PandoraPartyProject

幕間

妖怪の見る夢

関連キャラクター:鏡禍・A・水月

あなたの一番好きなもの
「今日のごはん、とても美味しかったです。」

 ごちそうさまでしたと、綺麗に空になった目の前の食器たちへと礼をする。それを作ってくれた、目の前の彼女はというと。

「今日のごはん”も”、でしょ?」

 指摘は優しく。そこにあるのは怒りではなく、慈しみ。

 鏡禍は、元々身体を持たない存在だった。故に、混沌で受肉した当初は味覚も未発達であった。その味覚を育てたのは、彼女……というのは、いささか言い過ぎなことかもしれないが。ルチアから贈られた愛情は、たしかに彼を成長させたことだろう。今ならばあの時以上に、グラオ・クローネの菓子の味を堪能できるに違いない。味覚としても。男の余裕としても。

「でもまだ、鏡禍の一番好きなものは食べさせてあげられないのよね。」

 そう溜息を吐く彼女の姿は、いつになく愁いを帯びている。

「僕の一番好きなもの、ですか……?」

 はて。いままで彼女にそんなことを伝えただろうか。覚えがないし、改めて考えてみても、自分の好物がなにか、すぐには思い浮かばない。

「私以外にある?」

「は?」

 こともなげに彼女の口から放たれた言葉を、一瞬認識できなかった。

「鏡禍、私のこと好きでしょう?」

「それは、もちろん……」

 でもそれは、人間がいう、恋愛感情というもので。

「鏡禍は私のこと、食べたいと思わない?」

「そんなこと、思うわけ……」

 だって人間は、そんなことしないから。

「じゃあ、他の誰かに私が食べられてもいいのね?」

「それは……!!」

 僕以外の誰かに彼女を食べられるなんて、そんなこと……!

「……あ、いえ、違、僕は……」

 思わず立ち上がってあげた否定の声。それはすなわち、獣性の肯定。目の前の彼女は、いつもの凛とした笑顔を浮かべているけれど、本当に彼女は、僕の恋人のルチアさんなのか。そう否定したくなる。そうすることで、自分の欲望を拒絶したい。

「いいのよ。ここは混沌。いろんな存在がいる世界。だから、私たちは出会えたんじゃない。鏡禍が鏡禍を否定することはないのよ。」

 そう。そう言われれば、そんな気がしてくる。そうか、僕は、僕を否定しなくていいのか。つまり、彼女を……

「でも、私をあげちゃうと、一緒にいてあげられないじゃない? だから、ね。」

 両頬に添えられる温もり。彼女の手に誘われれば、目の前には綺麗な2つの青。

「私が死んだら。私を食べさせてあげる。」

 ごくり。
 その言葉に喉が動いたのは。『彼女の死』を想像したからか。あるいは、『彼女を食べられる』という未来がよぎったからか。果たして。

「あぁ、でも困ったわ。」

「……え?」

 途端。目の前の光景が一変する。鼻をつく鉄の臭い。黒煙と火の粉が舞い、足元にはたくさんの”人だったモノ”が転がっている。視線を上げれば、目の前には彼女と、今まさに彼女に向かって獄炎を放とうとしている、巨大な竜。

「鏡禍は、いつでも私を守ろうとするんだもの。そうすると、いつまでたっても私を食べられないね。最悪、鏡禍が先に死んじゃうかも。あなた、すぐ無茶するから。それは私も嫌だな。」

