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宿屋「蒼の道」

『||||』

「……それでは、帰っても安静にするように。少なくとも二週間は戦いに身を投じぬよう」
 淡々と言葉を掛ける医師に、患者は簡単に礼を述べ、片足を重たげに引きずりながら、扉の外へと出ていった。医師――ルブラット・メルクラインは彼の後ろ姿を見届けると、机の上の記録用紙に目を遣る。
 今日の診察者数の欄に、縦線を一つ。インクの乾きかけた羽ペンで書き切った。
 突如として、風が吹く。ここは診療所という体裁は保っているものの、掘っ立て小屋に医療用具を運び込んだ程度の建物だ。扉の建て付けも悪かった。しっかり閉じたと思いきや、北風が悪戯に吹きつけてくるぐらいには。机上の数枚が床に吹き散らばる。
 隅に控えていた使用人――といっても、臨時に雇われただけの存在だが――彼が、億劫そうに扉を閉めにいく。ルブラットも立ち上がり、紙を拾い集める。
 椅子に戻り、紙を整頓する最中に、死者数を記録した用紙が目に入る。無感情でやり過ごそうとしたものの、胸の奥で燻っていた苛立ちがひび割れ、赤い火を見せる。

 ――なぜ無為に人を殺す? それもこんなに沢山?
 唇を噛む。仮面で見えない分には問題ない、という思慮を自覚する程度にはまだ冷静だ。
 ――私が死にゆく彼らの傍らにいられたら、彼らを救ってあげられただろうか? 彼らの最期の言葉に耳を傾け、彼らの手を優しく握ってやれただろうか? 独りではないと伝えてあげられただろうか? 私が、他の誰でもないこの私が。けれど、それはもう永遠に叶わない幻想だ。彼らはすでに死んでしまって、味気ない線と数字になってでしか、私の前に姿を現すことができないのだ。死とはそういうものである。平時はその絶対性にも一種の愛おしさが湧いてくるものだが、今は喜ぶ気分になれない。生死の価値も美しさも解さない無学な機会主義者どもに殺されたと分かってしまっているから。私が傍にいられたら、きっと手を差し伸べてあげたのに。刃を持つ手を払い除けて、救って、あげられたのに。彼らは、私が、私の……私の獲物だったのに!

 ぷつりと、唇に血の球が浮き上がる。鉄錆の香りがルブラットの意識を変えることはない。すでにこの狭苦しい部屋の中は血の匂いで満ちていたからだ。だが、痛覚への刺激は彼の思考を幾ばくか落ち着かせた。
 人は、怒りや憎しみに心を委ねてはならない。確かな罪悪感とともに目を瞑る。果てしない暗黒こそが、その先にある光明を想起させる……。危機が迫っているときほど主の栄光は我々に近しくあるのだ。何も懸念することはない。
 ルブラットは覚えている限りの聖句を心の中で誦んじ続けた。暗闇に揺らぐ死体の幻想を、神の愛が吹き消す。なんと清廉な信仰心に満ちていることだろうか?
 彼は自嘲し、足を組み替えると、長い思索を一向に邪魔しなかった使用人へ目を向けた。
「次の患者は?」
「はぁ?」
「次の患者は?」
「今は昼休憩の時間ですが……」
 寝台に腰掛けていた使用人は、露骨に眉をひそめた。
「通せ。貴方は休んでいてもいいが、外で待っている者がいるだろう」
「……かまいませんけど」
 やはり億劫そうに、使用人は次の患者を連れてくる。
「どうぞ。こちらへ座ってくれたまえ」
「ありがとうございます……」
 ルブラットの声音は淡々としつつも、自信に満ちていた。医師として振る舞う際は常にそうであろうと意識している。患者を不安にさせないためだ。
 顔色を悪くしていた患者は、強張っていた表情を少しだけ緩めた。
「もう何にも怯える必要はない。この私がいるからにはね。まずは症状から聞いてもいいかな?」
「はい、一週間ほど前に――」

 羽ペンを動かす。線が引かれる。五人分で一区切り。決まった動作だ。
 視界の隅に、またもや死者数が目に入った。今度は冷静だ。その代わりに、一瞬の奇妙な思索をもたらす。
 所詮、大概の人間は歴史に名前なんて残せない。死んで百年も経ってしまえば、数字上の存在と化すだけだ。自分もいつかはそうなるのだろう。

 それでも。それでも……未来の誰かが、この数字の一つ一つに、思いを馳せてくれますように。
 懸命に生きようともがく命が、救おうと奔走する命が、あるいは殺そうと刃を振るう命が、確かに在ったのだと、思ってくれますように。
 ……そして、その命を愛してくれますように。
 そう、願った。

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