PandoraPartyProject

幕間

ストーリーの一部のみを抽出して表示しています。

徒然なる幕間

これはきっと終わった後の話


関連キャラクター:

ある商人と裂の話~響きつづけ響きつづける~
 激しくなる海風がその商人の銀の髪をなぶっていた。なめらかに広がり、乱れ、もつれてはほどけていく甘い銀糸。船の舳先に立ったまま、その商人はふたりが去っていった方角をいつまでもながめていた。ふいにその唇が動く。
「……かわいそうに」
 透明なその声は誰の耳にも届かなかった。

 二体の魔種は深海へ向けて一直線に潜っていく。すでに日の光は届かず、あたりは静寂に満ちている。暗くなってくると気が滅入るのは、純種だったころの名残だろうか。とはいえまずは身を隠さねばならない。イレギュラーズと遭遇してしまったのだから。深夜のような海の底で、ざらりとした泥の感触に触れると、裂はようやく動きを止めた。すぐ後ろを追っていた女が、その勢いのまま裂の背へしがみつく。
「裂、裂」
「なんだ」
 ぶすくれた顔で振り向きもせず裂は答えた。
「だってさっきから怖い顔をしてるから、気になって……」
 裂はだまっていた。背中にあるぬくもりは、いとしくて、いとしくて、大切な……大切すぎる存在。ゆえに、その商人が打ち込んだくさびがひび割れた心に反響している。
 動きを止めようと割り込んだ瞬間、その商人は、裂の中へ思念を送り込んだ。そっと水面へしずくを落とすかのように。だがそれは大きな波紋となって、裂の中消えない傷となった。ぐらぐらと心が揺らぐ。ゆらゆらと誘惑が立ち上ってくる、ふわふわと思考が熱に浮かされる。
 この背のぬくもりを食んだら、どんな味だろうか。
 裂は頭を無理やり振って、そんな考えを振り払おうとした。だが欲望は果てしなく、焦熱となって胸を焼く。
 あのとき、商人は裂へ語りかけた。
『誰にも取られないうちに』
 それが聞こえた瞬間、時が止まった気がした。
『誰にも殺されないうちに』
 周囲から迫りくる数々の殺意を身に浴びたまま、裂の頭へ商人の声が飽和していく。
『番を、食べておけ』
 その声は真摯な忠告の色を帯びていた。
「裂、裂? どうしたの? どこか痛むの?」
 純粋にこの身を案じてくる女の声がいまは切ない。「なんでもねえよ」と裂は返した。
 やさしい肌のにおいが裂の嗅覚を刺激してやまない。食欲を誘発させてやまない。
(もしかすると)
 裂は思う。
(俺が唯一正気を保つためには、そうするしかないのかもしれねえ)
 だが常軌を逸した行動の果てに、正気を保ってどうなるというのだ。その向こうにあるのは虚無だろう。そうに決まっている。そうであってくれ。
 声は言った。
『愛するものを』
 自分たちは魔種だ。いずれイレギュラーズが討ち滅ぼしに来るだろう。それ以前にこの呪いのような空腹が、理性を破壊するかもしれない。
『いずれ』
 そうなった時に牙が向く先は、まずまちがいなく、この背中のぬくもりだろうことは、裂にはとうにわかっていた。だが意識もなくそれをするのと、己の意思でそれをなすとでは、あまりに差がある。それ以前に、そうなってしまったら自分は自分を許せるだろうか。
 声が反響している。心のなかで、胸の中で、頭の中で、この身すべてのなかで。
『誰かのせいで喪うのは、我慢ならないものだから』
 ああそうだそのとおりだ。けれども……。
「阿真よ」
「なぁに裂」
「いつまでも俺のそばへ居てくれるか」
「なに当たり前のこと言ってんのよ」
「そうか、そうだよな……」
 審判の日は『いずれ』来る。そうなるまえに、いっそ。だがしかしけれど。
 反響している、声が。潮騒のように。

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