PandoraPartyProject

SS詳細

乾いた廊下

登場人物一覧

古木・文(p3p001262)
文具屋


 暦上での夏が過ぎると途端に寒くなって、自前で淹れた珈琲も、久方ぶりに湯気が立っていた。
 外は雨が降り続いており、時折雷も鳴っている。この歳でごろごろと響くアレに逐一怯えることもないのだが、嫌でも耳につく轟音は自分だけの平穏を脅かすようで、どうにも落ち着かなかった。
 もうひとつだけと手を伸ばしたレモンケーキの箱が、空であることに気づく。節制をしていたつもりではあったが、思いの外、食べすぎてしまったらしい。
 この味を好きになったのはつい最近のことだ。数区画離れたところに小さな店が出来ており、興味本位で立ち寄ったところ、うっかり嵌ってしまったのである。
 ちょっとそこまで、と言うには少し距離があるが、それをするだけの価値はある味だった。しかし、この雨では流石にそれも憚られる。少々口寂しく感じるものではあったが、大の男が土砂降りの中、自分で食べるお菓子を買いに行くというのも、なんだか気恥ずかしい。
 明日にでも、雨がやんでいたら買いに行こう。心の中に明日の予定を書き込んで、残った珈琲を飲み干した、その時だ。
 からりと音が鳴って、店の扉が開いた。
 このような天気の日に、昼間から客というのも珍しい。何か緊急の物入りだろうか。そう思ってカウンターから首を伸ばして見れば、そこにいたのは見知った女だった。
「お久しぶりです。ばたばたしていたのも落ち着きまして、そうしたら、改めてお礼をせねばと思い立ちましたの」
 女はかつて、ギルドに仕事を持ってきたことのある依頼人である。夫に先立たれ、女手ひとつで幼い息子を育てていたのだが、その子を賊に奪われてしまったのだ。
 依頼の内容は、子を救うことではない。奪われたのは、身柄ではなかったからだ。息子との思い出の品を取り返して欲しいと、そのような話であった。
 女の名前は、覚えていない。一度しか会ったことのない依頼人などそういうものだ。寧ろ、顔を覚えていただけでも己の記憶領域を褒めてやりたい。流石に、自分を目当てに来た客に「どちらさま」などとは言えないものだから。
 お礼を、とは言うものの、既にギルドを通して報酬は頂いている。個人として今更何を貰うというのも少々気が引ける話だが、別に公人を自称しているわけでもない。
 それに、この雷が鳴り響く大雨の中を、女性一人追い返すのも難である。
 ひとまずは温かい珈琲でも淹れようと伝えると、女は礼を言って頭を下げた。
「どうぞ、こちらにおかけになって。本当にひどい雨ですね。何も、こんな日で無くても良かったでしょうに」
 商談席の椅子を引いて、女に座るよう促した。
「ありがとうございます。いえ、思い立ったら動きませんと、億劫になってしまう性格でして。ああこちら、お口に会うと良いのですけれど」
 そう言って、女は包装された箱を差し出してきた。おそらくは、菓子折りの類だろう。個人的なティータイムは済ませてしまったが、口寂しさを感じていたところだ。明日から少々節制をせねばなるまいが、客人もいることであるから、たまにはいいだろう。
 礼を言って箱を受け取り、乾いた店の廊下を歩いて、奥のスペースへと引っ込んだ。
 台所でドリッパーに重ねてあったフィルターをゴミ箱へ。二番煎じも美味い、良い豆であるのだが、自分で楽しむにはともかく、客に出すというのは憚られた。
 湯を沸かしがてら、頂いた箱を開けてみると、それらは今しがた、明日にでも買いに行こうと予定を入れた、あのレモンケーキではないか。
 嬉しい誤算だ。幸いなことに数も多く、自分と客人だけでは食べ切れず、しっかりと残ってくれるだろう。冷やしておけば何日か保つ。明日以降のティータイムもまた楽しみになった。
 湯の沸く音を、雷が掻き消していく。まったく、今日はずっとこうなのだから、いい加減げんなりもするというものだ。
 食材を切らしてはいなかったろうか。こんなざあざあ降りでは、傘があっても買い出しに出たいとは思わない。どれだけ備えていても、靴も裾も、きっとびしょ濡れになってしまうだろう。
 沸騰させたら、ほんの少しだけ冷まして、ドリッパーに少量を注ぐ。蒸らすという過程も自分一人では面倒だが、美味い物の礼だと思えば、苦にはならなかった。
 淹れ終えた珈琲を運び、レモンケーキと一緒に女の前に並べてやる。彼女は棚に並んだ文具のそれこれを見回すこともなく、じっと待っていたようだった。
「お待たせしました。お土産が嬉しくて、珈琲ひとつについつい気合が入ってしまいましたよ」
 社交辞令と本音が入り混じったような言葉に、女は上品に微笑んでみせた。
「あら、喜んで頂けたならとても嬉しいです。レモンケーキ、お好きですものね」
 ―――さて。

  • 乾いた廊下完了
  • GM名yakigote
  • 種別SS
  • 納品日2020年09月05日
  • ・古木・文(p3p001262

PAGETOPPAGEBOTTOM