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小さな縁
登場人物一覧
- 十夜 蜻蛉の関係者
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日が昇る頃に降り出した雨は次第にその勢いを増して、正午を過ぎた頃には、それはしたたかに地面を叩いていた。そこに、背から黒い翼を生やした少年が1人、顔を伏せて足を放り出し、雨に打たれたまま地面に座り込んでいた。
ふと、曇天のせいで薄くなった影が少年にそっと落ちた。かと思うと、そこだけ雨が止んだ。少年がゆっくりと顔を上げる。雫を落とした髪先の向こうに、赤い和傘を差した黒髪の女性がいた。買い物帰りなのだろう、もう片手には手提げかごを持っている。
「坊、どないしたん? ……こんなんなって」
和傘を差し出した女性――蜻蛉――の視線は自然と、少年の足と翼にある大きな傷へいく。事故か事件なら後者だと感じた。
対して少年の視線は、蜻蛉の頭にある耳、猫のそれへいく。
「……何かと思えば化け猫ですか、三途川も近いと見える」
互いの視線を交えないまま、少年は再び顔を伏せると、ほっといてください、と呟いた。ぽたりと、顔を伝って顎から雫が落ちる。それが、痛みに耐えて流れた汗と、その身を打ち続けた雨とが混ざったものなのだと蜻蛉は察した。
そんな少年から顔を逸らすと、蜻蛉はすぐ近くの自身の家屋へ顔を向けた。短く息を吐く。
「ここは呼び入れた人しか入れんようにしてあるのに。どうして坊は入ってこれたのやろ」
蜻蛉が小さく浮かべた笑みは、暗に珍しいものを見たと語っていた。闖入者に脅威を感じるでもなく、珍しがって笑ったのは猫としての性質か。
「そんなの……私が知るわけ、ないです……」
「憎まれ口を叩けるくらいには、まだ元気やのね」
息を切らしながら話す少年へと返す蜻蛉の語調は柔らかい。
「でもそれほっといたら、いくら妖でも、もたんのちゃうやろか」
先ほど浮かべた小さな笑みは、半分は珍しいものを見たという気持ちからだ。けれど、もう半分は世話を焼く気で笑いかけたのだ。同族ではないけれど“同じようなもの”だ。
「……だから、ほっとい――」
少年の言葉が途切れる。顔を伏せているからそこから把握することはできないが、状況から推し量る。意識を保てなくなったのだ。
「素直やないのねぇ……」
蜻蛉は手提げかごを手首に通し、さらに和傘をそちらの手に持ち変える。そして少年の横に屈み込むと、空いた腕で少年に肩を貸し、家へと足を向けた。
布団の中で目を覚ました少年は、自分が横向きになっている事に気付いた。翼を圧迫して傷めないよう蜻蛉が気にかけてくれたのだ。その翼も足も、包帯が巻かれている。
深呼吸を1度してから、冷えた肌に熱が戻っていることに気付く。
そうしていると、シュッという音とともに襖が引かれて。蜻蛉が顔を出した。
「おはようさん」
「……おはようございます」
微笑んだ彼女に対して言いたいことが色々と浮かんだけれど。なんだか、こんな状況で言うのも変な気がして、そう返した。
「食欲は?」
「ないです」
本当はあったけれど、世話を焼いてほしいわけでもなかったし、最初に言った通り放っておいてほしかった。
「なら、あとで作るね」
「いいですって」
「ほな、ゆっくりね」
笑顔で襖を閉められた。
2日が経った頃、割と動けるようになっていた。特異運命座標と同じで、怪我の治りは異常なほど早い。清潔にしてやればちゃんと治る。傷口はまだ痛むけれど、大したことはない。
寝転がっているのも退屈なだけ。さてどうしようか、と布団の中で考えていた頃。
「買い物行ってくるね」
襖越しにかけられる声。
「あ、はい。いってらっしゃい」
