SS詳細
臙脂の痕
登場人物一覧
その日は何もない一日であった。燦々と白日が光の輪を纏う。流るる綿雲を追いかけて懐中時計を取り出した。今日、『彼』はローレットの任務で今日は遅くなると言伝があった。それでもいい、帰りを待って居ようと酒場へとラクリマは足を運んだ。カウンターテーブルの固い椅子に腰かける。「飲みすぎない様に」と心配性にも揶揄う彼の声が聞こえる気がしてラクリマは小さく笑みを零した。
「何にしますか?」
「それじゃあ……ジントニックでも」
「畏まりました」
あまり、酔ってはいけないんだ、とささめきごとのようにそう、と告げる。唇で笑みを作りその整ったかんばせに僅かな照れを浮かばせたのはつい最近想いが通じ合ったからだろうか。と、言ってもラクリマにとって、彼――ライセルの胸中に秘められた可能性が引っ掛かっては仕方がない。愛おしいと想いを酌み交わそうとも彼の横顔に僅かに感じた寂寞が誰かの面影という名の影を落としている。屹度、彼の心の一番柔らかい部分には他のだれかが居る様な気さえして酒を一気に喉まで落とす。誰の声も聞こえぬほどの思考の沼の中、愛しいひとの名を呼ぶことも何故か憚られて唇だけがアルコールで濡れていく。
――ラクリマの背後に居たのは『商品』を探す男たちであった。陽の色の美しい金色の髪にヘブンリーブルーの瞳。尖った耳は長命の種の証。幼さを感じさせるのはその種故だろうか。そんな彼を商人たちが放っておくであろうか。何かに溺れる様に酒を喉元へと流し込んだ仕草。酒に泥酔するつもりはないのだろうが思考の渦が彼の唇へと酒を運んで行く。
「失礼、良ければどうぞ?」
「え」と言葉を漏らしたラクリマに笑みを浮かべた男は一人で飲んでらっしゃるからと微笑んだ。その笑みは裏表もなく屈託もない疚しい事等何も知らぬような微笑だ。獣種である彼は自身らはこの一帯で活動している傭兵だと名乗った。ほら、と振り向く仕草をした彼の背後で手を振っている者がいる。アルコールで判断能力が薄れていたからかもしれない。傭兵というには余りに細い腕に、承認を思わせる出で立ちの男たちを簡単に信じ込んでしまった。
「ん――」
唇の端から唾液がたら、と垂れる。まるで眠る様に思考回路が茫と焦げ付き始めた。目の前は霞み、幾重もの像を作り出している。「お客様」と呼びかけるマスターの声にラクリマが答えようとした刹那、快活にトークを続けていた男が「送っていきます」と微笑んだ。アルコールも手伝って自身の出自については薄らと触れていた。その事もあってか、近くまで行けば知り合いに任せられるでしょうと微笑んだ彼らにラクリマはいとも容易く拐わかされた。
僅かに光が差し込むその場所でラクリマは薄らと目を見開いた。その色彩に僅かな曇りが差したのは酩酊する自身の頭を無理矢理にも起こしたからだろうか。重たいと頭を振った。それは決して良いだけではない。重苦しい首輪がじゃらりと厭らしく音を立てた。うまく体が動けぬ儘、視線を揺れ動かす。纏っていたマントは剥ぎ取られ、凛と着飾ったスカーフも何処かに消えている。
「な――」
上手く言葉を紡ぐことが出来ない。唇から耐えず溢れる唾液が喉につっかえ歯列に絡みつく。眩む視界の中でラクリマの双眸が点を結べば先程まで酒場で飲み交わした相手が居る事に気付いた。唇が戦慄く――あれ程までに容易な罠に掛かってしまったのかと感じる暇も与えぬ程に男の指先が服を乱雑に脱がし続けてゆく。
「や、やめ――」
