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若者は火を抱いて
登場人物一覧
ヴィーザル地方の雪深き大森林地帯には、〈カラスの子孫〉たる飛行種が住む。黒き翼のシタシディ、夜の森を見張るワタリガラスの狩人らが。
シタシディ曰く、彼らの祖たる知恵深きカラスが森に火を持ち込み、それによって森に住まう生き物らは闇夜の恐怖と身を切る寒さに怯えずに済むようになったという。そしてシタシディ、〈カラスの子孫〉らは祖の命より、大森林の夜警を命じられた――火を与えた責任のために、森の中で火の不始末を起こす者がいないか、見張る役目を。
伝承に忠誠を誓うかのように、シタシディは毎夜、縄張りを見廻り続ける。雪の中でも緑絶えることない針葉樹の森の中を。
シタシディの現族長はアラ・オグ・シタシディという男である。四十に入るか入らぬかといった男盛り。がっしりとした体格に立派な黒い翼を持ち、物静かな表情を浮かべる男。腕利きの狩人であるアラは、また調停者としても名高く、部族を支える大樹の如き人物であった。
そのアラは今、いつものように静かな表情で広場に作った焚火の前に座っていた。他のシタシディの民は見廻りに出ており、集落に残る者は僅か。部族の子ども達は賢きカラスの伝承を聞きながら眠りに落ちており、母親達は大事な子らの寝顔を見ながら一時の休息を楽しんでいる。夜空は晴れ、星々は天からそっと地上に小さな光を投げかけている。静かで平和な夜であった。
アラは焚火をじっと見る。ぱちりと火がはぜる。彼の前にはほっそりとした人影が一つ。アラと同じく飛行種の黒い翼を持った若者で、柔らかそうな短い黒髪に、夜空を思わせる青い目。シタシディの民族衣装の襟に口元をうずめながらも、何から話せばいいのかアラを見ている。
アラの目の前の若者の名はシャノ・アラ・シタシディ、シタシディの族長の跡継ぎ――ふいにある日姿を消し、ようやく戻ってきたアラの息子であった。
火がはぜる。長い沈黙の後、口を開いたのは息子のシャノの方であった。
「族長、帰、遅、謝」
僅かに目を落として、短い単語からなるシタシディ特有の喋り方で、己の帰還が遅くなったことを謝った。言葉を多く喋ることはシタシディの民にとっては避けるべきこと。『言葉を多用すると森から遠ざかる』という考えは、部族の中に深く根付いている。短い言葉のやりとりは外地人にこそ分かりずらいが、シタシディの民にとっては十分すぎる程であった。
「否、シャ、帰還、自、安堵」
穏やかな声で父親は息子の帰りを喜ぶ。僅かに口元が柔らかくなる。そして火から視線をようやく上げ、息子をじっと見た。変わりはない。別れた時と何も変わりはない――そう思うが、不思議な違和感が息子の中から感じられて、アラはいぶかしむ。何かが目に見えておかしいという訳ではない。ただ、優れた狩人としての勘が、様々な民を見て来た族長としての経験が、何かが違う、と告げていた。
「シャ、何処、飛? 何故、消? 自、案」
心の中に浮かんだ疑問はさておいて、アラはシャノに話しかけた。その表情は族長として、というよりも見失った息子を見つけた父親のものであった。
――どこへ行っていたんだ。何故、消えた? 俺はいたく心配していた。
叱りつける言葉にならないよう、シャノにゆっくりと、ゆっくりと話しかける。そして、最後に疑問符のように、はあ、と息を吐いた。吐息は白くなり、そして焚火の熱で溶けていく。シャノはどこから話したらいいか、と言いたげに天を見上げ、星々に目をさまよわせる。しばらくの後、ようやくシャノは口を開く。どこか、誇らしげな様子も感じさせる口調で、語る。
「自、天、呼……召喚、族長」
――僕は天に呼ばれたんだよ、族長。
天に。予想外の、文字通り雲をつかむようなシャノの言葉に、アラは一体どういうことだと首をかしげる。息子は幻覚でも見たのだろうか――。それともその翼で本当にカラス達のように天に飛んでいってしまったのだろうか? と。
「空中庭園、少女、自、告――〈混沌〉、救」
――空中庭園の少女は、僕に〈混沌〉を救え、と告げたんだ。
息子の青い瞳はどこまでも正気で、信じてくれるだろうか、という心配が言葉の端から漏れている辺りも、また正気の証拠に見えた。
「少女、告――自、特異運命座標。集、〈可能性〉。〈混沌〉、救」
イレギュラーズ、と告げた息子の声。突拍子もない事態に、流石のアラも静かな顔に驚きの色を隠せなかった。
シャノはアラに語る。普段の物静かな言動とは別人のように必死に、シタシディ流の喋り方の中でどれだけのことを伝えられるかと必死になりながら、語る。
例えば、空中庭園に住まう、変わった喋り方の少女のことを。
例えば、世界は――〈無垢なる混沌〉は、近い将来滅亡する、ということを。
例えば、それを回避するために、〈可能性〉を集めるのが自分の出来ることだ、ということを。
そして、幻想にあるギルド、ローレットに登録し、冒険者となったこと、いくつかの依頼をこなしたことを――語った。
アラは息子の語る話を、真面目な顔でこくり、こくりと頷きながら聞いていた。心の中に驚きと、息子に感じた違和感の理由をおぼろげに感じながら。もっとも、やはりおぼろげであり、目覚めてしばらくたった後の夢のように、輪郭のつかめないものではあったのだが。
「幻想、広大。王都、広大。冒険者、様々」
