幕間
日常
日常
関連キャラクター:ヴァールウェル
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- 微睡むあまゆれ
- ふうわり。緑に溢れ、花が甘く香る庭園に面した縁側で、はたりと羽根を下ろした無防備な寝姿が晒されていた。風が柔らかにそのすべらかな頬を撫で、深い菜の花色の髪を揺らす。寝息はほんの微か、耳をそばだててようやっと聞こえるささやかさで、すう、すう、と規則正しく口元から漏れていた。風に運ばれた花の香りが、彼のそばを経由した所為で、まるで彼自身の匂いであるかのような錯覚を起こす。彼の起こす香りは、こんなに甘ったるいばかりではない。甘さがないではないが、もっと爽やかで清々しさがあり、尖った心すら優しく撫でて落ち着けてくれるような、そんな安らかな香りだ。わかってはいるのに、花の香りに包まれた彼は、それはそれで似合いであるかのような気がして。ぼうやりと、眠る主君の姿を眺めていた迅香は、自身のそんな不可思議な思考に苦く笑った。
彼の姿は出会った時より今まで、大きな変化がない。幼くちっぽけだった自分の方が、彼の背丈を追い越してしまうほどに。――助力を乞う『対価』として寄越された小さなゼノポルタなど、彼にとってはお門違いも甚だしかっただろう。今となってはよくわかる。彼は『対価』などがなくても、求められれば快く力を貸したに違いない。お仕えする、などという名分でありながら、その実迅香は彼に育ててもらったようなものだった。
『対価』である迅香に対して、彼は相応の態度を取ることがなかった。種族や立場の違いなど些事とばかり、あろうことか彼は迅香をまるで家族のように迎え、接した。だが、村の者たちから期待された振る舞いを理解している手前、万が一にも彼を怒らせてはならない、という強い恐怖心があった。迅香の間違い一つで助力を拒否されてしまっては、迅香の存在の意味がなくなってしまう。だから迅香は、彼のその心遣いにも甘えるわけにはいかなかった。親しげに名を呼ぶ彼に対し、ヴァールウェル様、と堅く返す迅香に、彼は時折寂しそうに笑ったものだった。機嫌を損ねてしまったかと最初の方こそ気が気でなかったが、数年も経てば互いの諦念の中にその苦みもいつの間にか溶けていってしまった。
彼の優しさに包まれて日々を過ごすうち、迅香は彼に仕える者として、自分が彼を守りたいと強く思うようになった。『対価』として受けた迅香を、しかしあらゆる危険から庇護しながら育ててくれた彼に、心から報いたくなったのだ。自分が『対価』であることも、彼に仕える者であるからという事実も何もかもを抜きにして、迅香は彼という存在を尊んでいた。強い決意は行動を伴い、成長を促し、主を守るに十分な力を得た。他者を癒やすことが得意な彼の盾となり、血路を開く矛として斬り込む。それが実現出来るようになった自分を、この力を、迅香は誇りに思っている。たとえこの命が砕けてしまおうとも、彼を生かすことさえ出来れば本望だとさえ。
とす、と、縁側の柱に凭れて眠る彼のそばで膝をつく。閉じられた瞼は色素の薄い長い睫毛に縁取られている。整った相貌は、年齢相応の迅香よりもなお若々しく見える。種族の違いもあるのだろうか。否、彼の場合はその気質によるところが大きい気がしてならない。温厚で柔らかな人柄が、まま彼という存在を形作っているかのようだった。
うっすらと半開きになった唇に表情はない。常に笑顔を浮かべている朗らかな彼が眠った姿は、その表情が抜け落ちている所為で新鮮でもあった。――ふと、そんな彼の口元に視線が釘付けになっている自分に、迅香は気付く。思わず眉間に皺を寄せ、片手で額を覆う。このところ、どうにも良からぬ情が湧き上がることに悩まされている。それが一体何なのかは知らないし考えないようにしているが、それを自覚するたびに罪悪めいた気持ちを起こされるので、漠然と良からぬものであると判断している。はああ、と大きく息を吐けば幾分|悪気《あっき》も薄らいで、もやりと惑った思考が晴れていく気がした。
「……ヴァールウェル様」
彼の安らぎを、最大限に邪魔はせぬように。けれど、眠りの淵からは掬い上げるように。迅香は主の耳元に添い、柔らかに、控えめにその名を呼ぶ。
「こんなところでお休みになっては、お身体に障ります」
木の精霊である彼が果たして緑に囲まれて寝冷えを起こすとは思えなかった。だからこれは、自分の勝手な厄介払いだ。重々しく瞼を半分ほど持ち上げた彼が、ぱちぱちと瞬くのに再度の罪悪が募る。