虚しいかな。抵抗にもならぬ内に薄い胸板が露になり、素肌が晒された事で感じた冷気に肌が粟立った。ねっとりと眺める不快な視線から逃れる様に身を捻ったラクリマの顎をくい、と持ち上げて男は「どーする」と軽薄に声を発した。
「味見するか?」
「味見ィ?」
商品にかよ、と笑う声がする。唇が震える。愛しい人を。誰かの身代わりかも知れないと身勝手にも孕んだ疑問に上塗りする恐怖が彼の名で唇を濡らしていく。こんな場所に居る事等、きっと彼は知らぬのに。男の指先が横腹を擽った。白いその肌に指が這い、張りの良い肌の感触を確かめる様になぞり続ける。
厭だ。
口にするにもなんて勝手なのか――誰かの代わりでもいい。けれど、この身に触れていいのは――
「ラクリマ!」
幻聴か、と感じた。唇が震える。倉庫の扉を蹴り飛ばし武器など投げ捨て、傭兵を名乗った証人の横面を殴り飛ばす。ラクリマの体がごろりと転がり慌てたようにライセルがその頭を抱え上げた。そっと、壊れ物に触れるわけではない、乱暴で、それでいて酷く焦燥に駆られた腕がぎゅう、と音でも立ちそうな程にしっかりと抱きしめてくる。
「ラクリマ、大丈夫か!?」
「……だいじょ――……ごめ――」
「喋らなくていい。もう、安心して。大丈夫だから」
背を撫でるその掌の心地よさが愛おしい。そっとそのぬくもりに寄り添えばライセルの腕は力強くラクリマを抱きしめた。
安堵したのも束の間。無数の足音が聞こえてくる。賊が援軍を呼んだのかとラクリマを抱きしめる腕を、そっと緩めたライセルは彼を守るように立ちはだかる。
「……大丈夫だ。ラクリマ。安心して」
常の笑顔を向けてくれる。しかし、ライセルより感じられたのは焦りであった。
然し、軍勢の数は多い。剣が欲する様にライセルを掻き立てるがその躰一つで幾重もの攻撃を受け流せるわけがない。
「ッ―――!」
唇が震えた。血潮が淡く溢れ、自身の掌に握った武器の喜ぶ声が鼓膜を叩く。凛と立つ。守るべき人が為に、己が膝を付く訳には行かぬと声を張り上げて。
ライセルと、彼の名を呼んだ。愛おしく、慈しむ様に、愛を込めて。
震える足でラクリマは立ち上がる。今、正に苦戦を強いられる愛しい人を護る為に。指先を揺らし魔力を集め続ける今、自分自身が放てる最大の――彼を救う為の力。
哀しみを幾重も紡ぐ。季節を巡ろうとも死は薄らがず、その存在を顕在化させる。氷の雫が落ちる様に冷たく響いたその声が賊の自由を奪えば、その刹那にライセルが飛びあがった。凍てつく気配を切り裂くように、昏く血を望む獣が如き刃を振り下ろす。永久の名を首元に揺らし吸血の魔剣に餌を与え続ける。
ぐらり、と倒れ伏せた男の向こう側に淡い空が見える。気づけば朝ぼらけであったか。薄明に被さる雲が穏やかに流れて往く。
背後からどさり、と音を立つ。最後の気力振り絞ったラクリマのその身をしかと抱きしめてライセルは唇を噛んだ。酒場のマスターは言っていた――彼は不安だったと。愛しい人が誰かの面影を見ている気がするとアルコールに濡れながら静かにそう告げていたらしい。
「ラクリマ……」
抱きしめる腕に力が籠められる。その頸には首輪で擦れた臙脂の痕が刻まれる。その美しい白磁の肌に傷をつけて良いのは自分だけだとそう考えたのは醜い独占欲だっただろうか。そっとなぞる指先に擽ったいと身を捩る気配がする。
「……帰ろう」
俺達の居場所へ――そっと背負いあげて一歩を踏み出した。
言葉を交わし合おう。君の不安を拭って。君が、真に愛してくれるように。
その痕の事等、上塗りする様に飛び切りの愛を込めて。