 場にそぐわぬ、いつもの口調。振り返って見せる笑顔は、いつものソレ。

「でも、そうね。さすがの私も、これを受けたら死んじゃうかもしれないわね。」

 竜の口から迸る輝きは増し、逆光に浮かぶ彼女は。

「ねぇ、どうしたい?」

 笑っていた。
執筆:ユキ
鏡よ鏡。
 その謳い文句で始まる物語を聞いたことがある者もいるかもしれない。そして今、鏡禍とクウハの目の前には。

「こいつが例のカ?」

「そうみたいですね。」

 とある境界に、それはあった。

「こいつは別に悪さする奴じゃネェんだロ?」

 頭の後ろで手を組み、近くの壁にもたれかかるクウハの言葉に振り返ることなく、鏡禍は一歩前へと歩みを進め、鏡にそっと手を触れる。

「それを調べるために、僕が呼ばれたんですよ。」

 そう。正体不明の魔鏡を調べるのに同じ鏡の怪異という、これ以上の適任者はいない。
 触れた手から力を通す。同類であるクウハにはその流れを見ることができる。

「相変わらず、おとなしそうな顔して、えげつネェ色してんナァ。」

 ただの世間話のように話すその言葉には悪意もなく。鏡禍も、彼に言われた言葉に気分を害することはない。彼らは同類であり、気のおけない仲だから。
 だりぃナァ。さっさと帰ろうゼ。なんて後ろで愚痴を零し、しまいには鏡禍の頭の上に顎をのせてみたり、背中で寄りかかってみたり。さすがに膝かっくんしようとした際にはスッと避けてみせると、「鏡禍のクセにヨ。」と楽しそうに笑ってお尻に蹴りひとつをいれてきたけれど。

「もう、仕事ですよ? まぁ、大体はわかりましたから。クウハさん、ちょっと鏡の前に立って見て下さい。」

「ん? オウ。」

 鏡禍が場所をあけ、クウハを誘導する。仕事における鏡禍のクソ真面目さを知るクウハは、こいつが言うなら大丈夫だろうと、パーカーに手を突っ込んだままのやる気のない様子で、無警戒に鏡の前へと立って見せる。

「んで、どうすりゃ……あン? こいつァ……」

 鏡に映るのは、パーカー姿の男ではなく。長髪で目の隠れた性別不詳の人物に、骸骨、白い羽の美しい女性、ラッパを手にした浅黒い男性。他にも何人かの姿が見える。

「この鏡は、映した人物に縁深い人物たちを映し出すものみたいです。そこに、特別鏡の意志はない。彼(鏡)には自我もありません。」

 鏡禍の説明を聞かずとも、クウハには映しだされた面々を見て察するものがあったが。

「クッソつまんネェ鏡だな、ったく。」

 そう言って、さっさと鏡の前から離れてしまう。自分の縁者、人間関係を露にされるなど、あまり気持ちのいいものではないだろう。

「しいて言えば、恋人とか特定の相手のいる人が立った時に、その人以外の人が映し出されてしまうと、トラブルのもとかもしれませんけれど、それ以上でもそれ以下でもない、といったところでしょうか。」

 なんのことはない調査だったな。そう思いながら、鏡禍は今一度、鏡の前に立つ。そこには先程も、今も。ましてやクウハが立った時も。自分の姿が。そして、自分の縁深い人物が映し出されることもない。当然だ。自分は、そういう怪異だから。けれど、なんとなく寂しいものもある。自嘲気味に息を吐く鏡禍の背中に、いつの間にか戻ってきていたクウハの足裏がおしつけられる。

「なぁにセンチになってんだよ。」

 だから汚れるじゃないですか。そう笑って返そうとした時だった。「おい。」そういって、突然肩を組むクウハが、肩越しに鏡を指さす。

「誰か映ってんぞ? こいつァ、俺のじゃネェな。誰だ?」

「え?」

 視線を上げたその先。鏡の奥からゆっくりと近づいてくるそれは。
 ウサギの人形を手にしていて。

 ――ダーリン。妾の可愛い鏡禍。

 声が、聞こえた。
執筆:ユキ
残さず食べるよ
 依頼と偽って連れ出した先は廃村で。
 既に到着している筈の『僕』が見当たらず、最大限の警戒をしながら得物を構える君の、その形の良い頭へ鈍器を振り下ろす。

