PandoraPartyProject

幕間

徒然なる幕間

これはきっと終わった後の話


関連キャラクター:

裂と阿真の話~止まらぬ心臓~
 溺れていく。深く深く。
 沈んでいく。深く深く。

「裂、裂……」
 優しい声が耳元へささやかれる。裂は目を開けた。
 さえざえと星が輝いている。裂はどこともしれぬ海に浮かんでいた。月は細く頼りなく、代わりに星々が我こそは天の支配者たらんと輝いている。
 裂は己の腹を見、両腕を見、どこもかしこも変わってしまった体を見て、最後に大きく息を吐いた。
「裂」
「なにもいうな阿真」
 うん、と女はひとつうなずき、裂の首へギュッと抱きついた。ぴったりと添う体が場違いにあたたかく、冬の海でひえきった体を溶かしていく。
「これでいっしょだね、裂」
 あしたは何をして遊ぼうか。阿真の顔をした女はそう言った。うきうきとした声はこれから遠足にでかけるかのようだ。相変わらず子供っぽいなと裂は口元を歪める。
「いま笑ったよね、あたしのこと」
「笑ってねえよ」
「笑った!」
「笑ってねえ」
 つぶやくたびに笑みがこみあげてくるものだから、裂はとうとう声を上げて笑い出した。笑うしかなかった。この状況に。すべてを裏切って、なにもかも投げ出して、手に入れたのは思い出。ちっぽけな約束にすがる肉塊。
 だがそれはいとしい妻の姿をしていた。だがそれはいとしい妻の声をしていた。だがそれはあの日の妻と同じ約束を抱えていた。
「もう裂ってば笑ってばかり、なにがおかしいの?」
 すねる顔もいとおしく。裂は手を伸ばしてその頬へ触れた。はりのある頬の感触がなつかしい。裂はやわらかな体を抱き寄せた。これは本当に肉の塊なのか。阿真の胸へ顔を埋めれば鼓動が聞こえ、あえかなぬくもりが裂を包む。在りし日のままに。
「どうしたの裂、甘えん坊さんね」
 女の両腕が裂の首にゆるくかけられる。それすらもたしかな熱を孕んでいて、裂にはもはやそれがただの肉の塊とは思えない。
 いや、頭ではわかっているのだ。
 これはただの肉塊なのだ。寄生虫がうぞうぞと動き回っているだけの魔種なのだ。けれどいまやそれすらもどうでもいい。理屈ではない感情が裂を支配していた。反転したからそうなったのか、反転する前からそうだったのか、裂にはわからない。わかるのはただこのぬくもりを手放したくないという強い衝動だった。
 考えることを放棄した結果がこの姿。そう思えばふたたび笑いがこみ上げてくる。なんと醜悪な。まるで己の魂の有り様をそのまま写し取ったかのようだ。
「なあ」
「なぁに裂」
「俺は変わっちまったな」
「そうね」
「そんでも愛してくれるか」
 女は星のように笑った。
「もちろんよ裂。あたしには裂だけだもの」
 無邪気な声にずくりと心が蠢いた。阿真は、阿真のかおをしたこの女は、すなおにそう信じている。なんの疑いも抱いてはいない。湧き上がる感情のままに強く女を抱きしめる。
「お前ほどいい女はどこにも居ねぇよ」
「裂……」
 変わってしまった体で傷つけぬよう、裂は女へ体重を載せた。細い体が沈んでいく。水中に甘い色の髪が広がり、デバスズメダイの海法師だった頃の鱗片が暗い海の中でなおも輝く。
 何も言わず、何も言えず、裂は女へ口づけた。あたたかな体へ愛撫をほどこしていく。
「裂……」
 うれしげな声が耳をくすぐる。このまま時が止まればいいと思った。

 溺れていく。深く深く。
 沈んでいく。深く深く。
ある商人と裂の話~響きつづけ響きつづける~
 激しくなる海風がその商人の銀の髪をなぶっていた。なめらかに広がり、乱れ、もつれてはほどけていく甘い銀糸。船の舳先に立ったまま、その商人はふたりが去っていった方角をいつまでもながめていた。ふいにその唇が動く。
「……かわいそうに」
 透明なその声は誰の耳にも届かなかった。

 二体の魔種は深海へ向けて一直線に潜っていく。すでに日の光は届かず、あたりは静寂に満ちている。暗くなってくると気が滅入るのは、純種だったころの名残だろうか。とはいえまずは身を隠さねばならない。イレギュラーズと遭遇してしまったのだから。深夜のような海の底で、ざらりとした泥の感触に触れると、裂はようやく動きを止めた。すぐ後ろを追っていた女が、その勢いのまま裂の背へしがみつく。
「裂、裂」
「なんだ」
 ぶすくれた顔で振り向きもせず裂は答えた。
「だってさっきから怖い顔をしてるから、気になって……」
 裂はだまっていた。背中にあるぬくもりは、いとしくて、いとしくて、大切な……大切すぎる存在。ゆえに、その商人が打ち込んだくさびがひび割れた心に反響している。
 動きを止めようと割り込んだ瞬間、その商人は、裂の中へ思念を送り込んだ。そっと水面へしずくを落とすかのように。だがそれは大きな波紋となって、裂の中消えない傷となった。ぐらぐらと心が揺らぐ。ゆらゆらと誘惑が立ち上ってくる、ふわふわと思考が熱に浮かされる。
 この背のぬくもりを食んだら、どんな味だろうか。
 裂は頭を無理やり振って、そんな考えを振り払おうとした。だが欲望は果てしなく、焦熱となって胸を焼く。
 あのとき、商人は裂へ語りかけた。
『誰にも取られないうちに』
 それが聞こえた瞬間、時が止まった気がした。
『誰にも殺されないうちに』
 周囲から迫りくる数々の殺意を身に浴びたまま、裂の頭へ商人の声が飽和していく。
『番を、食べておけ』
 その声は真摯な忠告の色を帯びていた。
「裂、裂? どうしたの? どこか痛むの?」
 純粋にこの身を案じてくる女の声がいまは切ない。「なんでもねえよ」と裂は返した。
 やさしい肌のにおいが裂の嗅覚を刺激してやまない。食欲を誘発させてやまない。
(もしかすると)
 裂は思う。
(俺が唯一正気を保つためには、そうするしかないのかもしれねえ)
 だが常軌を逸した行動の果てに、正気を保ってどうなるというのだ。その向こうにあるのは虚無だろう。そうに決まっている。そうであってくれ。
 声は言った。
『愛するものを』
 自分たちは魔種だ。いずれイレギュラーズが討ち滅ぼしに来るだろう。それ以前にこの呪いのような空腹が、理性を破壊するかもしれない。
『いずれ』
 そうなった時に牙が向く先は、まずまちがいなく、この背中のぬくもりだろうことは、裂にはとうにわかっていた。だが意識もなくそれをするのと、己の意思でそれをなすとでは、あまりに差がある。それ以前に、そうなってしまったら自分は自分を許せるだろうか。
 声が反響している。心のなかで、胸の中で、頭の中で、この身すべてのなかで。
『誰かのせいで喪うのは、我慢ならないものだから』
 ああそうだそのとおりだ。けれども……。
「阿真よ」
「なぁに裂」
「いつまでも俺のそばへ居てくれるか」
「なに当たり前のこと言ってんのよ」
「そうか、そうだよな……」
 審判の日は『いずれ』来る。そうなるまえに、いっそ。だがしかしけれど。
 反響している、声が。潮騒のように。

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