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褐色肌片目隠れ長耳弟属性ショタ、イクメンになれ
登場人物一覧
木の葉が鮮やかに染まり始め、涼やかな風が夜を撫でる。
季節は秋、静かな湖畔の家。
風を孕み、遊ぶカーテン。
ゆったりと前後に揺れるロッキングチェアが穏やかな眠りを――。
「びゃあああああああああ!!!」
「アアアア!! もう!! なんで寝ないのさアアアアア!!!」
誘ってはくれなかった。
泣き叫ぶ赤子を何とかして泣き止ませようと、錫蘭ルフナは細腕を揺り篭代わりにしてあやしていた。
そもそも、何故ルフナが赤子を腕に抱いてあやしているのか?
それは今朝まで遡って説明せねばならない。
「本当にすいません……では、お願いしますね」
「うん。大丈夫だからさ、息抜きしてきたら?」
ローレットに舞い込んだ一人の母親からの依頼。
たまには息抜きをしたいというどんな母親でも持っているであろうよくある悩みに手を挙げたのがルフナであった。
いつもの戦闘のような無駄に体力を使う仕事ではなかったし、赤子の世話を一日見るだけでいいなんて儲けものじゃないか。そんな心算であった。
そう悪く言えば『舐めていた』のである。
自分は長命な幻想種の中では若輩者であるが、実に五十六の時を生きている。
知識だってそんじょそこらの人間よりはずっとあるし、まぁ本でも読みながらのんびりとやろうじゃんと。
いい子にしてるのよと、わが子の頬を撫でた母親を見ていた時は少なくとも赤子の面倒を見るなんて、それこそ赤子の手を捻る様な物だと信じて疑わなかったのである。
「さてと? まずはミルクを飲ませるんだっけ」
「あーうー」
「はいはい、今作るから。待ってなよ」
赤子を片手に抱きながら、母親の残したメモを見ながらルフナはキッチンへと向かう。
幸い哺乳瓶と粉ミルクはすぐに見つかった。鍋にお湯を沸かしてしっかりと消毒を施す。
――それにしても。
「赤ちゃんって意外と重いんだね……?」
「あい」
「いや、返事はしなくていいんだけど」
赤子を抱く腕がプルプルと小刻みに震えているが、そこは持ち前の意地で何とかする。
何とかするったらする。
哺乳瓶に粉ミルクを規定量入れ、冷ましたお湯を慎重に注いでかき混ぜる。
円を描くようにゆっくりと、丁寧に混ぜ……混ぜ……。
「……ぜんぜん溶けないんだけど、不良品じゃないの」
そんなことはないのは判っているが、頭の中で思い描いていた物になかなかならない。
この作業を一日何度繰り返すのか? そもそも液体じゃダメなのか?
赤子のミルクとは何たるものかと考えだしたルフナの耳を腹をすかせた赤子が容赦なく引っ張る。何故ならそこに耳があったから。
「いたたたたた!! ちょっともう少しでご飯できるから耳引っ張んないでいだだだ」
「あー!」
「無邪気に笑ってんじゃないよ!!」
ルフナの必死の訴えなど赤子にはわからない。だって赤子だから。
早くも体力と精神力をそこそこ持っていかれたルフナは、苦心して作り上げたミルクを人肌程度まで冷ます。
いったん赤子を降ろしてぴっぴと自身の腕に振りかけ、温度を確認……わからない。
いやこれでいいんだろうか。
そもそも人肌とはなんだ。だいぶ個人差あると思うんだけどと脳内で議論を交わす。
「た、多分大丈夫な筈」
「ん」
胡坐を掻いて、片腕に抱いた赤子の口に哺乳瓶の乳首を銜えさせる。
小さい口が開けられて、懸命に吸いつく姿は素直に愛らしいとルフナは思った。
哺乳瓶の中身がみるみる内に減っていくのは見ていて気持ちがいい。
「全部飲み終わった……かな」
ミルクの後は赤子を縦抱きにして背中を叩いてゲップをさせてミルクの逆流を防ぐ。
