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いいおとこは深淵から「」を覗いている。
登場人物一覧
□■
「
その男はいつものように俺の右隣に腰掛けて、ぽつりと呟いた。
その男と俺は、互いに面識があるわけじゃない。名前すら知らない。
ただ、酒が注がれたグラスを見つめたまま、返答を期待するわけでもない独り言を、互いに盗み聞きするだけの間柄だった。
頭に着けたショッキングピンクのシャンプーハットが特徴的な強面の男だった。
いや特徴的すぎるだろ。
なぜシャンプーハットなのか、よりにもよってなぜその色をチョイスしたのか。
この男に関しては色々なことが気にかかるが、「いいおとこ」は軽はずみに他人の事情を詮索したりしないものだろう。
好奇心は猫とか虎をも殺すし沈黙は金というではないか。
俺が無言のままでいるのを話を聞くというサインと受け取ったか、彼はなみなみと注がれたカシスオレンジ――女子か――を一息に飲み干すと、柑橘系の甘ったるい吐息を零しながら続きを口にする。
「旅人は二種類に分けられる。召喚前より強くなってる奴と――弱くなってる奴だ」
手元のウイスキーの氷がカランと音を立てた。
「鮮やかな過去ってのは、時として今を曇らせる。過去の栄光にすがってるとかそういうのじゃあねえ。
わかっている。
これは隣の男の独り言に過ぎない。
だが、聞いてしまった以上、考えることを禁じ得ない。
けれど、答えは決まっていた。
「奪われたって、そう思ったこともある。
平等ではあるが、公平とは程遠いからな」
思い出すのは燃え上がるように刺激的で、痺れるように苛烈だったかつての記録。
――《
炸裂する爆炎が、会心の手応えを伝えてきた。
迸る雷炎が、巨大なモンスターの表皮を焼き、焦がし、貫く。
ゆっくりと倒れ伏すその姿を覚えている。
その色も、温度も、匂いも、音も、覚えている。
■■は……何故か覚えていないが。
――この身燃えつきようとも……貴様は俺が倒す――ッ!!
仲間の危機に、魔人と化した。
軋む体を性質変化させた雷炎で包み、生体電流を模した雷電で無理矢理肉体を動かして格上の相手と炎で殴りあった。
引くほど炭化した全身と引き換えに、勝利したのを覚えている。
■■は……何故か思い出せないが。
数え上げればキリがない。
この世界ではできなくて、前の世界ではできたことなど馬鹿らしいほどあって。
けれどそんな力が今の自分にないことに、俺は――。
「嘆いたりしないさ」
俺は、何度でもそう言うのだ。
「力が足りないことを知っている。
――だからこそ、前に進むんだ」
俺は「
出来ないことを嘆くのは「
出来ないことがあるならば、出来るようになるまでがむしゃらに進むだけ。
俺は絶望なんかしちゃいない。
「それに……出来ないってことを嘆くには、ちょっと未来が明るすぎる」
そう、俺の力は暗い航路を眩く照らし道を示す、希望の光なのだから。そうでなければおかしいだろう?
だが、俺の独り言を静かに盗み聞きしていたシャンプーハットの男は「そうか」と呟き、続けて言った。
「……やはり――辛いことだ」
その言葉を、意味を嚥下するのに、俺はたっぷり数秒を要した。
「召喚前より強くなった奴にはあって、弱くなった奴にはないものがある」
この先を聞いてはいけない気がして、氷がほとんど溶けたグラスの中身を呷った。
だが酔って前後不覚になるのは「
腹の奥が熱くなる感覚を覚え、けれど酔える気がしなかった。
「――“勇気”だよ」
逆ではないか。勇気というのは不相応な力を与えられた者にこそ欠けているはずだ。
そう考えた俺の思考を読んだように、シャンプーハットの男は言葉を足す。
「強くなった奴は、より強くなろうとする者もいれば……諦めるのもいる。
だが弱くなった奴はそうじゃない。大体は失ったものに目を向けて、それを取り戻そうと足掻く」
それは……言われてみれば確かにそうだ。
力を持たなかった者にいきなり力が渡されても、意思がついていかない。
だが、力を奪われたものは往々にして、力についていくだけの意思を備えている場合がほとんどだ。
だから戦える。前へ進める。
だがそれは、自身の喪失感を埋めるための行為である。
初めから弱かった者と違い、“弱いままでいられる”勇気がないのだ。
特に、魔種だのモンスターだのが跋扈する混沌世界で力をつけないままに、そんな現実に蓋をして生きる者達は、心の中で燻る焦燥感をどうにか誤魔化しながらかりそめの平和に身を窶している。練達の再現性東京など、その最たる例だ。
そんなこと、俺には怖くてとてもできないことだった。
「単純に選択肢が一つ、始めからない。それが弱くなった旅人の本質だ」
弱いままでいることを否定する。
聞こえはいいが、それだけを理由に戦うのは明らかに逃げなのではないかという疑問が鎌首をもたげた。
「だから俺はそういう奴らを見て言うのさ。
――過去の力を取り戻すため以外に、前に進む理由を探すべきだ、とね」
前に進む理由、そんなの簡単だ。
かつて俺は「
その意思は変わらず俺の中にあるはずだ。そのはずだ。そうでなければおかしいではないか。
息が苦しくなるのを誤魔化すように、俺は自分の胸に問うた。その蓋を開けて中を覗いた。
――中はほとんど空だった。
――ただ、底の方にこびりついた使命感があって――それはじっと、俺を見つめ返していた。
――何故俺は「
俺自身の実績や、俺が見た景色、俺が嗅いだ匂い、俺が聞いた音楽、そういったものは思い出せる。
だが、俺は俺の感情を思い出せなかった。
客観的視点で確認し得るものは全て鮮明に思い出せるのに、主観だけがぽっかりと空白だった。客観で点を刻み、それを線で結んでできた空白の図形が自分だとでも言うかのような違和感。
――goodmanは「いいおとこ」であろうとする。
この瞬間、過程を全て置き去りにした解だけが、俺を突き動かしているのだと自覚してしまった。
この使命感が、俺の意思とは無関係であることを理解してしまった。
記録でしかなかった記憶を看取ってしまった。
だが、それ以上に救い難いのは、それらを自覚してなお、それを言うのをやめられなかったことだ。
「――「
ちゃんと言えているだろうか。きっと言えている。
何故なら、この身はどうしようもなく「
「……フッ、そうか」
シャンプーハットの男はそれだけ言って、店主に金を渡すとバーを出た。
カウンターのテーブルに放置されたグラスの底には、彼がわずかに飲み残したカシスオレンジの赤紫が残っていた。
――俺は努めて、それから目を逸らした。
その夜から……いいや、ずっと前から俺は……「いいおとこ」の視線に晒され続けている。