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【白き揺りかご、黒き混沌】
登場人物一覧
時計の秒針が、時を刻んでいる。かち、かち、かちと、絶え間なく、時を刻んでいる。
けれど、はたしてそれは、どちらへ向かって時を刻んでいたのだろう。
※
いつからかも、わからない。どうしてかも、わからない。それどころか、自分がこれまで何をしていたのかすらもが、わからない。ただ、うつつがたたずむのは、前後さえも不覚になるような闇の中だった。
ふわりと、白い人影が浮かびあがる。光とも見紛うような白に、一瞬、うつつは目を細めかけた。
現われたのは、純白の狩衣をまとった、うつつとよく似た背格好の男だった。顔の半分は黒い仮面で覆われていたが、唯一あらわになっている口元が、薄く弧を描く。
「やれやれ」
澄んだ声が、うつつの耳を打った。
「この身の役目は終えたものだと、てっきり、そう思っていたのだけれどね」
表情のほとんどがうかがえずとも、声色からは、男が苦笑していることが伝わった。まるで、駄々をこねる子供を見守るような、そんな温度のある声だった。
「……あなた、は」
誰。問いかけようとして、うつつは、たまゆら言葉に詰まった。
「違う――」
そう、違う。なぜなら、
「うつつは、あなた、を――ッ」
突然、うつつの視界が揺らいだ。頭に鈍い痛みが走り、闇の中に膝をつく。
目の前にたたずむ男が、誰であるのか。それを思い出そうとすればするほど、頭痛はひどくなり、視界はぐらぐらと揺れた。
ひどい痛みとめまいとで、自然とうつつの思考は鈍っていく。うつつは、歯を食いしばった。なおも記憶の糸を手繰り寄せようとするうつつを、しかし、おもむろに白い男が止めた。
「おやめ。無理に思い出す必要もないのだから」
白い着物の裾を闇に浸し、男は、うつつと目線を合わせるようにしゃがみこむ。かすかに、その服が香った。花のような、香りだった。
うつつは思った。自分は、この男のことを知っている。そのはずだと。
だのに、うつつはそれを思い出すことができない。男のことを思い出させまいとする何かが邪魔をしているかのようだと、そう思いさえした。
得体の知れない、歯がゆさを覚えた。覚えていない、思い出せないことが、今のうつつには、どうしてかもどかしくてたまらなかった。
そんなうつつをよそに、男は唇に笑みをのせた。
「――『ゆりかご』」
男が言った。
「この身は『ゆりかご』というんだよ、おまえ」
「『ゆりかご』……?」
おおよそ、人名とは思えないようなものだった。だが、男はたしかに『ゆりかご』と名乗り、うつつのかすれた反芻にも、ゆるりとうなずいた。
「これもまた、運命であるのかもしれない。おまえが、この『ゆりかご』を、再び必要とするときが訪れたのは」
「なんの、こと――」
言いかけて、うつつは顔をしかめた。頭痛がひどくなったのだ。うつつの額に、脂汗が滲む。
そのときだった。ふいに、男の――『ゆりかご』の腕が、うつつを抱きしめた。
思わず、驚愕に目をみはる。反して、『ゆりかご』と名乗る男は、おだやかな声で続けた。
「おまえの記憶は今、混沌としているようだ」
記憶という一本の糸が絡まり、容易くほどくことができなくなっている。
「それを力づくでどうこうしようとするものではないよ。おまえの記憶が、ばらばらになってしまう」
「……でも」
思い出したいのだと、うつつが言外に訴えれば、『ゆりかご』は、どこかうれしそうに笑った。
「安心おし。『ゆりかご』は、常におまえと共に在る。焦らずとも、思い出す機会ならば、いくらでもあるさ」
うつつの背を撫でながら、『ゆりかご』は言った。
「また会おう――『うつつ』」
『ゆりかご』の姿が、ゆらりと揺れる。そうして、闇に溶けるように消えていくのを見て、うつつは無意識に手を伸ばした。
けれど、その手は虚空をつかみ、うつつは目を覚ます。