これは僕でも知っているぞと、ふふんとドヤ顔をしたルフナは早速赤子を縦抱きして――。
「……どれくらいの力加減で、叩くの……?」
固まった。いや、固まっている場合ではないのは判っているのだ。
判ってはいるのだが、こんなに小さくて柔らかい生き物なのだ。
少し力加減を間違えれば傷つけてしまいそうで、でも弱すぎたら今度はゲップが出なさそうで。
恐る恐るぽんぽんと叩くと小さく「けぷ」と空気が漏れる音が出てほっと胸を撫でおろす。
もしかして世の中の母親はこの絶妙な力加減を即座に習得し、実行しているというのであろうか。
お母さん、恐るべし。
「ん、んむむ……ふああ」
「え、何?」
ミルクを飲んだばかりなのに赤子が愚図り始めた。その正体は新米イクメン(褐色肌片目隠れ長耳弟属性ショタ)にもすぐに判った。
「ああ……オムツね……」
「あい」
「いや、だから返事はいらないんだけど」
赤子の尻の辺りから匂う馨しきかほり――。
眉間に皺を寄せながら、ルフナは赤子を床に寝かせオムツを開き、焦る。
「え、なんか緑色なんだけど大丈夫なのこれ……」
ミルクが良くなかった? それともゲップ?
おろおろとするルフナだったが赤子のすっきりとした顔を見て、どうやら別におかしくはないらしいと気を取り直しオムツを変えてやる。しかしオムツを変えるのもなかなか重労働だ。
なんせ片手で赤子の足を纏めて持ち、もう片方の手で排泄物を拭き取ってやり、ベビーパウダーを叩いて新しいオムツと交換するのだ。
オムツ交換の中にこれだけの工程が詰まっているとは露ほどにもルフナは思わなかった。
見事にこの偉業を成し遂げた己を褒めてやりたい。そんな気分だった。
「ふふん、僕だってこのくらいやればできるんだからね」
「んむ、るー」
「……え」
「るー」
るー――。
ただ短いその言葉の意味をルフナの頭脳は推理を始めた。
この家の中にルーと呼ばれそうなものはない。
強いて言うならミルクだろうが、赤子がミルクという言葉を認識できるとは思えない。
かつ赤子は己をみてふにゃと笑っている。ここから弾き出される真実は唯一つ――。
「そういうの(はじめてのおしゃべり)はお母さんに聞かせてあげようかー?!」
己の名前であった。
いやそこはこんな一日だけ来た幻想種のお兄さんよりいつも君を抱いているお母さんに捧げてほしかった。
錫蘭ルフナ、心の叫びである。
「るー、るー」
「……はぁ、なにさ」
無邪気に名を呼ぶ赤子の頬を指で擽ってやると、うきゃと燥いで小さな手でルフナの細い指をきゅっと掴む。
その力強さと温かさが、この子は懸命に生きているのだとルフナの胸に訴えかける。
――気が付けば空には月が掛かっていた。
「本当にありがとうございました」
翌朝、帰ってきた母親は深く頭を下げルフナから赤子を受け取った。
母の腕に抱かれた赤子はきゃいきゃいと燥ぎ、愛おしそうに額にキスをする姿は絵画のように美しい。
たった一日、されど一日。
大変だったけれどとっても濃密な時間は過ぎて、別れの時が来た。
胸の中に寂しさが募るが、それを素直に吐き出すことができない。
次はミルクだってもっと早く作れるし、オムツだってさっと変えられるのに。
その次はもう来ないのだと思うと。
そして『るー』と呼ばれるときは来ないのだと思うときゅうと胸が締め付けられるようだった。
「よかったじゃん、やっぱお母さんが一番なんでしょ」
だがルフナの口は寂しさをおくびにも出さない。出せないのだ。
「本当にありがとうございました! あの、それで誠に申し訳ないのですが……」
もしよければまた機会を見て預かってもらえないかという母親の申し出に、ルフナが内心喜びつつも素直に嬉しいと言えなかったのはまた別の話である。