天の星、地の花

登場人物一覧

●逢瀬
「月が綺麗な夜ですね。あの日も桔梗が咲いていました」

　月光を浴びて佇む麗人は、初めて出会った晩と変わらぬ姿でそう言った。

　星の川に分かたれた二人が逢瀬を交わす七夕の夜。
　梶の葉に夜露の墨で願いを綴って流す星祭りの宴。

　そこで出会った神使はラクリマ・イース(p3p004247)──《涙》と名乗った。
　尖った耳を持つ異邦人の右目には白き薔薇が咲き、神秘の棘を纏っている。

「桔梗は星の形をしているのだと聞きました。確かに月の光を浴びる夜色の花弁は、仄かに光って地上に落ちた星に見えます」

　天人と見紛う男は煌々と冴えた月から足下の花へと視線を移すと、口元から扇を払ってこう告げる。

「貴方を待っていました」

　今宵私を迎えに来たのだと言われた気がした。

●月の人
「ラクリマ殿、貴公は私の亡き妻に似ている」
「北の方ですね。昨年お亡くなりになったと聞きました」

　麗人が川で……と言う言葉を飲み込むのに、私は気にするなと緩く首を振るう。

「既にお聞き及びと思うが、妻は入水して帰らぬ者となった。気の病に伏し、京の北にある別荘で療養しているときのことだ」
「それはお気の毒でした」
「もう過ぎた事だ。だが妻が亡くなった晩も月が出ていて、川縁には斯様に桔梗が咲いていた」

　気付くと私は麗人に妻を亡くした晩のことを語っていた。

　気が触れた妻が目を離した隙に屋敷の外へ逃げ出したこと。
　白い衣を残して川に入り、流されて数日の後、亡骸が見つかったこと。

「事故、という可能性はありませんか？」
「足を滑らすような場所ではないのだ。衣も残されていた。自ら川へ入ったとしか思えぬ」
「遺体は見たのですか？」
「亡骸は痛みが激しく荼毘に付された後……。私の元に戻ってきたのは、妻が纏っていた衣のみであった」
「それは……申し訳ありません。辛いことを話させてしまいました」

　麗人は侘びの言葉を吐いて扇で顔を隠す。
　その仕草もまた不思議と妻に似て見えた。

「気にせずとも良い。貴公が妻に似ているゆえ、つい語りたくなったまでだ」
「それほどまでに俺は北の方に似ていますか？」
「白い衣を着ているせいだろうか……顔が違う、性別も違う。なのに纏う雰囲気がよく似ている。妻も月を見るのが好きで、よくこうして晴れた晩には月を眺めていた」

　妻もこんな風に月の光を浴び、地の人ならざるが如き触れがたさがあった。
　妻もこんな風に地の花を従え、天つ人の降臨せしが如く犯しがたくあった。

　妻もこんな風に──
　私は麗人に指を伸ばす。

　頬に触れた。
　頬は肉の中に血が流るるを示して仄かに温む。

　口唇に触れた。
　口唇は身の内に熱を帯びるを示して幽かに綻ぶ。

　首筋に触れた。
　首筋は皮の下に脈が波打つを示して僅かに震う。

「貴方は……」

　麗人は切なげに眉根を寄せ、呻いて私を見つめる。

　夜毎妻が抱かれて啼くのと同じに。
　あの晩聞いた妻の断末魔と同じに。

「そうやって貴方は……北の方を手に掛けたのですね？」

　麗人が私の手を扇で払った。
　と同時に青い剣筋が光の刃となって降り注ぐ。
　夜空から零れ落ちる露のような幻影は、大地に落ちると桔梗の花へと変わって見えた、

●星の花
「貴方は北の方を愛していた。入内が決まる前に屋敷の女房に手引きさせて無理矢理妻にし、気の病と偽って京の外に構えた屋敷に監禁してしまうくらいに」

　青白き幻光に貫かれた我が身に恍惚が満ちる。
　頽れた私を見下ろす麗人の哀れむような視線。
　それは右目に咲く薔薇の棘の如く甘美な痛み。
　私は心まで射貫かれたまま愉悦に身を委ねる。

「でも自分だけの物にしたい、誰にも触れさせたくない……それは愛ではなく欲です。その違いは相手を想い、尊重するか否かなんじゃないでしょうか。俺にも覚えがあります。かつて愛した人がいて、その人だけがいればよかったし、その人に自分だけを見て欲しかった……」

　麗人は懐かしむように眼差しを眇めると、動けぬままの私に問うた。

「北の方は生きています。川下に庵を構える僧都に救われました。でも今は貴方の手の届かないところにいて、貴方の身を案じています。俺の依頼主は彼女で、俺に貴方を救ってくれと言いました」

　麗人は希に死者が息を吹き返すことがあり、一命あらば自分が救えると言った。

「北の方もまた貴方を愛している。でもそれは誘拐被害者が犯人に同情するようなもの。あるいは共依存というものかもしれません。それに気付いたからこそ別れなければ共に駄目になると思ったそうです」

　貴方にとって救いとは何かと麗人は尋ねた。
　私は今も妻を愛していると告げ、亡き妻の元に行きたいと答えた。

「一人生き残された現実を見るより、北の方への変わらぬ愛を抱いて逝くのですね」

　変わらぬ愛。それが桔梗の花言葉。
　天の川に星が煌めくように、地の川には桔梗が咲いている。
　川へ向かう私が最後に見た麗人の耳に、涙代わりの耳飾りが月光に輝いて揺れていた。