「迅香が、褥へ運んではくれないのですか?」
なのに。彼は時折こうして迅香を揶揄うようなことを言う。真意は知れない。恐らくはただの悪戯心なのだろうとは思うのだが、その戯れに惑わされてしまう自分を、迅香はうっすらと自覚していた。ふふ、と先まで表情をなくしていた唇が笑みの形にふわりと持ち上がる。今彼に触れるのは本意ではないが、主が望むのであれば是非もない。
「……お望みとあらば」
迅香と比べれば華奢にも見える身体は、意外にもその羽根の所為でずしりと重い。だがそれを抱え上げることすら、迅香には造作もないことだった。
「迅香も一緒に寝ましょうか」
「……いえ、私は」
「ふふ。残念です」
眠気にとろけた、滑舌の甘い話し声。耳を擽るその音にどうしようもなく焦がれる理由を、迅香は未だ理解出来ぬままでいた。 - 執筆:杜ノ門
- 雲間の向こう
- 程度を誤って煮過ぎた粥はぐずぐずだった。米粒は溶け出して殆ど形を保っていない。味は、当然見たから悪いものではないとは思うが、もう少し濃い目につけても良かっただろうか。久しく料理をする機会を逸していたから、こんな簡単な調理さえもままならない。自分は器用な方だと思っていたのだけれど、とヴァールウェルは苦く笑う。
「きっと消化に良いから構わないでしょう。起きたばかりの体に、濃い味付けではくどく感じてしまうかもしれませんし」
誰に向けるでもなく言い訳のように呟いて、ヴァールウェルはうんうんと一人頷く。思えば、彼の献身には助けられてばかりだ。勿論彼なしでは生きられないという訳ではないけれど、あれやこれやと先んじて気を回してくれるから、日々の生活の中での自分の領分が極々狭くなっていた。胡座をかいていた訳ではない。けれど余りにも当たり前になりすぎて、それを一方的に受けすぎていたと思う。彼の立場を考えれば、主であるヴァールウェルはそうする事こそが正しかったのだろうが、ヴァールウェル自身が望む事は少しばかり違う。彼を、ただの従者と捉えるのは、少し寂しい。
「まだ上手く体を動かせないでしょうから、僕が食べさせてあげる事にしましょう」
思えば、幼少の頃より預かった彼を、相応に甘やかしてやる事が出来なかった。あくまで『対価』であるという認識の彼が、それを由としなかったからだ。彼からすればそれが当然なのかもしれなかったが、幼い子供にはどれ程酷な事だったろう。今更遅いかもしれないけれど、こんな時くらいは甘えてほしい。匙に掬った粥を冷ましてやって、適温を口に含ませてやるのだ。素直に聞いてくれるとは思えなかったが、処置を施したばかりの体が重いのは事実だろう。それに彼の事だ、こちらが強行すれば従うほかないのだから。――そう考えて、ぎゅうと胸が痛む。甘やかす事さえ、こちらが強制しなければならないなんて。どこまでも並び立てはしない互いの立場がもどかしい。
盆に粥を盛った皿と匙、薬と白湯を乗せて、ヴァールウェルは彼の元へ向かう。自分は、彼の世話を焼く事が出来てこんなに嬉しいのに。恐縮して縮こまっているだろう彼を思って再び苦々しく笑う。そういうものだとして受け入れてきた彼を、その関係を、歯痒く感じるのは何故なのだろう。彼が『対価』として渡された存在である以上、変化しようのない現状が、取り巻く全てが、どうにも、どうしても。
ふる、と軽く頭を振って、盆をしっかりと握り直したヴァールウェルは足取りを確かに歩く。今はそんな詮無い考えよりも、彼の体の事だ。傷は深い。当分は安静にさせなければいけない。ふっと軽く息を吐いて、穏やかな気持ちを取り戻す。彼の前に立つ自分は、いつだって柔らかでいたいから。 - 執筆:杜ノ門
- あいのゆくさき
- 精霊種として誕生したのち長らく眠りに就いていた事もあり、ヴァールウェル自身、他者との触れ合いは不慣れである。不慣れではあるが、本来の気質的な面において対人技術は優れている部類であり、人当たりの柔らかな人格者として、他者とは良好な関係を築いてきた。だがそれは、所謂広く浅い付き合いにおいてである。故に、ヴァールウェルは他者と深い関係を築いた事がない。そんな彼の元に渡されたのが、幼き日の迅香であった。
四六時中共に在る。それは今まで一人で過ごす時間が主であったヴァールウェルにとって、新鮮な経験だった。朝、ふと目を覚ました瞬間、他者の気配が傍にある。一人で過ごした時間が長かったヴァールウェルにとって、それがどれ程嬉しかった事か。
