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花と狼
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目が覚めて昨日までの体の痛みが夢だったらよかったのに。アルストロメリアはそう夢想する。ずっと悪夢は続いたままだ。長かった金の髪は焼けて縮れ、出血と膿が止まらず前身は包帯でぐるぐる巻き。そして未だに体がぎしぎしと痛む。
「美味しくない」
「アル……お願いだから食べてちょうだい」
「美味しくないって言ったでしょ?!」
食事の入ったうつわを母に投げつける。粥が床に散らばり、母はああどうしましょう、とつぶやきながら掃除を始めた。
「私をあの時置いて行くから……」
アルストロメリアの恨み言に母は黙って床の粥を集めている。あの時の黒い炎はきっと私の身も心も焼いてしまったに違いない。アルストロメリアはそう思った。
「ギルド・ローレットから派遣されたフラーゴラ・トラモント……です。イザベラ・フォン・リンネさんいらっしゃいますか……」
小柄な獣種の少女が屋敷のメイドに迎え入れられる。客間へと通されると物腰の柔らかな女性がいた。
「ああ……ああ! よく来てくださいました! 私がイザベラです」
そういうイザベラの顔はお世辞にも顔色がいいとは言えたものではなく、ひどくやつれていた。
「えっと……お世話する前に……アルストロメリアさんのこと、話せる範囲で話してくれたら助かる……助かります」
イザベラは頭痛でもするかのような面持ちのあと一拍を置き、現状を説明し始めた。
「……このあたりで魔種が出たのはご存知かしら?」
「うん……。黒い炎を吐く魔種、だったっけ……」
「あれに我が家は一度襲われたの」
幸か不幸かリンネ家の家族は旅行で家を空けていた。──ただ一人体調が優れず、メイドと共に家に残ったアルストロメリアを除いて。アルストロメリアは家の瓦礫の下で発見された。生きているのが不思議なくらいだったが、彼女は一命を取り留めていた。その魔種の黒い炎をまともに受けてしまったらしく『呪われた』アルストロメリアは全身から出血と膿が止まらなくなった。
「かんしゃくを起こすほど元気なら……車椅子を使わずにもう歩けるのでは?」
「あの子が歩きたがらないのよ……」
イザベラはとても大きなため息を吐く。限界だ。きっとそうなのだろうとフラーゴラは思った。
アルストロメリアの部屋のドアがノックされる。
「アル……今日はギルドのかたが来てくださったのよ」
「帰って」
「そんなこと言わないで……ね?」
「帰ってってば!」
拒否するアルストロメリアとは反対にドアは明けられ、そこには雪のような獣種がいた。手入れの行き届いた真っ白な長い髪。陶器のような滑らかな肌。さらに宝石のような目が彩りを添えていた。アルストロメリアはふつふつと怒りが湧いてきた。
「何……当て付けなの?! こんなに醜い私への?!」
「……今日はお水も飲んでないって聞いた……。飲んで……」
フラーゴラはコップを差し出す。アルストロメリアは受け取ったかのように見えたが、乱暴にフラーゴラへと投げつける。ゴッと鈍い音がし、フラーゴラの額からは血が流れ水浸しになった。
「まあ、アル! お客様になんてこと……!」
イザベラの顔が青ざめる。
「これくらい平気だよ……」
フラーゴラはなんてことのないような態度だった。だがせっかく来てくれたローレットの人を怒らせてしまうのではないか。イザベラはフラーゴラを連れて部屋から退出し、怪我の治療を行った。今日は帰ってもいいとイザベラに言われたがフラーゴラはそれを断り、再びアルストロメリアの部屋へ向かった。
「……うちのメイドにでもなるの?」
アルストロメリアはそう皮肉を言った。水浸しになったフラーゴラはリンネ家のメイドの服を着ていた。ただし彼女は小柄なので、袖を目一杯まくった姿だった。
「……。……怪我、痛くない?」
「大丈夫だよ……。これぐらいはギルドのお仕事でよくあることだから……」
怪我をさせたのはアルストロメリアの不本意なことであった。以前のように思い通りにいかない体と苛立ちでどうしても人に当たってしまう。
「ふふ、心配してくれるなんてアルストロメリアさんは優しいね……」
「っ! 違うよ……優しくなんかない」
「アルストロメリアって、お花の名前だよね?」
