幕間
ストーリーの一部のみを抽出して表示しています。
窓際族生存記
窓際族生存記
関連キャラクター:回言 世界
- 『我が人生に後悔あり』。或いは、残業が終わらない…。
- ●デッドマンズ・パレード
この世には、無くなってしまった方が幸せなものがある。
戦争、飢餓、疫病、差別……それから残業などである。
「あ“ぁ”……ってられんね、本当に」
粗末な椅子に腰を預けて、回言 世界(p3p007315)は天井を見上げた。シーリングファンがぐるぐると回って、どんよりとした陰鬱な空気を掻き回している。
ところは境界図書館。
その稀覯本室だ。
稀覯本。
つまりは、古書や限定版など、世間に流布することがごく稀で、誰の目からも珍しい、稀少な本のことである。図書館や、街の重要施設などで収集、保管することが多く、そのほとんどは世間一般に公開されることは無い。
境界図書館ともなれば、稀覯本室の数も1つや2つではきかない。今回、世界が目録の整理を頼まれたのは、そのうちの1つということになる。
「今、何時だ、これ……」
書籍というのは日光……紫外線を苦手とする。古い本ともなればなおさら。そのため、世界が作業している稀覯本室に窓と言うものは存在しない。
一応、壁に時計はかかっているのだが……。
「また時間が巻き戻ってる。どういうことなんだ、あれは?」
現在時刻は午後3時。
だが、世界は今から体感で5時間ほど前にも同じ時刻を目にしている。時計が止まっているのだろうか? 否だ。時計の針は、きっちり時を刻んでいる。
だが、この部屋では時間が巻き戻るのである。
「たぶん、午後7時辺りになると、戻るんだろうな」
はぁ、と盛大な溜め息を零して、世界はポケットを漁る。
本日、何本目かの棒付きキャンディ。包装紙を荒々しい手つきで毟り取ると、甘い砂糖菓子を口へと放り込む。
苛立ち混じりに奥歯でキャンディを噛み砕く。
ガリゴリと、世界の口腔内で飴の砕ける音が鳴る。
「出れねぇし、仕事は終わらねぇし……受けるんじゃなかったな、こんな仕事」
はぁ、と溜め息を零す。
溜め息を零しても、仕事は一向に終わらない。
そして、きっと、仕事が終わらないうちは世界が稀覯本室から外に出ることは叶わない。
つまり。
世界はとても、ぐったりしていた。
本棚の間を歩き回って、目録に記されている書架をピックアップする。
目録に記された本のタイトルはおよそ100ほど。
本棚のナンバーも併記されているとなれば、それはもう、あっという間に終わるような温い仕事であるとさえ言えた。
だからこそ、世界はこの書庫の整理という仕事を引き受けたのだ。仕事が無ければ、火がな一日、境界図書館に籠って過ごす世界である。滞在費の代わり、と言われれば、書庫の整理ぐらいの仕事は、全く気軽に引き受けてよいものであると思えたのである。
「ところが、どうだ。何だってこんな風に手間取るんだろうな」
現在、目録に記載されている100冊のうち、ピックアップが済んだのは8割。およそ80冊ほどの本が世界の隣に設置された移動式の本棚に詰め込まれている。
残る本は20冊。
その20冊の本が難関なのだ。
ある本は、どこにも見当たらない。
ある本は、世界の手から逃げるように移動する。
ある本は、手に取った瞬間に世界に語り掛けて来る。
『本を読むのか?』
『感心だな。本は知識を与えてくれるぞ』
『知識を脳味噌に詰め込んで行け。世界の解像度が上がる』
何人もの声が、世界の脳髄に木霊する。
幻聴の類だろうか?
否である。
きっかけは1冊の本。『我が人生に後悔あり』というタイトルの、誰が書いたかさえも不明な本に触れた瞬間から、その声は聞こえ始めたのである。
本の内容は簡単なものだ。
ある読書好きな男性の生涯が、自伝という形で綴られていた。その男は、寝食を惜しんで読書に興じた。狂奔に駆られる戦士のように“読書”という行為に対して、異常なほどの執着を見せた。
この世の全ての本を読み切りたかったからだ。
だが、それは叶わない。
人が生涯のうちに読める本の数には限りがある。毎日のように新しい本がこの世界には増えているのだ。
とてもじゃないが、この世の本の全てを読み切ることなんて出来ない。出来るわけがない。
だから、男は後悔の果てに病に倒れ、この世を去った。
最後に一言「我が人生に後悔あり」とそう呟いて。
『人が生涯に読める本の数を知っているか?』
世界の脳に、枯れた男の声が響いた。
幻聴だろうが、何だろうが構わない。誰とも会話することもなく、ただ延々と見つからない本を探し続ける作業に飽きていた世界は、脳に響いた誰かの声へ言葉を返した。
「2万3725冊。1日1冊読んだ場合でそれぐらいだろうな」
1日に2冊読めばその倍。
3冊読めば3倍だ。
対して、この世界に存在している本の種類は約1億5,000万冊。
とてもじゃないが、すべての本を読み終えるなど不可能だ。時間が無限にあったとしても、人がこの世に存在し、本を作り続ける限り、すべての本を読み終えることなど出来っこない。
努力や才能の問題ではなく、単純に時間的な問題で。
物理的な問題で。
『お前は本をよく読むのか?』
『読むんだろうな。そう言う奴の顔をしている』
『日がな一日、本を読めるか?』
脳内で、男の声が反響している。
ガリガリと飴を噛み砕き、世界はゆっくりと上体を起こした。
それから、目録に記されている100冊のうち、半分ほどにペンで印をつけていく。
「読める。ここにある本なら、半分は読んだ」
『そうか、それは素晴らしい』
『で、あるのなら……』
声が聞こえる。
そして、世界のすぐ背後で、パサリと微かな音がした。背後へと目を向ければ、薄暗い床に1冊の本が落ちている。
『我が人生に後悔あり』。
「さっき、ピックアップしたんだが」
本の表紙へ、世界は言った。
『もう1冊あるのさ』
『誰も存在を知らないけどな』
『私を連れて行ってくれ』
『一緒に世界中の本を読み漁ろうじゃないか』
なんて。
そんな声が耳に届いた。
脳にではなく、世界の耳に。
姿は見えない。気配も無い。
けれど確かに、世界の傍に誰かがいる。
「俺にこの本を持って行けって……?」
本を手に取る。
瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。
それから、カチコチと時計の針が時間を刻む音がする。
「……もう0時を過ぎてるのか」
どうりで疲れたはずである。
これだから、残業と言うのはよろしくないのだ。
まったく、この世界からあらゆる労働、そして残業なんてものがなくなってしまえばきっと誰もが救われるのに。
- 執筆:病み月