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親愛なるフラーゴラへ
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フラーゴラ・トラモントには昔の記憶が無かった。
一番古い記憶は、熱病にうなされながら街の路地裏を這い回っていた時の記憶。
熱病によって記憶を無くしたのか、はたまた全く別の要因か。どちらにしてもこの時の彼女は記憶を辿る余裕なんて無かったと思う。
体に纏っているのは、穴を空けた麻袋をそのまま被せたような質素な服。それは病の熱をより不快なものにさせる。
だけれど脱ぐような事はしなかった。服の替えが無いという理由以上に、屋外で裸になる事に対して強い忌避感情を抱いた。
「よう、姉ちゃん。ウチに泊めてやろうか?」
「…………」
フラーゴラは力なく首を振る。柄の悪い男が金銭を見せびらかしながら言い寄ってきても、その額面からどういう事をさせられるかは年端の行かない彼女でも想像がついて、それに靡く真似は決してしなかった。
「けっ、病気持ちが」
……実際に、その一回を我慢すれば温かい食事と市販のお薬を買ってこの熱病くらいは治せただろう。
結果として、それからゴミ箱に入った残飯で命を繋ごうとした。しかし、弱った体はそれも許してくれない。
病で衰えた体は得たいの知れぬ食べ物を受け付けず、フラゴーラは食事の後は度々嘔吐を繰り返した。
「今日はお前の好きなシチューよ」
「わーい!」
仲の良さそうな親子の話し声が聞こえる。
微笑ましさだとか羨ましさだとかよりも、真っ先に「明日ごみを漁りにいけば私もそれを食べられるかな」という考えが思い浮かぶ。そんな自分に悔しさと惨めさが込み上げて、その日の夜は泣きじゃくった。
転機が訪れたのは、その家庭のゴミを漁っていた時だ。
期待していたシチューは子供が綺麗さっぱり食べてしまっていたのか、いくら探しても出てくる気配がない。
「いたっ」
苛立ちが募ってゴミ袋を乱暴に漁っていると、鋭く尖ったもので指先を切ってしまった。
ガラス片だろうか? 指先にあるものをゆっくりと摘まみ上げる。それは刃先が欠けたナイフだった。壊れてしまって見栄えが悪いから捨てたのだろう。
フラーゴラは溜め息をつく代わりに、大きく咳き込んだ。喉の奥か何処かしらが切れているのか、赤い唾が咳に混じり始めている。
『血痰が出始めたら、絶対に安静にしないといけないよ。でないと』
そんな言葉が頭をよぎる。記憶がなくなる前にそんな事を教えてくれたのは誰だったろうか。親だったかもしれないし、友人だったかもしれない。
なんとなく、誰かが自分を看病してくれる優しい光景をフラーゴラは想像する。
……熱病を伴った血痰は彼女を焦った。一般的に考えれば、肺炎や肺結核など生命に関わってくる重篤な症状。
『でないと、数日もしないうちに死んでしまう』
「お嬢ちゃん。何の真似だ?」
「…………」
誰からとも分からぬその忠告は、病に苛まれるフラーゴラを非道徳に走らせるには十二分だった。
フラーゴラが踏み入ったのは真夜中の酒場。雇ってもらおうというわけではない。
「それをしまって。今なら、憲兵のヤツには通報しないでおいから。な?」
細身の店主はバーカウンターの隅へ後退る。フラーゴラは彼にナイフの切っ先を向けていた。
「……ごめんなさい。食べ物と、薬代だけ、もらえればいいの」
実際、それを受け取ったらさっさと逃げるつもりだった。この時のフラーゴラに誰かの命をどうこうするつもりも勇気もなかった。
「あ、あぁ。わかった。食事は、こ、これと。金は…………奥の金庫にある」
店主の目が泳いだ。フラーゴラは「何か抵抗する気ではないか」と店主の一挙一動注意しながら、相手の促すまま奥の部屋へ進む。その瞬間、フラーゴラの視界に火花散って、その焼け付きで視界が真っ白になった。
後頭部に激痛。いたい。
「まだ意識があるわ!!」
殴ってきた女が大声で叫ぶ。横腹に蹴りを入れ、ナイフを握った手を踏み潰す。
私は、ここで死ぬんだ。
骨にヒビが入る感触を味わいながら、フラーゴラの意識は遠のいた。
結論として、彼女はここで死ななかった。いや、死ねなかったというべきか。
「ほら、今日の分さね」
フラーゴラを見下しながら、重たい荷物を彼女に抱えさせる酒場の女将。
あの後、気絶した彼女は「憲兵に突き出すか、店前に放り出すか」という処遇の相談がなされていた。
麺棒でフラーゴラを殴り倒した女将は、「そんなの一銭の特にならないわよ」と、妙な事を言う。
「アンタ、相変わらずバカだね。こんなひょろっちい子供がどうして強盗したと思う?」
彼女の様子は体は熱いのに顔は青く、歯をガタガタ震わせている。怪我も相俟って瀕死の様態である。
酒場の女将は善人ではないが、聡かった。そのおかげで憲兵にも突き出される事はなかった。
