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夏の日のプロキオン
登場人物一覧
うっそうとした森の中を歩く。
鮮やかな緑の葉が頭上で折り重なり、夏の日差しを遮っていた。梢を揺らす風は涼しく、その波にも似た音色と、長く伸びた草を掻き分け、踏み分ける音だけが響く。
「虫の声がしないな……」
「身を隠しているようだ」
周囲を注意深く観察しながら進むリゲルに、先を行くポテトが応じる。
この森には今、魔物が住み着いていた。村に下りてきたことはないのだが、森の生き物たちや森に入ろうとした人々を襲い、喰らっているらしい。
二人が受けた依頼は、その魔物の討伐と、森に入ってしまった飼い犬の捜索だ。
ふと、なにかの気配が急激に近づいてきた。背後からだ、と気づきポテトが振り返るより刹那早く。
「ポテト!」
がさ、と草を左右に割って小さな生き物が飛び出す。とっさにリゲルが片手で受けとめ、逆の手で剣を抜いた。
重い衝突音。
犬を追ってきた『それ』の一撃を、ポテトが盾で防いだ。
「く……っ」
とっさのことに上手く構えられなかったためでもあるが、盾を持つ手がしびれる。それでもどうにか、棘のある緑色の蔓を弾いた。
「アァァ……」
黒い鹿――にも見える。巨木の木の枝のような、大きな角と四足で佇む姿は少なくとも、鹿だった。
ただあちらこちらが苔むし、背からは数本の蔓が伸びており、意思を持つように動いている。顔のほぼ全面に大小異なる目が複数あり、胴体の巨大な二つの口が、地を這うように低い呻きをもらしていた。
通常の鹿より二回りは大きい。威圧感すら覚える敵意にポテトは細く息を吐く。
「逃げるんだ。でもあまり離れてはいけないよ」
赤い首輪がついた仔犬に優しく言って、リゲルは保護対象をそっと地面に下ろす。小さな姿はすぐに草に紛れて見えなくなった。
「夜中に出会いたくない見た目だな」
「そうだね」
真剣な表情で評したポテトに、リゲルも真面目に同意する。
弾丸の速度で黒鹿が蔓を放った。
ポテトは樹精であり、治癒を得手とするヒーラーだ。
その上で、盾の扱いを学ぶことを望んだ。
守られるのではなく、守る側に。
後ろで傷を癒すだけでなく、傷つく前に守れるように。
真っ直ぐ前を向き、暗い道すら星のように美しい光を纏って進もうとする彼の背を追うのではなく、その隣に立ち、手を繋いで励ますために。
ポテトは、前に出ると決めた。
「特訓の成果が出ているな!」
嬉しそうなリゲルの声に、ポテトも口の端を少し上げる。
余裕があるかと問われれば否だが、限界などまだまだ遠い。
「師の教え方が上手だったからだろう。厳しかったともいう、が!」
舞い落ちた木の葉を引き裂きながら襲ってくる蔓を大きく弾く。しっかり踏ん張ったつもりだったが、湿り気を帯びた土にほんの少し足をとられ、半歩引いてしまった。
まだまだだ、と自戒しつつ、ポテトは防御に徹する。
「教え子の筋がいいと、教える側にも力が入るよ」
「……褒められるのは嬉しいが」
修行を思い出してポテトはなんとも言えない顔になった。
「きりがないな」
リゲルの剣が蔓を切るが、それは切られた位置から二股に分かれて再生する。ポテトにかける柔らかな声と裏腹に、騎士の表情はやや険しい。
「他に攻撃はしてこない、とはいえ……」
「このままではこちらも消耗する。策はあるか? リゲル」
問われたリゲルが考えながら二歩下がる。蔓と彼の間にポテトが割って入った。ガン、と盾にあたった蔓が胴体側に引き返す。今度は、ポテトの体は揺れもしなかった。
「接近する」
「分かった」
詳細は聞かない。全く分からないわけではないので、必要ないとポテトは判断し、駆ける。
「アアア……」