 次に君が目覚めた時、きっと誰の家だったのかも分からない所へ閉じ込めている。
 両手首は包帯で止血しただけの頭上でまとめて手錠をかけて。
 家の柱と君の腰と両足首を鎖で繋いでいる。
 さて、人間はおおよそ8割の情報を目からの情報に頼っていると聞く。
 それゆえ目を塞がられると、これまで蓄積した情報を元に予測を瞼と脳裏に映す。
 逆に目が開いていると、蓄積情報を元に実践される様を観察してしまう。
 果たして君は、どちらが好きだ?
 ……これから何をされるのか分からなくて怖い?
 ふふ、ありがとう。でもまだ足りないから付き合って?
 そう、それで次はどうしようか、という相談をしていたなぁ。
 ねえ、どうされたい? どうやって恐怖を抱きたい?
 その恐怖心を丸ごと食べてあげるから、腹が済むまで、ずっと。
 だからもっと、恐怖して。いとおしいひと。
 君の恐怖を食べ尽くして、そして最期に君を………──。
執筆:桜蝶 京嵐
オマエハダレダ
 ふふふ。今日はルチアさんとちょっとお高いレストランに来てみました。
「こうして、ルチアさんと一緒に美味しいものを食べられて僕は幸せです」
「もう、いきなりなに? ……私もよ、鏡禍」
 あぁ、ルチアさんのそのちょっと照れたような顔。とても素敵です。
「ところで、次の料理は何かしら? 本日のスペシャリテってあるけど……」
「分からないですけど、こんなに美味しいと期待しちゃいますね」
 どんな料理が出てくるのでしょう?
「あ、来たみたいですよ」
「本日のスペシャリテはお客様の手によって完成します。どうぞお楽しみください」
「私たちで? なんだか楽しそう!」
「何をするんでしょ……う?」
 手錠……? なんでこんな時に……?
「え? いや、何するの!? 放して!!」
 ルチアさん!? ちょっと! 悪ふざけでも許しませんよ! 今すぐルチアさんを放してください!
 あれ? 声が出ません!? 体も動きません! 何が起きているんですか!?
「こちらをどうぞ」
「あぁ」
 ナイフ!? ちょっと待ってください、何をさせるつもりですか! くっ、体が勝手に……!
「それでは料理をテーブルに……」
「痛っ! なんで私が……! ってちょっとまって鏡禍! なんでナイフを私に向けているの!? 嫌っやめて!」
 僕だってやめたいんです! でも、体がいう事を聞いてくれなくてっ! ルチアさん、逃げて!
「おい、暴れるなよ。ウェイター、悪いけど抑えておいてくれないか?」
「畏まりました」
「いや……やめてっ! 正気に戻って! お願い、鏡禍ぁ!」
 止まってください、僕の体! それ以上動かないで!
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁっ!!」
 ルチアさん!!
「はははっ! やっぱりいいねぇ。悲鳴を聞きながら生身の人間の腹を掻っ捌くこの感覚。クセになる」
 あ、あぁ……。僕は、僕はなんてことを……。
「痛い……。痛いよぉ……。どうして、鏡禍。どうしてなの……」
「そりゃあ、今日のスペシャリテがお前だからさ」
 もう止めてください! 早くルチアさんを治療しないと!
「あがっ! ぎっ! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁっ!!」
「ほうら、こうして生きたままはらわたを蕎麦みたいに啜るのが絶品なんだよ」
 やめっ……! なんなんです、これは……! 口の中に血の味と柔らかいものを噛んでいるような食感がっ! まさか!?
「あぁ、旨いよルチア。お前のはらわたは今まで食べてきたどんなニンゲンより旨いよ」
 何を言ってるんですか! 今すぐ食べるのをやめてください!
「でも、同じ味ばかりだと飽きるからさ。別の味を挟むと長く楽しめるんだ」
 フォーク!? 今度は一体――
「いやぁあああっ!!」
「お、いい感じに目玉をくりぬけたな。このぷちゅりとした触感がたまらないんだ」
 うぐっ! 目玉を嚙み潰した触感が、僕にも伝わって……。
 こんな狂ったこと、早くやめさせないと……!

「さぁ、最後はデザートだ」
「既にご準備しております」
「気が利くじゃないか、流石は高級店。んじゃ、やるか」
 え、鋸……? まだ何かするつもりなんですか!?
「ん~。首から下が邪魔だな。とりあえず切り落としておくか」
「がはっ! いだっ! やめっ!」
「頭だけにすると持ちやすくていい。で、今度はここを……」
 やめてください! お願いします! もうルチアさんを傷付けないでください!
「頭蓋骨がぱっくり開いて、脳みそが器に盛られたプリンみたいだろう?」
 あ、あぁ……。ああああああぁっ! ルチアさんになんてことを……!
「血と脳漿はカラメルソースの代わりかな。最高に美味しかったよ、ルチア」
「……して。……ろして」
 ルチアさん! ルチアさん! どうして……どうしてこんなことに……!
「ったく、さっきからうるせぇな。ルチアさん、ルチアさんってよぉ」
 え……?
「食べてるときはいい感じのスパイスになってたから放置してたけど、食べ終わった後まで騒がれたらうるさくて敵わねぇ。”お前”、もう黙れよ」
 え……? なんで”僕”が僕を見ているんですか…? 貴方は一体……一体何者なんですかっ!?
「何者ってそりゃあ、僕は水月・鏡禍さ! それよりも――オマエハダレダ?」
執筆:東雲東
ゆりかごのきみ

