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それは叶わぬ恋に似て、
登場人物一覧
がむしゃらに走っている。だんだん呼吸が苦しくなるが、しかし立ち止まることが怖い。
なぜなら――
大地(p3p004151)の背後から迫る手、手、手、手、手! 手の群れに追われていた。
それは肉が腐りかけた手であった。それは骨となった手であった。それは土まみれの手であった。
ーーそれは落ち着く先を持たない亡魂が死体に寄生した姿であった。
死が色濃い血をまとった手が。死肉が乾燥して崩れそうな手が。
大地の服を、腕を、脚を、肉体を求めて我先にと手を伸ばす。
息が詰まる。脚がもつれて倒れそうだ。背中が汗で気持ち悪い。
だが捕まりたくない。普段、依頼で亡霊たちの怨念を扱うからこそだ。怨念は深き情から生まれ、報われなかった魂。
けれど大地は人間だ。油断する。は、とほんの一瞬、一秒に満ちるかどうかの呼吸の緩み。人間ゆえの弛みがある。
ーー焼けて溶ける途中の、ドロドロの手が大地のかかとを掴んだ。
「ぃ……」
そのままズルズルと大地は引き倒されて、靴を脱がされ、靴下を溶かされる。
複数の手がズボンを野蛮に、無遠慮に剥ぎ取る。
そのまま皮膚の上を這い回る手たちの、なんと不愉快なことか。
それも規則性もへったくれもないのだから、悲鳴すら喉奥から出て来ない。
脹ら脛を厭らしく撫でる手があるかと思ったら、一方で足裏をつねる指がある。
鋭利化した白骨の指が膝裏の窪みを抉り、シワだらけの手のひらが腰に到達する。
ぐるんとひっくり返されて、ヘソを弄られる。こちらを無視して犯し続ける横暴さが気持ち悪い。
絶え絶えに悲鳴を発するが彼、彼女らに届くことはないらしく、振り払う為に伸ばした腕が捻られた。
痛みと絶望が視界を黒く塗る頃、 数多ある亡霊のうち、嫌に綺麗な手が首へ触れた。
「ッ! や、やめ……ッ!」
血のように鮮やかな大地の瞳が危険で不穏なそれを察知して開かれる。
しかし手は止まらず、緩やかに首を一周すると人差し指を食い込ませようとーー
『……ぃ! おいッ、起きロ!!! 大地!!?』
はっ、として目を開けた。己をたたき起こした魂の同居人、赤羽が怪訝そうに様子見ていると感じる。
ゆっくり身体を起こして周囲を見渡すと自室だった。外からはすすり泣きのような雨の気配がしている。
そこでようやく先ほどの出来事は夢だと分かり、大地は大きく呼吸を整えた。
「シャワー浴びて着替えよう……」
力ない足取りでベッドから降りると、シャワーへ向かい、頭から冷水を被る。
この図書館に後付けしたシャワーは中古品の為、湯が出るまで時間がかかる。
いつもなら湯に変わるまで待つが、今日は冷たい水からぬるま湯に変わる程度で良い。
大地は自室に戻り、ベッドに倒れ込む。悪夢で疲れていた。
「……少しの間、頼んで良いか…………?」
掠れた頼りない声にどこかで頷く気配がする。大地はそれだけ辛うじて察知して重苦しい目蓋を閉じた。
「……寝たカ」
赤羽は大地が深く眠り込んだことを確認すると、あの悪夢を反芻する。
亡き者どもに追われ、その身を抉り取られていく夢。あれを大地に見せたのは、赤羽だ。
大地が赤羽との同居を赦す理由は『死にたくなかったから』。
そして今も大地の願望は『死にたくない』である。
何をそこまで必死に死から逃げたいのか、それでいて亡者の魂に交渉する術を多用するのは何故か。
さしもの赤羽はそこまでは分からない。分からないが、都合が良いと考えたのだ。
ーーだっていつか、この肉体は俺様のモノになる。
赤羽は大地と出会うずいぶん前から、人なざるものだ。
美男の肉体を奪っては女を悦楽に堕として美酒を浴びた。美女の肉体を奪っては男を魅力して栄華を極めた。
ずっとそう、常に新鮮で利用しがいのある肉体を求めて生きてきた。生き延びてきた。
そして今、大地の肉体が堪らずに欲しい。
容姿が特別優れているわけではないが、あまりにも
本ばかり読むのに、健康的な肌が。低くも高くもない、さわやかに通る声が。
ーー想像しただけで涎が出そうだ。
だからトラウマを抉る悪夢から救い、彼が信用して頼る回数を増やす。
悪夢で殺しかけて、願望を煽って、救う。『信用』を重ねて『信頼』を勝ち取る為に。
そうやって絆という縄を太くして、自分との密度を濃いものにしていく。
赤羽は脳裏に大地の背中を思い浮かべると、ゆっくりと指で背骨をなぞって身を開く想像をする。
そこは神秘高く、赤き内臓を愛おしげに口付けて慈しむかのように押し入る。
ここまで手間暇をかけたのも久しぶりだから、とんでもなく格別なものなるはずだと生唾を飲み込む。
……そんな妄想を、幾夜も繰り返している。大地を喰らい、侵す妄想を。夜が来る度に。
ベッドから降りて水を一杯、飲み干して落ち着く。
胸の裏側、時折痛みを訴える気持ちに気付かないフリもこっそり続けている。
人間の生存本能と悪魔の生存本能、果たして最期の勝者はどちらなのだろうか。
「それでも俺は『消えたくない』んダ……」
いつの間にか雨は止んでいて、ただの暗闇が空を満たしていた。
きんと冷えた空気が今にも流れ込んで来そうな静けさだった。
キッチンに足を向けてコーヒーメーカーを操作すると、ラジオを付ける。
カチカチとつまみを弄って、無為に音楽を流す番組や淡々とニュースを読む番組を飛ばしていく。
やがて出来立てのコーヒーを飲みながら、良く喋るコメンテーターのどうでも良い話に耳を傾ける。
大地の『死にたくない』と乖離していく『消えたくない』ゆえのやり方。
分かっていても止められない、止まれない。それが赤羽の生き方。
秘するこの計画だけは誰にも言えないけれども、いつか、いつか。きっと実行する。
一方でそれとも、と考える自分もいる。
それとも、両者が消えずに生きていける離別というものは存在しないのかと。
その為には肉体の用意が必要だろうが、そんなものは大地が目を瞑ってくれるならば用意が出来るはずだ。
問題は維持だけで。これをクリアにできるかどうかだ。
「……もし出来るなら俺様、イケメンが良いなァ。女が侍るイケメンとか、夢見るダロウ?」
本気で願ってない、叶いそうもない理想を語って赤羽は一杯目のコーヒーを飲み干した。
夜明けはほど近く、 そろそろ朝の体操がラジオから流れる頃合いだった。
「『それは叶わぬ恋に似て、遠くで見つめる臆病者の歌』だ。俺様の好きな曲を間違えやがッタナ」