黒鹿が吼えた。ポテトの盾が蔓を防ぐ。敵の攻撃は早く、重い。
「だが、リゲルの剣には劣る……!」
二本一対の武器の片割れを手にとる。星河を思わせる輝きを宿したそれで、蔓を切った。再生する。敵の意識がポテトに向く。
「リゲル!」
「ああ!」
ポテトの背後から、身を低くしたままリゲルが飛び出した。目指すは黒鹿の顔、ではなく体の側面だ。
「アアア……!」
蔓が一斉にリゲルに向かう。騎士の剣が冷気を帯びる。
退こう、という気にはならなかった。攻撃が迫る。だが、この一撃は必ず命中すると、リゲルは知っていた。
「はぁっ!」
「アアア……!」
振り下ろされたポテトの盾が黒鹿の顔面を殴打する。黒鹿の足がふらつくと、蔓は狙いを外して地面に穴を穿った。
「ただここに住みたかっただけかもしれない。それでも、人を襲ったなら俺たちは見過ごせない」
涼しい森の温度が肌寒いほどまで下がる。
蔓が地面から引き抜かれ、闇雲にリゲルとポテトに襲いかかる。彼の首を貫こうとした蔓を、ポテトが叩き折った。
「眠れ」
「アアア……!」
舞うように剣が振るわれる。星凍つる一撃に黒鹿は悲鳴を上げ――溶けた。
「退避を!」
「間にあわない、リゲル私の後ろに……!」
黒鹿だった汚泥は泡立ち、無数の茨を放出する。
盾を砕こうとする攻撃にポテトは奥歯を噛んで耐える。リゲルがその手に指先を添えた。
大丈夫、という風に頷いた彼の剣が、再び冷気を帯びる。
瞬き一回にも満たない時間、茨がとまった。
「今だ……!」
肩で息をするポテトが勝機を見出した声で言う。
「終わりだ!」
疾駆したリゲルが粟立つ汚泥の縁に剣を突き立てた。
ボコボコと泡が激しく、大きく鳴る。
「ここまでだ、諦めろ」
騎士を縛り上げようとした茨をポテトが払った。黒鹿だったものが消えていく。
十秒もしないうちに、そこにあった敵意は消滅していた。
「お疲れ様、ポテト」
「リゲルも」
気づけば二人とも細かな傷を負っている。リゲルから治療していくポテトに、彼は満面の笑みを浮かべた。
「いい盾捌きだったよ」
「リゲルに怪我をさせたんだ。まだ訓練の余地はあるな」
「ポテトが庇ってくれていなかったら、もっとひどいことになっていたよ。だから、自信を持って」
「……別に、自信がないわけではないが」
ただ、改めて褒められるとちょっと照れてしまうだけだ。
自分の治癒も終えたポテトは武器を収め、熱を持った頬を隠すように木々に目を向ける。
「仔犬は……ああ、無事だったか。よかった」
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
騒ぎが静まったためか、仔犬が木陰から二人をうかがい見ていた。
ひざを折ったポテトが手を伸ばすと、恐る恐るといった様子で近づいてくる。抱き上げれば、安心したのかようやく仔犬の体から力が抜けた。
「わう!」
「よしよし。あ、こらくすぐったい……!」
千切れんばかりに尾を振る仔犬が、ポテトの頬を舐める。
ひとしきりそうしてから、今度はリゲルに短い前足を伸ばした。
「同じ目にあわされるぞ」
可愛いなぁ、とほのぼのしていたリゲルは仔犬を差し出すポテトの言に、穏やかな表情のまま覚悟を決めた。
「よし。おいで」
「わう!」
案の定、リゲルも熱烈な感謝を受ける。
満足した仔犬が地面に下りようとするのを、リゲルはやんわりと阻止した。
「だめだぞ、迷子になるだろう?」
「もう魔物はいないだろうが、お前の飼い主が心配しているんだ。早く帰って顔を見せてやった方がいい」
「くぅん……」
つぶらな瞳で悲しげに見上げてくる仔犬を、リゲルとポテトで撫でる。くあ、と仔犬があくびをした。
「家に着く前に眠りそうだな」
笑みをこぼすポテトに、リゲルも笑声をこぼす。
動物たちの気配が、森に戻りつつあった。