PandoraPartyProject

SS詳細

月魄は海へ沈む

登場人物一覧

Tricky・Stars(p3p004734)
二人一役

 囀る小鳥たちが爽やかな朝の知らせを届ける。揺らぐカーテンの隙間から入り込む初夏の気配は瑞々しい草木の美しさを届けた。シーツの上を掻いた指先に力を籠めて体を起こす。軋む音を聞きながらおかへと戻って来たと云う実感を深く感じ取った。
 冠位魔種アルバニア――それはあの青海を絶望という汚泥に塗固め、死を蝋で固めたかの如き心底の主。
 滅海竜リヴァイアサン――それは絶望の只中で、誰に識られる事もなく済んでいた伝説にして恐怖の象徴。
 それらを思い返すと稔の体は緩く震えた。その中で特異運命座標達が走り抜けた熱狂、死に物狂いで演じきった舞台の美しさ。溜息を吐きたくなる程の情念渦巻く絶望ぶたいを思い出すだけで自身がローレットに所属した理由も果たされているのだと思えた。然し、どうにも今日は空気が淀んでいた。停滞した雲に崩れそうなほどの青空が襤褸となって堕ちてくるよう喪失の気配。
 蛇口を捻って流れ出た水道の描く軌跡を視線で追いかけて、排水溝へと吸い込まれるその濁流が、まるで命のようだと――

 助けてくれ、と男は叫んだ。四肢が拉げ柘榴のようにぐちゃりと臓がその顔を覗かせる。命が永遠に続くなどと云う欺瞞は首を擡げた儘、不安に涙を浮かべている。幾重もなく懇願された存命への綱。すがりつく無骨な掌は幼い子供を、愛しい妻を抱いた物だっただろうか。撫で付けるその指先の神経一つも動かなくなった蝋人形のような淡い伽藍。其れが死で有ることくらい、知っていた。
 稔は天使だ。人理など暇潰しに他ならず、人々の営みが連なる日々が演劇で有るかのように俯瞰し達観し傍観していた。恐怖心など存在するわけがなかった。美しい天使たる自身を敬い人々が救いを求める事は当然たる営みの日々。傲慢と呼ぶ勿れ、人々を救う慈悲抱いた自身に感謝をするべきだ。そう思っていた。

 筈、だった。
 鋭利な刃で胸を抉られたかのように心臓という部位が掌の上で踊るような早鐘を立てた。食道より連なった臓器が悲鳴を上げて排水溝へと向けて唇より溢れるのは恐怖という名の異質な気配。
 耳朶を撫で付けるような子守歌は龍神へと捧げるが為の響き。稔は其れを善く善く識っていた。その姿を濁流の中にかき消した一人の娘は深海の神を祀る家に生まれた片割れの巫女りゅうのうつわだったらしい。遙か昔、深海の神と共に眠るようにと決定付けられた宿命であったというならば。歴史という人間の作り出した物語の一変を見れたことを喜ぶべきだったのではないか。
 世界法則に決定付けられたかの如く滅びを背負った一人の娘に手を伸ばして掻き消えた白き少女。命こそあれど、戦場での奇跡など簡単に命を消し飛ばすのだと実感させた。其れだって、天使として――この世界に召喚された傍観者かんきゃくとして喜び勇んで見ているはずだった。

 ゴボゴボと音を立てた。排水溝へと向けて堕ちていく真水は温く差し伸べた手首に纏わり付いた。まるで、助けを求め虚しくも水底に消え去った命のように手首にどろりと纏わり付いては離れない。陸へ戻ったならば愛しい娘を抱き上げると云った男も、出産を控えた妻を遺してきたと笑った男も、共に帰るのだと手を取り合った夫婦でさえ――あの濁流の前では簡単に命を擲った。それでも尚、国が為にと戦った男の半身が海の中へと投げ出さればくりと大口開いた海獣の咥内に飲まれていく様子だって嫌というほどに見てきた。無数に蔓延った死から逃れた手首には彼らの叫びがしがみつく。置いていかないでと懇願するように。何時の日か、有る旅人に聞いたことがあった。目隠しをし、疵を負ったと錯覚した者へと水を垂らして流血していると認識させれば、自ずとショック死するそうだ。馬鹿げた実験を行うものだと思ったが――成程、自分もこの水に人々の怨嗟と叫びを重ねているのだ。捻れば流れ出る水が纏わり付いては離れない。
 畏れるように息を飲んだ。心の奥底で笑い寄り添う者は今は姿を現さない。蛇口を捻り水を止める。直ぐにベッドの中へと飛び込めば、ぴちょん、ぴちょん、と垂れる水が音を立てた。