シャノは語る。初めて見たような種族、特にこの世の外から来た〈旅人〉達の様々な物語を。シタシディの民とは違い、長く沢山の単語を使って喋る民のことを。族長として外部との交流を受け持つ、いわば外部との折衝役でもあるアラは鉄帝やノーザン・キングスについてはよく知っていたが、それよりも遠くの地にある幻想についてはあまり知識はなかった。ただ、息子がシタシディの森から遠く離れた所にいたことは、よく分かった。
「シャ、遠、行。……遥、森、離、行」
ぽつりとアラはつぶやいた。ああ、息子よ。お前はどこまで遠くへ行ったんだ? と。
「族長、自、次族長。……如何? 確、自、森離。遠、行。遥遠、行。不帰……」
父親に似た真面目な色を瞳に浮かべ、シャノは問う。族長の跡継ぎである自分は、跡継ぎであるのに、冒険者として遠くに行く。はるか遠くへ、もしかしたら帰れぬかもしれない旅へ。一体どうすればいいのか。
ううむ、とアラはうめき、また焚火に目を落とした。火は何度もはぜ、二人の間には沈黙が流れていく。
全ては――父親としての己が、どれだけシャノがシタシディの領域の外、ヴィーザル大森林の外へ出てしまうかを、森から離れてしまうことを認められるかであった。族長に関しては他を立てればどうにかなる。無論シャノが族長となることが望ましいのだが、何事にも不測の事態というものはある。代理を立てるという手も、ある。
それより、森から離れたシャノは、果たして戻ってくるのだろうか。長い旅となるだろう。危険な旅であろう。シャノが旅の途中で斃れ、帰らぬ者となる可能性もある。自分の息子の力量を疑う訳ではなかったが、アラには族長として己が民を案ずる気持ちに加え、跡継ぎである息子を己が翼のように大事に思う気持ちがあった。
そしてお前は、ずっと、成長した息子を定めに反して手元に結び付けておくつもりか――。
アラは自問する。愛が束縛に変わる姿を、アラは何度か見て来た。そして空を目指すワタリガラスには束縛は似合わないと、分かっていた。
己はシャノの父親だ。族長である前に、シャノの肉親であり――だとすれば、息子の成長を認めるのが、道理というもの。
もはや己が息子が雛鳥ではない、ということをアラはシャノの言葉の中で感じていた。ただ、それを直視したくなかったのだ、と己が違和感を中々見定められなかったことに、苦い思いを抱く。巣立ちの時であった。それはアラが思うよりも突然であり、想像外の形ではあったが――己がそうだったように、息子にも、確かに来なければならないものなのだ。
火を眺める内に、アラはふと、鳥の羽ばたきを聞いた気がした。カア、と誇り高く鳴く賢き鳥、恵みを与えた者の声を聴いた気がした。己らが祖であるカラスのものなのだ、と心が理解する。
カラスは答えを返さない。目の前に現れることもない。ただ、気配だけが側にある。
祖たるカラスは恐怖と寒さから森に住まうものを守るため、火を与えたもうた――。
火は恵みであり、希望であった。火によって森の民は身を守る術を知った。
もし火が存在しなければ? カラスが恵みを与えなければ――我らは凍え、怯え、やがて滅んでいっただろう……。
カア、ともう一度誇り高い鳴き声がした。響きの中には叡智があった。
おそらく、己が息子のシャノは、〈無垢なる混沌〉という広大な『森』に住まう者達に火を持って舞い降りるカラスなのだろう。滅びの運命という恐怖と寒さに立ち向かうために、〈可能性〉という名の火を灯す、勇気あるカラスの子孫。
すとんと、全ての考えがあるべき場所に収まったかのように、アラは突然悟った。
大いなる存在の意思というものがあるならば、こういうものなのだろう、という確かな感覚が、アラにはあった。
火から顔を上げれば、案ずるようにシャノが己を見ていた。カラスの気配は既になかった。息子の翼が少しばかり立派になった気がするのは気のせいではないのだろう。旅は確かにシャノを成長させていた。シャノの進む道がどの方向にあるとしても、彼は己の翼で風を読み、選んでいくことが出来るのだ。
己が手にしている可能性に翼を震わせ、その内に世界を救う〈可能性〉という名の火を抱きながら。
シャノが祖たるカラスのように生きることを、森は望まれた。
覚悟は決まった。アラはじっとシャノを見返す。
「シャ、旅、好? 世界、愛?」
――息子よ、旅は好きか? 世界を愛するか?
問われて、シャノは数拍の後、こくりと頷く。
「シャ、旅、過酷。森、遠。了?」
――息子よ、旅は過酷で、故郷である森は遠くなる。分かっているな?
そして、シャノはこくりと頷き、父の瞳を覗き込み、ゆっくりと告げる。
「自、了」
分かっている、と。
「旅立、好日。祖、森、望――シャ、旅、必然」
己にも言い聞かせるように、アラはシャノに告げる。旅立つには良き日だ。祖たるカラスも、森も、それを望まれている。シャノの旅は必然なのだと。
息子は生真面目に頷き、それから案ずるように父を見る。でも、そうなると次の族長は、父は、シタシディは――。
「シャ、旅、必然。森、宿命……必生、必帰、自、其、望」
誇り高く顔を上げ、アラ・オグ・シタシディは父として、シャノ・アラ・シタシディに静かに告げた。
――息子よ、シャノよ、お前の旅は森が定めたこと。それは宿命だ。だが。必ず生きて、帰れ。それこそが、俺の望みだ。
シャノは目を見開き、そしてこくりと頷く。
(シャ――旅立、幸、有。火、恵、有)
――旅立ちに幸あれかし、息子よ。お前に、火の恵みがありますよう。
星は空で静かに輝き、焚火は地上で鮮やかに輝く。
祖たるカラスの気配はもはやなかったが、その魂はアラとシャノの中にあった。