アルストロメリアはっとする。この名前に気付いてくれる人はなかなかいなかったからだ。
「花……詳しいの?」
「少しだけ、ね……。花言葉は『未来への憧れ』だったかな。アルストロメリアさん?」
「……アル」
アルストロメリアの小さな声にフラーゴラは聞き取れなかった様子だ。アルストロメリアはもう一度言う。
「アルって呼んで。皆そう呼ぶから」
「わかったよ……アル」
それ以降、フラーゴラはアルストロメリアの家に週に一度、通うことになった。
アルストロメリアはフラーゴラはまだかとメイドに尋ねる。メイドは微笑みながらもうすばらくすれば来ると返す。フラーゴラが部屋に入るとアルストロメリアの顔はぱっと明るくなるが、ばつが悪そうに視線が泳ぐ。そんな様子にフラーゴラもくすりと笑ってしまうのだった。
「えっと……今日はギルドのお仕事で水族館に行った話をしようかな……」
「スイゾクカン? 生け簀とは違うの?」
「ううんと……もっともっと、大きい水槽があって……星空みたいに魚がキラキラするんだよ」
フラーゴラは何か思いついたようにバッグからマッチを取り出す。火。アルストロメリアはそれだけであの日を思い出し身構えてしまう。フラーゴラが大丈夫、と言うとマッチをこする。すると大きな水槽の幻が浮かんだ。
「わぁ……すごい、ね……。こんなに魚がたくさん……」
アルストロメリアは夢中で見入っていたが、火が消えると水槽の白昼夢も消えてしまった。終わってしまったことにアルストロメリアは消沈したが、次の話題が浮かんだ。
「ねぇフラーゴラ。あなたの好きな人の話ももっと聞かせてよ」
フラーゴラの顔が林檎のように赤くなる。アルストロメリアの要望に応えてぽつぽつと語りだすフラーゴラ。フラーゴラの思い人は博識であり、かまってちゃんで、意外とロマンチストであることなどを述べる。日常に価値を見出す人でもあるとフラーゴラは熱く語った。それをアルストロメリアはからかって遊ぶのだ。
「アルは……秘密の花園って知ってる……?」
「何それ?」
「小説だよ……アルみたいなお嬢様が、コマドリに誘われて……隠れた庭を見つけるの。一見枯れたように見える庭の植物が生きていることに気付いて、庭の手入れを始めるんだ……。庭を再生させたことで色々な奇跡が起きるんだよ……」
「へぇ。……お庭行ってみたいかも」
「そうだね……春になったら、一緒に行こう……」
紅葉した樹木の葉は落ち葉になり、手を洗う水が冷たすぎると感じるようになった。冬が訪れようとしていた。
あたり一面の銀世界。そこに馬で駆ける獣種の少女がいた。アルストロメリアが危篤だと知らせを受けたのだ。医者からはもういつ死んでもおかしくない。そう言われていたが、フラーゴラとの交流でアルストロメリアはすっかり明るくなった。誰もがこのまま回復するのは……そう信じた矢先だった。アルストロメリアはうわ言のようにフラーゴラ、フラーゴラはどこ?と繰り返すのだった。
「アル……ごめんね……遅くなっちゃった。ワタシはここだよ」
「ああ、フラーゴラ。やっと来てくれた……」
アルストロメリアが力なく笑う。
「アル……目はまだ見える……?」
フラーゴラがマッチをこする。そこには自分の脚で立ち、色とりどりの花が咲く庭でフラーゴラと戯れるアルの姿があった。そこには母イザベラの姿もあり、噴水に腰かけている。
「くす……素敵……もっと、見ててもいい……?」
フラーゴラは何度もマッチをこすった。そしてアルストロメリアがこう言うのだ。
「雪……食べてみたいな」
イザベラはメイドに命じ、うつわに盛られた雪とスプーンを用意した。
「アル……雪だよ」
フラーゴラがスプーンで雪をアルストロメリアの口に運ぶ。だがアルストロメリアの反応はない。医者からアルストロメリアは臨終したと告げられる。イザベラは泣き崩れ、フラーゴラは服を握りしめるのだった。
フラーゴラはイザベラに何度もありがとう、ありがとうと手を握られた。あの子が穏やかに死を迎えられたのはあなたのおかげだと。フラーゴラは深く一礼をすると屋敷を後にした。フラーゴラは帰路につくため馬に乗り、独り言を言う。
「アルみたいな子が死ぬのはよくあること……。でも」
イザベラが大粒の涙をこぼすたびに胸が締め付けられた。自分が死んだら悲しんでくれる人がいるだろうか? そんな疑問が浮かぶ。
「ワタシにも家族がいたのかな……」
イザベラの泣く姿を思い出すと胸が苦しくなる。頬に当たった雪がフラーゴラの体温で溶けて、一筋の水となった。