幼い少年であるが、大変に聞き分けが良く手の掛からない子であった為、苦労する事はなかった。ただ全く自身の希望を伝えてくれないので、そればかりは少し寂しかったけれど。我儘の一つや二つ幾らでも聞いてあげたいのにと、そんな事を考えるくらいに日常の一部となった幼い迅香の事を、ヴァールウェルは一際大切に思っていた。
自分の元へ来たばかりの迅香が、怯えた様子でいた事はわかっていた。彼は聡く、自身の役割も正しく理解していた為に、万が一にも失敗をする訳にはいかないと気を張っていたのだろう。そんな彼に、こちらから接触を図りすぎても気疲れさせてしまう。構いすぎない、というのは、傍にいてくれる彼に対してコミュニケーションを取りたくて仕方のなかったヴァールウェルにとっては厳しい戒めだった。だがそれを守った甲斐もあってか、徐々に迅香は畏れを堅い忠義へと変化させていったように思われた。彼の瞳に、怯えるような色はもう見えない。
そう、思っていたのに。立派に成長し、ヴァールウェルを守る為の力を備えた彼が、ある時ふいと目線を逸らした先。横目に見たその瞳に、あの日の怯えのような何かが霞んで見えた気がしたのだ。日々の態度は変わらないのに、瞳の奥に見え隠れするそれだけが妙に気になった。何かにつけて瞳を覗き込んではその正体を探ろうとしたけれど、その度に逸らされて躱されて、結局暴く事は出来なかった。
翳りが殊更に強くなったのは、件の、迅香が怪我を負った直後の事だ。改まって話をしている最中から、彼の瞳にはぐるぐると陰が渦巻いていた。それは今も尚続いているし、未だ晴れる気配もないけれど、その正体の片鱗には何となく見当がついていた。
彼は恐らく、自らの抱いた情に怯えていた。そうしてそれが、情の向き先に詳らかにされる事にも。結果として、それを「愛情」だと暴いた今も、彼の瞳から翳りは消えていない。どうして怯える必要があろうかと寄り添ってみても、彼は一歩引く素振りをやめようとしないのだ。
「おはようございます、迅香」
「――ッ! お、おはようございます、ヴァールウェル様」
朝早くに起き出した迅香が朝食の支度を整える音で、目が覚めた。今朝も厨争奪は負けてしまったかと嘆息しながら、ヴァールウェルはそろそろと厨へ向かう。忙しく作業をしている広い背に、戯れに身を寄せてみた。驚いたように肩を跳ねさせた迅香が声を詰まらせるのに、してやったりとくすりと笑う。
「何か、手伝える事はありませんか?」
「……では――」
少し前までなら、彼は頑として主の手助けを認めようとはしなかっただろう。けれど今の彼は、小さく些細な仕事を一つ二つ見繕っては、ヴァールウェルに手渡してくれる。そんなささやかながら確かな変化に、ヴァールウェルは喜々として頷く。人数分の皿を用意し、使い終えた調理器具を洗い、布巾で拭く。そうこうしている間に支度は整って、ヴァールウェルが卓へ朝餉を運ぶ間に、迅香がお茶を淹れてくれる。近頃はこうして、二人一緒に家事をこなすのが日常になりつつあった。
「ありがとうございます、ヴァールウェル様。後はお茶をお出しするだけですので、お座りになって――」
お待ち下さい、という言葉を待たず、ヴァールウェルは迅香の傍へ寄っていって、ぽんぽんとその頭を軽く撫でた。
「なっ、あ……!?」
「ふふ。僕がこうしてあげたくなっただけです」
本当は、ずっとこうしたかった。子供を褒めるように甘やかして、そうして甘えてきてほしかった。けれどそうする事で彼が怯えた目をするものだから、気の毒になって続ける事が出来なくなった。今でも瞳の奥に昏い何かが揺らぐけれど、それ以上に赤くなって慌てふためく迅香の姿はかわいらしい。だからヴァールウェルはこの頃、こういった小さな戯れを日々に繰り返しては、ほっこりとあたたかく灯る胸の種火を大切に育てていた。
「……お茶が入りましたので、朝餉にしましょう」
照れの余韻の覚めやらないふやけた表情の、しかし奥に翳りを帯びた迅香の瞳を見る。――彼が答えを出すまでには、その陰の正体も知れるだろうか。
はい、と微笑み返した主は、従者の背を追って厨を出る。――今はまだ、不確かでも良い。頑なであった迅香が、少しずつその壁を崩して歩み寄ろうとしてくれているのだから。愛というものにも不慣れな自分では、彼の迷いの全てを掬う事は難しいのかもしれないけれど。彼に乞われれば、どんな我儘だって叶えてあげられるに違いないと、密やかにヴァールウェルは思うのだった。 - 執筆:杜ノ門
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