少し考えた後、家主がいないなら、と。少年は布団から抜け出した。
蜻蛉が帰ってくると庭が綺麗になっていた。
「あらまあ」
嬉しくなって、戸を開けてただいまと口にすれば。襖の向こうから、おかえりなさいと返ってきた。
台所へ行き、買ってきたものを置いて。流しに置いておいた食器が洗われている事に気づいた。
寝室の襖を開ける。少年は頭まで布団をかぶっていたので、そのまま声を投げた。
「お庭と台所、やってくれはったんやね。おおきに」
「別に……暇だったので」
放っておいてほしいのは本心だったが、だからといって受けた恩を返せないのは嫌だった。
蜻蛉がいなくなって、雅楽が布団から顔を出す。
「……何をしてるんでしょうね、私は」
出会った時に憎まれ口を叩くのではなく、素直に助けてもらえばよかった。
体が動くようになって、素直にやれることをやっただけ、と言えばよかった。
どうしてこう、素直になれないのかと自問したのだ。さらにそれらの気持ちや行動も、相手に筒抜けなことくらい分かっている。だから、本当に何をしてるんでしょうねと、もう1度ぼやいた。
翌朝、蜻蛉が寝室を覗くと、畳まれた布団と無造作に放られた包帯だけがある。少年の姿は無い。
「出ていってしまったんやろか」
物寂しさを覚えた瞬間、外からバサバサッという音。
丸い障子窓を引いて外を見れば、黒い翼を広げて舞う少年の姿がある。
蜻蛉と目が合えば、いたずらを見つかった子供のような表情になって、見えないところまで上昇していった。
足早に外へ出て仰ぎ見れば、屋根の上にちょんと座った少年の姿。
「怪我はもう大丈夫やの?」
「ええ、おかげさまで」
視線を遠くへ投げたまま、少年はそう答えた。
そよぐ風が気持ちいい。
髪を、肌を、翼を撫でたその風に乗せるように、言葉を紡いだ。
「私は、
唐突すぎて一瞬分からなかったけれど、それが少年の名前なのだと分かった。
「綺麗な名前やね」
「からかわないでください」
「からかってへんよ」
そして、蜻蛉へ視線をやらないままそっぽを向いた雅楽に、柔らかく微笑んで言った。
「うちは蜻蛉。よしなに」
数日が経った。
雅楽は手が空くたびに、何かしましょうか、何かないですか、とばかり口にする。
「あらへんよ。買い物も行ってもらって、布団も干してもろうた。庭だって綺麗なもんや」
「む……」
雅楽いわく、まだ恩を返していないということだ。だから中々引いてくれない。
「じゃあ、料理を教えてください」
ちょっと方向性を変えてきた。
「なんや、今度は料理作ってくれるん?」
「そのつもりですよ」
今の様子では、恩を返したからといって、出ていくかは怪しいものだった。
それからまた数日が経って、雨が降った。
2人でお昼ご飯を食べた。習い始めて少しは様になってきた雅楽が作ったのだ。
「片付けるからゆっくりしててください」
「ほな、お言葉に甘えて」
片付けが終わって、蜻蛉はどこに行ったのかと探してみるが、姿がどこにも見当たらない。
首を傾げながら家中を歩き、ふと玄関の戸を開ければ、赤い和傘を差して佇んでいる蜻蛉の後ろ姿。
「何をしてるんですか。風邪を引きますよ」
「雅楽と会うた時も、こんな雨だったなあ思って」
出会いが。結ばれた縁が。心底嬉しいと言うかのように、その場でくるっと回ってみせる。
自分との繋がりがそんなに嬉しいのか、と。蜻蛉の様子を見て恥ずかしくなった。
「早く戻ってこないと締め出しますよ」
素直なんだか、そうでもないんだか、よくわからない雅楽。
その雅楽と会ってから笑う事が増えた。弟が出来たみたいで嬉しかったのだ。
「ふふ、堪忍え?」
絆とまでは言えない、小さな縁。
いつまでここに居てくれるのかと、ずっと居てくれればいいのにと考えながら、そっと踵を返した。