にどこか別の世界へと紛れていたりもするものだが、生憎とここは現実である。願っただけでは頭の出来は良くならず、小遣いは増えてくれない。そんな小さなことも叶わないのだから、異世界も魔法も魑魅魍魎もあるはずがなかった。
 靴底と砂利道が立てる小気味の良い音を楽しみながら、賽銭箱を探す。物販所が見えたので、帰りにおみくじを買って帰るのも良いだろう。無人だったが、一月も四日となればバイトの巫女もいなくなるのだろうか。
「セルフ、というのは物騒な気もするけれど……」
 それも小さい神社ならではということなのかもしれない。畑の脇にある、無人の野菜売り場のようなものだ。見ず知らずでさえ金を入れていくであろうという信頼のもとにこういうものは成り立っている。
「でも、おみくじはどうやるんだ……?」
 疑問に答える声はない。自分の吐息だけが白いものに変わる。こんなにも静かだっただろうか。ひとりというものは、こんなにも静かだっただろうか。
「――――?」
 背後を振り返り、首を傾げた。
 誰かに見られているような気がしたのだが、そこには今歩いてきた砂利道が続くばかりだ。
 数秒、じっと背後を見つめてから嘆息する。馬鹿馬鹿しい。視線を感じるなどと、武道の達人でもあるまいし。
 気恥ずかしさで若干の不気味さを包みながら再び参道を歩き出す。拝殿までもうすぐのはずだ。

 参拝には先客がいた。
 賽銭箱の前でじっと佇み、正面を見つめている。
 少し異様な雰囲気であったので、おとなしく順番を待つことにした。
 顔は見えないが、背格好から察するに同年代だろう。ここの神様は学業を司っている。ならば自分と同じ受験生ではなかろうか。
 そう推測していると、ミステリの主人公にでもなった気分で少し愉しくなった。良い息抜きだ。ようやっと人を見つけたということもあり、胸の中で小さく凝りになっていた不気味さも解消された気がする。
 先客の祈りは長い。こんなにも熱心であるのだから、きっとどうしても入りたい大学があるのだろう。例えば――
(――医大とか?)
 親も医者で、その期待を背負うが故に猛勉強をしている――なんて、物語ではよくあるパターンだ。きっと親に指定される大学のレベルが少し高いのだろう。だからこうして、必死に神頼みをしている。
 答えなんて出ない。まさか見ず知らずの相手にそんなことを聞くわけにもいかず、これは妄想に過ぎない。それでも祈りを待つくらいにはちょうど良いものだった。
 それにしても、長すぎやしないだろうか。
 自分の前に立つ学生は本当に微動だにしない。佇み、手を合わせるでもなくじっとしている。
 失礼ではあるかもしれないが、一度顔を見てやろうか。そう思い、回り込もうとした時だ。
 ぐらり、と。
 自分の行動が絶妙なバランスを崩したかのように。積み上げられたトランプのピラミッドが倒れてしまうかのように。
 まず学生の首が落ち、それを追って体もまた倒れていった。
「―――――は?」
 理解が追いつかない。首がない体。いいや、首はある。そこに転がっている。首が切られている。生死は不明。馬鹿な。死んでいるに決まっている。脈を測る意味はない。首が切り取られているんだ。寒さが増した気がした。ガタガタとこんなにも震えている。きっと寒いせいだ。違う。嗚呼。嗚呼。背後で。
 物音が聞こえて、振り返った。目前にその顔があった。本当に本当に目前にあって、振り向いた勢いで互いの鼻先が触れ合った。
 心臓が跳ねる。膝の力が抜ける。へたり込む。尻餅をつく。彼女の全容が見えた。
 フードの女。兎のような。赤く染まっている。あれは返り血だろうか。初めて見た。なんだあの大きな鋏。首でも切れそうだ。首。嗚呼、嗚呼。
 こいつだ。
 立ち上がれたのは、本当に奇跡だった。神様が生きろとひと押しをしてくれたのかもしれない。
 兎にも角にも。三船大地は血で染まり、けらけらと首なし死体を踏みつける彼女に背を向けて、走り出した。嗚呼。逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ。


 なにかに蹴躓いたのか、それとも足がとうとう精神力では支えきれなくなったのか、大地はアスファルトへと倒れ込んだ。
 脳がずっと警鐘を鳴らしている。逃げろ逃げろとがなり立てている。それでも足は動かない。とっくのとうに限界を超えていた両足は、走り続けるという連続性が途切れた今、ぴくりとも動いてはくれない。
 息が荒い。全身が熱い。腕に力を込めて体を転がし、仰向けになる。空が薄暗かった。天気予報は、これからどうなると言っていたっけか。
 状況も確認できず、息を整えるしかなく、頬いっぱいに呼吸をためて深く吐き出したところで、それが自分の顔を覗き込んだ。フードの、兎のような女が。


