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アンジュ、その伝説と栄光
登場人物一覧
ウッドドアの軋む音とウェルカムベル。
おそらく革靴であろう数度の足音の末、彼は木製の椅子へと腰掛けた。
暖炉の前。茜色にてらてらと揺れる影。
ストライプ柄のスーツを纏った彼の名も素性も、彼の特徴的なカイゼル髭についても知る必要など無い。
これから語られるべき逸話と物語に比べれば。
「話をしよう。ある少女についての話だ」
暖炉の上に飾られた数枚の写真立て。男はそれを右から指さしていった。
かわいらしい服装をした少女の写真だ。
どの写真にもエンジェルいわしが一緒に写っている。
「彼女を知っているかね。『いわしを食べるな』アンジュ・サルディーネ(p3p006960)……称号に堂々と書かれている通り、いわしを食べる人間の元に現れては暴力的にそれを阻止、ないしは威圧する人型実態として一部で知られている。
14歳の銀色の長髪をした少女に見え、背中には不明な材質によって構成された小さな翼が備えられているが、これが彼女から直に生えているものなのかインプラントされた義翼なのか、はたまた接着しているだけの物体なのかは定かでない。少なくともこれを羽ばたかせることで飛行を可能にした実例が報告されているまでだ」
男は椅子から立ち上がると、部屋をゆっくりと歩き始めた。
壁にはある島の地図と、その風景を描いた絵画がかかっている。
「アンジュ・サルディーネは海洋王国の■■■■■島沖にて発見された。
発見経緯は■■■■■島沖にて網漁を行った際、漁船が何者かの攻撃を受けたことだった。
後に救命ボートで近隣の海洋警備隊へ駆け込んだ漁師は、一人の少女と大量のイワシに船を破壊されたと証言し警備隊の注意をひいたのだ。
■■■■■島は過疎化によって無人化していたが、海中に作成された魚礁に少女とその母親が生息していたことが判明し警備隊により保護を目的とした接触が行われた」
やがて棚の前に立ち止まると、男はガラス越しにトロフィーや賞状をさした。
「生後10歳になるまで海底で生活していた彼女は常識感覚がひどく歪んでいた。
倫理観が通常から乖離し、特にイワシに対する強い同族意識を持っているようだった。
保護した先でイワシの炭火焼き食べていた警備員をその夜にローストした事件はその象徴だろう。
だが彼女が収監されることはなかった。なぜなら、海洋生物……とくにイワシとエンジェルイワシの知識に長け、奇妙なほどにイワシとの疎通能力を有していた。
それによって得られた航海技術、船舶建造技術、水中戦闘技術、その他様々な恩恵に、当該海域を担当する海洋海軍は彼女の才能を活かすことを選んだのだ」
棚の扉を開け、トロフィーの一部をそっとどかす。奥にはイワシ型のレバースイッチがあり、男はそれを引き上げた。
重い回転音と共に棚が動き、その奥への通路が開ける。
男は頷き、通路の奥へ招くように歩き始めた。
「彼女はスペシャルだった。幻想貴族流行のペットでしかなかった『エンジェルいわし』を一般に普及させただけでなく、その大幅な繁殖に成功したのだ。
彼女の提唱した『エンジェルいわし・オリジン論』は海洋王国の学会を揺るがした。
いわしは他者から向けられた愛情を自覚することで、エンジェルいわしに進化するという実証を交えた論文だ。わずか14歳の少女がだ、想像できるかね」
部屋の奥に広がっていたのは、ふわふわと飛び交うエンジェルいわし。そしてそんないわしたちに栄養ビスケットを与えるアンジュの姿だった。
「あ、おじさん。その人が新入社員のひと?」
「はい社長」
男は胸に手を当て、アンジュにお辞儀をしてみせる。
「もはや混沌各地に名が広まり、広まりすぎてかえってミーム化してしまった『いわし』の中心的人物。それがアンジュ・サルディーネだ。
君にはこれから各国へ旅立つエンジェルいわしの初期飼育を行ってもらう。
社長、彼に聞きたいことは?」
「うーん……ひとつだけかな」
アンジュは少し考えるようにしてから、『あなた』にてくてくと近づいた。
両手を腰の後ろで組み、にっこりと年頃の少女のように笑う。
「――いわしを食べたことは?」