幕間
ストーリーの一部のみを抽出して表示しています。
日常
日常
関連キャラクター:ヴァールウェル
- あいのゆくさき
- 精霊種として誕生したのち長らく眠りに就いていた事もあり、ヴァールウェル自身、他者との触れ合いは不慣れである。不慣れではあるが、本来の気質的な面において対人技術は優れている部類であり、人当たりの柔らかな人格者として、他者とは良好な関係を築いてきた。だがそれは、所謂広く浅い付き合いにおいてである。故に、ヴァールウェルは他者と深い関係を築いた事がない。そんな彼の元に渡されたのが、幼き日の迅香であった。
四六時中共に在る。それは今まで一人で過ごす時間が主であったヴァールウェルにとって、新鮮な経験だった。朝、ふと目を覚ました瞬間、他者の気配が傍にある。一人で過ごした時間が長かったヴァールウェルにとって、それがどれ程嬉しかった事か。
幼い少年であるが、大変に聞き分けが良く手の掛からない子であった為、苦労する事はなかった。ただ全く自身の希望を伝えてくれないので、そればかりは少し寂しかったけれど。我儘の一つや二つ幾らでも聞いてあげたいのにと、そんな事を考えるくらいに日常の一部となった幼い迅香の事を、ヴァールウェルは一際大切に思っていた。
自分の元へ来たばかりの迅香が、怯えた様子でいた事はわかっていた。彼は聡く、自身の役割も正しく理解していた為に、万が一にも失敗をする訳にはいかないと気を張っていたのだろう。そんな彼に、こちらから接触を図りすぎても気疲れさせてしまう。構いすぎない、というのは、傍にいてくれる彼に対してコミュニケーションを取りたくて仕方のなかったヴァールウェルにとっては厳しい戒めだった。だがそれを守った甲斐もあってか、徐々に迅香は畏れを堅い忠義へと変化させていったように思われた。彼の瞳に、怯えるような色はもう見えない。
そう、思っていたのに。立派に成長し、ヴァールウェルを守る為の力を備えた彼が、ある時ふいと目線を逸らした先。横目に見たその瞳に、あの日の怯えのような何かが霞んで見えた気がしたのだ。日々の態度は変わらないのに、瞳の奥に見え隠れするそれだけが妙に気になった。何かにつけて瞳を覗き込んではその正体を探ろうとしたけれど、その度に逸らされて躱されて、結局暴く事は出来なかった。
翳りが殊更に強くなったのは、件の、迅香が怪我を負った直後の事だ。改まって話をしている最中から、彼の瞳にはぐるぐると陰が渦巻いていた。それは今も尚続いているし、未だ晴れる気配もないけれど、その正体の片鱗には何となく見当がついていた。
彼は恐らく、自らの抱いた情に怯えていた。そうしてそれが、情の向き先に詳らかにされる事にも。結果として、それを「愛情」だと暴いた今も、彼の瞳から翳りは消えていない。どうして怯える必要があろうかと寄り添ってみても、彼は一歩引く素振りをやめようとしないのだ。
「おはようございます、迅香」
「――ッ! お、おはようございます、ヴァールウェル様」
朝早くに起き出した迅香が朝食の支度を整える音で、目が覚めた。今朝も厨争奪は負けてしまったかと嘆息しながら、ヴァールウェルはそろそろと厨へ向かう。忙しく作業をしている広い背に、戯れに身を寄せてみた。驚いたように肩を跳ねさせた迅香が声を詰まらせるのに、してやったりとくすりと笑う。
「何か、手伝える事はありませんか?」
「……では――」
少し前までなら、彼は頑として主の手助けを認めようとはしなかっただろう。けれど今の彼は、小さく些細な仕事を一つ二つ見繕っては、ヴァールウェルに手渡してくれる。そんなささやかながら確かな変化に、ヴァールウェルは喜々として頷く。人数分の皿を用意し、使い終えた調理器具を洗い、布巾で拭く。そうこうしている間に支度は整って、ヴァールウェルが卓へ朝餉を運ぶ間に、迅香がお茶を淹れてくれる。近頃はこうして、二人一緒に家事をこなすのが日常になりつつあった。
「ありがとうございます、ヴァールウェル様。後はお茶をお出しするだけですので、お座りになって――」
お待ち下さい、という言葉を待たず、ヴァールウェルは迅香の傍へ寄っていって、ぽんぽんとその頭を軽く撫でた。
「なっ、あ……!?」
「ふふ。僕がこうしてあげたくなっただけです」
本当は、ずっとこうしたかった。子供を褒めるように甘やかして、そうして甘えてきてほしかった。けれどそうする事で彼が怯えた目をするものだから、気の毒になって続ける事が出来なくなった。今でも瞳の奥に昏い何かが揺らぐけれど、それ以上に赤くなって慌てふためく迅香の姿はかわいらしい。だからヴァールウェルはこの頃、こういった小さな戯れを日々に繰り返しては、ほっこりとあたたかく灯る胸の種火を大切に育てていた。
「……お茶が入りましたので、朝餉にしましょう」
照れの余韻の覚めやらないふやけた表情の、しかし奥に翳りを帯びた迅香の瞳を見る。――彼が答えを出すまでには、その陰の正体も知れるだろうか。
はい、と微笑み返した主は、従者の背を追って厨を出る。――今はまだ、不確かでも良い。頑なであった迅香が、少しずつその壁を崩して歩み寄ろうとしてくれているのだから。愛というものにも不慣れな自分では、彼の迷いの全てを掬う事は難しいのかもしれないけれど。彼に乞われれば、どんな我儘だって叶えてあげられるに違いないと、密やかにヴァールウェルは思うのだった。 - 執筆:杜ノ門