 強い悪寒。しかし体は動かない。もう一歩たりとも、逃げ出すことはできない。
(殺される。殺される――ッ)
 二度目の奇跡はない。それはしばらく自分の顔を愉しそうに眺めた後、手にした大鋏を開いて大地の首に当てた。
 これが閉じれば、自分もあの参拝客のようになる。
 恐ろしい。恐ろしい。これは何だ。こいつは一体何なのだ。
「ガリ勉クーン、もう逃げないの? ほらほら、首切れちゃうよ。ちょんぱだよー?」
 陽気にけらけらと。その理不尽さに吐き気がする。こいつはきっと、いつだって自分を仕留められたのだろう。必死の形相で逃げ惑う自分が面白くて、その愉しみの為だけに自分を生かしていたのだ。
 逃げられない。逃げ出しても、逃げ切ることはできない。
「あきらめるんじゃないぞー若人よー。おーいっ、じゃーもー切っちゃうからねー?」
 せめて一思いに。その願いすら叶わない。鋏はゆっくりと、ゆっくりと閉じていく。こんなにも血糊で塗れているのにまるで切れ味を損なうことはなく、皮膚を破り、肉を裂き、ゆっくりとゆっくりと閉じていく。
「――――ッ!!」
 感じたことのない痛みに、腕を振り回す。彼女には当たらない。大地の抵抗は全くの無意味だ。痛い。痛い。ゆっくりと鋏は閉じていく。首はまだ落ちない。自分はまだ死ねない。まだ死ねない。まだ死ねない。まだ死ねない。
 喉が裂かれて口から血泡が吹き出ていた。彼女はニマニマ顔で自分を見つめている。まだか。まだか。まだか。何時になったら、嗚呼――――ばづん。
 ぐらぁありと、視界が揺れた。景色が急速に薄れていく。視界の端で満足気に去っていく彼女を映しながら、そこで大地の意識は途絶えた。


「おいおいおいおい、待ってくレ。まだ早えヨ学生さン」
 くらい。ここはくらい。真っ暗な泥に沈んでいるかのようだ。右も左もわからず、自分の意志で動くこともできない。
 これが、死というものだろうか。
「だから早ぇっテ。まだ若ぇんだからそうそう諦めてんじゃねぇヨ」
 なんだか喧しい。あれか、賽の河原の鬼というやつか。
「違ぇヨ。だから聞けっテ。まだダ。まだ生きられル」
 生きられる。その言葉に、沈みかけていた心が再び浮上していくのを感じた。生きられる。でも、自分は首が落ちて。
「そうダ。お前は首がなイ。俺も同じダ。あの化け物に狩られて魂に傷がついちまっタ」
 魂に、傷。
「ああ、だから器が必要ダ。俺が入る器がなきゃ、俺は生きられなイ。だからお前の傷を俺が塞いでやるヨ。お前は器として俺を匿ってくレ。悪くはねえだロ? まだ生きられル」
 まだ、生きられる。
「そうだ生きられル。これは取引ダ。互いに鋏でちょん切られ、半々になって死んでいくくらいなら、互いを縫い合わせて生きよウ。俺はそうしてでも死にたくなイ。お前はどうダ?」
 死にたくない。
「いいゼ。その意気だ」
 死にたくない。
「そうだとも、俺達ハ――」
 俺達は――
「「しにたくない」」

 意識を取り戻すと、急激な寒さを感じて飛び起きた。
 いつの間にか、雪が振り始めている。
 少しだけ呆けた後、首に手をやってみた。
 繋がっている。ちゃんと、胴と頭がくっついている。
 だが、同時に違和感もあった。首に何かが当たる感触。手で触れてみると髪の毛だった。引っ張ってみるが、自分のものだ。はて、こんなにも長かっただろうか。
「そこは俺の部分だナ。くっついた影響で、漏れ出てるんだろうサ」
 自分の口から出たそれに驚いたが、不思議と違和感はなかった。事態を把握するまでもなく、理解していた。
 自分はあの声の主を受け入れ、ひとつになったのだ。
「細部は違うが、まあ概ねそういうこったナ」
 そう言えば、これの名前は何というのだろう。
「これって言うなヨ。それに、名前を聞く時はまず自分から――まあいいサ。『赤羽』ダ。そう呼べヨ」
 赤羽。赤羽か。
 本当に、違和感はない。それ程に自分達は定着しているのだろう。
 魂。復活。蘇り。まるで物語の中だ。フィクションはフィクションで、現実は現実であると、そう思っていたのに。そう知った気でいたというのに。
「それで、これからどうするんだヨ?」
 赤羽が話しかけてくる。どうする、とは。
「受験シーズン再開カ? 冬休みが終われば最後の学期が始まるのカ? そうじゃねえだろウ。そういうことじゃあねえだろウ。首を切られて死に悶え、降り落ちる雪を赤く染めさせられたんダ。嗚呼良かった生きていル。明日からも日常ダ。なんて、思っちゃいないだロ?」
 その通りだ。もう日常には戻れない。大学に行き、良いところに就職を目指し、そういう『普通』にはもう戻れない。
 蘇ったからではない。体の中に魂をもうひとつ抱えたからではない。首を切られた瞬間に、それは決まったことなのだ。
 復讐をしよう。
「いいゼ、復讐をしよウ。あの兎に目にもの見せてやろウ」
 兎?
「兎だヨ。見ただロ? なんか、それっぽかっタ」
 嗚呼、じゃあそれで。あれは首刈り兎だ。あれに復讐しよう。互いに深く、傷つけられた。傷を、つけられた。
 首をさする。指にひっかかるこれは、縫い目なのだろう。
「首刈り兎ネ。どっかで聞いた名前だが、いいゼ。呼びやすい、覚えやすイ。言うことはねえナ。それで、どうするヨ。神社に戻って、死体から情報でも――」
 そうだな、まずは。
「……まずハ?」
 本を読みたい。時間はあるようだから。
「…………え、お前根っからのガリ勉なノ?」
 失敬な。

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