「なぁに、犬も三日飼えば礼儀を忘れないって言うじゃない。キツい仕事押しつける宛てになるってもんだよ」
それが決して良い事とは限らなかったが。
「なんだってこんな仕事もできないんだいっ!!!」
フラーゴラの頬に平手が飛んだ。口の中が切れて、口の端に血が滴る。
「お、おい。病み上がりにそれはあんまりじゃ……」
屋内で休みマトモな食事を取って病はどうにか治癒したものの、それから精気を養ったわけでもなければ手の骨もロクに治療していない。そんな彼女に、大の男がやっと運べる量を押しつける理不尽には流石の店主も口を挟んだ。
「アンタが年取ってなくてこれ運べりゃこの子に当たる必要もないんだけどね! だったら代わりに運ぶかい?! このクソジジイ!!」
そんな罵倒がなされてから店主は表立って庇ってくれる事はなくなり、陰で傷跡や骨に変な癖がついていないか看てくれるのが精一杯だった。
そんな生活が一ヶ月か、二ヶ月か続いた頃だ。
「はぁ、あんたって相も変わらず役立たずだね」
店主がびくりと肩をふるわせた。イヤ、フラーゴラに対しての言葉である。
彼女の骨の方もどうにか治癒はしたが、複数回の折檻でむしろ以前より生傷が増えていた。押しつけられる仕事はいつも重労働で、到底幼い少女のフラーゴラにこなせるわけもない。
女将は当然それを分かった上で、ストレスの捌け口に彼女を虐めているのだろう。
「アンタ、出て行きたいって顔だね」
女将が嫌味ったらしく言う。実際、フラーゴラは正直嫌気がさしていた。しかし逃げ出しても行く宛てやお金などない。しかしここなら最低限の生活は出来る。死ぬ可能性が付き纏う暮らしに戻るのは御免だった。
「そんなアンタに耳よりの話があるんだけどね……客の中にアンタを気に入った人がいて、今夜来るから一晩一緒にベッドで語り合いたいってさ」
女将の物言いに熱病にうなされていた時の事を思い返して、吐き気に似た感情が込み上げた。
「……それは、イヤです」
「じゃ、出ていきな。穀潰しを置いておく余裕はないよ」
フラーゴラは胃がキリキリ痛んだ。女将も彼女の表情が歪むのを楽しむように笑う。
「そう嫌がる事はないさ。アンタにも小遣いが入るし、悪い話じゃ――――」
それ以上は頭の中に入れなかった。宛がわれた部屋に籠もって、ただひたすら「どうしよう」と思い悩んでいた。
そんな折にまるで忍び込むようにゆっくりと扉が開けられ、そちらには見知らぬ杜賓犬――獣種の男性が部屋に踏み入ってきて、フラーゴラは背筋が凍りつく思いで身構えた。
「来ないで」
「ご挨拶だな」
相手はフラーゴラの態度に、特に怒るでも喜ぶでもなく、こちらを品定めするような目つきで近づいた。
「暗がりだとよく見えん。顔を見せてくれ」
「イヤ!!」
フラーゴラは男の横をすり抜けて、部屋から飛び出そうとする。扉の近くに立っていた人に立ち塞がれて血の気が引いていく感覚を覚えた。
?
「……あ、親父さん……」
「フラーゴラちゃん、安心して。この人はローレットの人だ」
「一晩語り合う人って、この人じゃ……?」
「何の話だ?」
親父さん――店主曰く、ローレットはある仕事を受けてフラーゴラを探し回っていたという。
幸運にも最近それを知った店主は、女将の無理強いに反発する思いで相談してくれたという。
「この手紙をハチミツ色と海色の目の、雪のような獣種に届けてくれと頼まれた」
手紙に書かれていた住所と鍵を見たフラーゴラは、酒場から弾け飛ぶように外へ出た。
手紙を書いたのが誰かだなんて分からない。誰が自分を探せと頼んだのかも分からない。
『フラーゴラへ、元気にしていますか――』
体調を気遣う文章の出だしは、フラーゴラのおぼろげな記憶と重なった。
家に向かえばきっと、その人に会える。裸足のせいで足裏に小石が刺さるが、全然痛くない。
住所に辿り着いたフラーゴラは、慌てて鍵を開ける。
目に飛び込んできたのは人が住んでいる生活感のある風景。使い込まれた調理器具、手入れのされたふわふわのベッド。棚の中には流行のものから、ガラクタまで大事にしまい込まれている。
「ここは……私の家だ」
棚の中を見たフラーゴラは自分の収集癖を思い出し、そう感じてきた。
すぐに真横のクローゼットを開けて、黒いコートを取り出す。鏡の前で確かめてみると、自分にピッタリのサイズ。だが何かぎこちない。
……そうだ。髪や体も洗わなければ。酒場では最低限の身だしなみしかさせてもらえなかった。
棚の中から石けんと女性向けのブラシを手に取って、迷うことなくお風呂の場所へ向かった。
心身リフレッシュしたフラーゴラは、久々に笑顔の表情を浮かべながら暖かいベッドで眠りにつく事が出来ていた。
その傍らには誰からとも分からぬ手紙。フラーゴラは夢の中でも「自分を救うきっかけとなったこの人を探しに行こうと」と決意する。
何処にいるかは分からないけれど、でも、きっと会える気がする。
だって手紙の最後にはこう書かれていた。
『それでは、またいつかお会いしましょう。――親愛なるフラーゴラへ』