 ひどく冷えた指先が喉元に触れる。
 そのままゆったりと、皮膚の表面をすべっていく。脈打つ血潮をなぞらえていくように動くそれであったが、どこか首をしめられているような息苦しさがあった。
 はくりと、息を吸おうとした動きだけがむなしく残る。ぼんやりとした意識の向こうで何かが警鐘を鳴らしているのに、この両の腕は力なく垂れ下がったまま。微睡みにも近い状態ではあったが、それでも瞼は閉じられず、愛おしげに身体を這いまわる白い腕をただ見つめることだけしかできなかった。
 ゆるやかな死を迎えているのだろうか。感覚を失っていく己の身体とは対照的に、白い腕から与えられる刺激は鮮明になっていく。
 ふと、視線が逸れていった先に新しい色が見えた。黒く錆びついているような、汚らしい色。よくよく見れば、それは周辺に散らばっていた。あれはなんだろう。見覚えはあるけれど、靄がかった頭の中から知識をすくい上げるのは容易ではなかった。
 ――きょうか。
 どこからか声が聞こえる。優しく抱き込んできた白い腕がそっと持ち上がり、何かを摘み上げた。その指先は、美しく甘美な赤い色で染まっていた。
 はくはくと、口が動く。息苦しさの奥から乾きが込み上げてくる。滴り落ちる赤の向こうから、澄んだ水面を映し込んだ瞳がこちらを見ていた。見ているように、見えた。けれど、そこに意思は存在しない。
 鼓動を速めた心臓を慈しむように、空いていた白い腕が左胸を撫でる。呼吸を忘れた口元に触れ、頬を包み込む。鉄の匂いが鼻をつくと、自然と喉が鳴った。
 ――鏡禍。
 虚ろだった存在を思い出させるように、繰り返し名前が呼ばれる。徐々に世界に色がついていく。誰かの悲鳴と、肌を焼く熱。焦げた臭いと、ぬめる足元。
 渇きを覚えていた喉はひりつき、痛みを感じるほどだった。赤く焼けた景色の中、立ち尽くしたまま視線を動かす。
 ずしりと重たい右手には、赤黒く濡れた刀が握られていた。滴り落ちるのは、真新しい血液。じゃあ、左手には?
 決して大きくはない手のひらに収まってしまうほど、小さなものがそこにはあった。澄んだ水面のように、きれいな、きれいな、


 誰かの悲鳴が、ずっと止まない。

執筆:倉葉
鏡の中の世界の王様。或いは、饗宴は終わらない…。
●鏡の世界
 鏡の中は水月・鏡禍(p3p008354)の庭である。
 静かで、暗くて、誰も訪れることの無い、陰鬱な閉ざされた世界。それが鏡禍の全てであった。それが世界の全てであった。
 そのはずだった。
 
 混沌とした世界に招かれ、鏡禍は多くの友を得た。
 そして、恋人も。
 例えば、クウハ(p3p010695)。同じ人外の存在として、友誼を結んだ大切な友達。内向的な鏡禍とは、まるで正反対の性格をしている。だが、同じ人外だからだろうか。それとも、別の理由によるものか。クウハと鏡禍は仲良くなれた。
 人の……人ではないが……縁とは不可思議なものだ。
 縁と言うなら、ルチア・アフラニア(p3p006865)もそうだ。鏡禍の恋人。赤い髪の、正しく、まっすぐな尊敬できる恋人だ。
 暗い世界で膝を抱えて、1人、静かに過ごしていると思い出すのはクウハとルチアの顔ばかり。鏡の中の世界で1人、孤独だった頃からは想像も出来ない、満ち足りた、そして幸福な日々を過ごした証だ。
 2人の、そして仲間たちとの大切な記憶は、色褪せることなく胸の奥で輝いている。
 だからこそ、辛い。
 だからこそ、気が狂いそうになる。
 ぽたり、と血が滴った。
 鏡禍の指先から、ぬらりとした真っ赤な血が足元に零れた。
 鏡禍の流した血ではない。
 この地は、クウハとルチアの身体から流れた血だ。
 ただ広く、暗いだけの空間。1人佇む鏡禍の足元に、2人の遺体が転がっている。
 半壊した頭部からは脳漿が零れている。
 見慣れたクウハとルチアの瞳は、眼窩から零れて潰れていた。
 2人の胸部には何も無い。
 皮膚も、筋肉も、骨も、そして内臓も。
 全部、鏡禍が抉り取ってしまったからだ。
 その手で皮膚を引き裂いて、骨を砕いて、暖かな体内に手を突っ込んで引きずり出してしまったからだ。
 鏡の中の世界でなら、鏡禍は容易にそれが出来る。
 クウハも、ルチアも、誰であろうと、一切の抵抗を許すことなく殺めてしまえる。
 鏡の中の世界において、鏡禍は正しく“王”であるからだ。
 絶対的な支配者を前にしては、何者だって抗えない。
 血に濡れた手には、今も暖かな血と臓物の感触が残っていた。
 きっと、一生、忘れることは無いだろう。
 泣き喚き、悲鳴を上げるクウハとルチアを、鏡禍は笑って解体した。
 狂ったように笑いながら、2人をバラバラに引き裂いた。
 なぜそんなことをしたのか。
 理由など無い。
 残酷にして、残虐、そして醜悪なほどに淀んだ悪意は、いつだって鏡禍の中にある。
 鏡の中の世界で、2人を殺めたその行為は、鏡禍にとって至極当然のことなのだ。
「1回だけじゃ、足りないな」
 なんて。
 愉悦の滲んだその呟きは、鏡禍の口から零れたものだ。

●夢から覚めたら
 目を開いたら、星空だった。
 夏の熱気を孕んだ風が吹いている。
 どこかの丘だ。日陰で微睡んでいるうちに、眠ってしまっていたのだろう。
 頭の奥がぼんやりとする。
 脳髄が、痺れた感覚がする。
 何か悪い夢を見ていた気がする。
 或いは、とても素敵な夢を見ていた気がする。
 なんとなく、鏡禍は自分の手へと視線を落とした。
 瞬間、その手を濡らす“赤”を見た。
 赤い赤い血の色を幻視した。
 フラッシュバック。
 瞬間に、鏡禍は夢の全てを思い出した。身の毛がよだつ、醜悪極まる行いを思い出した。
 クウハとルチアを殺めた瞬間の、ほの暗い悦びを思い出した。
「っ……ぇ」
 そして、鏡禍は嘔吐する。
 胃の中身の全てを、鏡禍は足元にぶちまけた。
 吐いて、吐いて、泣きながら胃の中身を吐き続け、そして胃の中に何もなくなったころ、鏡禍は気づいた。
 遠くから、自分の名前を呼ぶ声がする。
 大切な友達の声だ。クウハの声だ。
 愛しい恋人の声だ。ルチアの声だ。
 あぁ、2人が鏡禍のことを探しているのだ。
 それに気が付いた瞬間、鏡禍は笑った。
 なぜ笑ったのか。鏡禍にも分からない。
 2人に逢いたい。
 そんな感情が、胸の奥で強くなる。
 感情は胸を熱くして、脳髄の奥を甘く痺れさせた。
 あぁ、逢いたい。
 今すぐ、2人のところへ駆けていきたい。
 駆けて行って……そして。
「そして……?」
 そして、どうするというのだろう。
 自分の手を見て、自問自答。
 答えは出ない。
 ただ、赤色を幻視した。
執筆:病み月
青と赤のコントラスト
 鴎たちが鳴き、潮の香りが漂う桟橋の上に鏡禍とルチアは立っていた。
 この時期の海は少し冷えるな、なんて思いながら鏡禍は腕を擦った。
 隣には想い人のルチアが居て桟橋に立つ彼女の赤い髪を風が悪戯に揺らしていた。
 綺麗だ、と鏡禍は思った。
「ねぇ、あなたにずっと言いたかったことがあるの」
「え? 僕に?」

 ルチアの目と唇が弧を描いた。

「――あなたなんて嫌いよ、大嫌い」
「え……?」

 ぞっとするほど冷え切った蒼い目。
 普段彼女の、ルチアの目が陽光に煌めく暖かな海だとしたら、今の彼女の目は何物も拒絶して、暗い底へと鎮めてしまう極寒の海。
 暗く、光が届かない深海の眼。
 いつも彼女といる時とは決して覚えない全身の血の気が引く感覚が鏡禍を襲った。
「る、ルチアさん。何か、僕気に障ることでも」
「別に? 前から嫌いだったけど我慢してただけ。でも、もう我慢ならないわ、私の前から消えて頂戴」
 ルチアの形の良い唇から、凡そ想像もつかない言葉が躊躇いなく飛び出しては鏡禍の心を抉った。
「これももういらないわね」
「あ、待って……! それは」
 溜息を吐いて左手の薬指から引き抜かれたリング。
 薄紫の煙を纏った鏡禍の愛と想いを、無慈悲にもルチアは目の前の海へと放り棄てた。
「あっ、ああ……!」
 慌てて手を伸ばしたが間に合うはずもなく、『ぽちゃん』と断末魔にしては短すぎる音を遺して、それは水底へと沈んでいった。
 鏡禍の目から大粒の涙が零れて、桟橋に染みが一つ二つと作られていく。
 その度に鏡禍の目から光が喪われて、ぴしりと心に罅が入っていった。
 きっと彼女はこの後自分ではないダレカを好きになって、その人と幸せな未来を掴むのだろう。
 『人』として彼女の幸せを願うなら、此処で彼女の言う通り彼女の前から消えて、今までの思い出も何も過去も捨てるべきだ。

 ――だが、本来。
 水月・鏡禍 は『妖怪』である。

「なら、お望みどおりにしてやるよ。尤も」
 消えるのはお前だがな。
「え?」
 何時から握っていたか分からないが、手ごろなナイフがあったので彼女の腹を刺した。
 ぐちゅり、と湿った音と肉を裂く感覚に鏡禍は悦を覚える。
「あ、何……!?」
 今度は鮮血がルチアの唇から零れた。なんて綺麗な色なんだろうか。もっと見たい。
「次は脚」
 今度は美しいラインを描いていた脚を思いっきり刺した。腹よりも筋肉質だからか、やや硬い気もするがこれはこれで面白い。
「いっいたい!いたいいい!!」
「うーん、次は……顔は最後に取っておきたいし。よし腕にするか!」
 まるでテーブルの上のご馳走を何から食べるか迷っている子どもの様に、恐ろしい程無邪気な声で鏡禍は言った。
「やめ、やめて。あああああああ!!」
「そうだ、僕一度でいいから見てみたいものがあったんだ」
 そういうと、鏡禍は徐に血まみれになったルチアを抱え『先ほど彼女が自身の指輪をそうしたように』海へと放り棄てた。
 酸素を求めて藻掻くルチアを鏡禍は見下ろしていた。
「だ、だずけ、ごぼっ」
「溺死って一番苦しい死に方らしいな。でも、見たいのはちょっと違うんだよな、来てくれっかな」
 くれるかな、などと希望のように言っているが。
 此処は夢鏡の世界、全ては王たる鏡禍の想いのまま。都合のいいことに血の匂いを嗅ぎつけた鮫達ががまだ意識のあるルチアを喰い荒らしていく。
 水面が真っ赤に染まり、食い残された衣服の切れ端やら臓物だったと推測される何かが赤の中に見えた。
「……あんまり見えないな。想像通りにはいかないモンだなぁ」
 

「――ッ!!」
 がばりと鏡禍は跳び起きた。だらだらと嫌な汗が流れて悪寒が止まらない。
 口を手で覆い、トイレへと駆けこんで胃の中の物をすべて吐き出した。
 ルチアに嫌われるところで終われば良かったのに。
 海の青と、海を染めた彼女の赤い血の対比が目に焼き付いて離れない。
 夢だと分かっているのに、海馬に深く刻み込まれてしまった。
 
「どうして、僕は妖怪なんかに生まれてしまったんだろう」
 その問いに、答えてくれる者は誰も居なかった。

 
執筆:

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