 ――どうして。

「五月蠅い」

 ――どうして……。

「五月蠅い!」
 水滴が、追い縋るように声音へと変貌した。死者の怨嗟と叫声が鼓膜に張り付いて離れぬように脳髄へと広がっていく。電気信号のように四肢の神経に至るまで死の概念が溢れ出ては存在する。
『なあ、外に行ってみようぜ?』
 困った調子の同居人じんかくに稔はああ、とだけ返した。真白い顔をしてふらりと街へと歩き出す。楽しげに笑い合う親子の声に、心通わす恋人達の姿に、胸が焼けるような気配がした。鼻の奥底につんとした気配が広がる。彼らを愛する者があの海で死んだかも知れない。此処に無慈悲な死が訪れたならば――漠然とした畏れがそこには存在した。咄嗟に走り出し部屋の中へと滑り込む。誰も居ない部屋の中、鏡を見遣れば映り込んだ青白い顔をした自分が死に顔をしたように見えて叫びたくなる気持ちを抑えて頭を抱える。
 聞こえる。美しい子守歌が。竜を眠らせるが為の言祝ぐ響きが。それに重なる助けての声がハウリングし続ける。ノイズのように頭蓋を締め付けて、顔を上げたその向こう側にごそりと何かが動いた気配がした。其れが何であるかを稔は知らない、知らないはずだった――否、知っていた。其れは死だ。漠然とした曖昧な輪郭が其処に確かに動いた。ズルリズルリと音を立ててひたひたと近寄ってくる。
「来るな」
 背は最早壁にぴたりと張り付いていた。
「来るな」
 シーツを掻き抱いて叫びだしそうになる声を飲み込んだ。頭を抱えた。天使様と呼ぶ声がする。天使様、天使様、天使様。その神の徒を呼び縋る他人頼りな甘えた声音。どうして救ってくれなかったと涙流れに云う男がいた。助けて呉れたって良かったのにと泣きながら響いたその声を振り払うように喉奥から溢れそうな声を吐き出した。止めろ、と。助けてくれ、と逃げるようにシーツの中に潜り込む。ひたひたと忍び寄る死の輪郭が此方を見下ろしているような気配がした。
「何も残せなかった」
 怨嗟に塗れたその声音が降ってくる。稔の背中を撫でた生暖かな空気は体なんてなかったように直接臓器をぎゅうぎゅうと握りしめる。握りしめた感覚がした。
「死んでしまえば忘れられるだけだ」
 絞るように指先が素肌を撫でる感覚に肌が粟立つ。死は稔の顔を覗き込んで見知ったような顔をして小さく笑った。
「忘れないで」と。忘れる勿れ、畏れる勿れ、そして――二度とはそっぽを向くこと何てないように。三日月の形の唇が歌う子守歌が奇妙に変貌していく。死と言う名の響きを夢見るように孕ませて。叫び声の巡った室内で絞り出した止めてくれ、の声は――

 ……眠っていたのか、と稔は顔を上げた。全く疲労は拭えた気もせずに。寧ろ、倦怠感が身を包む。シーツを適当に放り投げて鏡を見れば底に立っていた男はあの日、海より陸へと帰還した時と同じように酷い様であった。はは、と唇から溢れた声音は空虚なままに、鏡の奥で誰かが笑っている。死だ。死の輪郭が此方を向き合ってにたりと笑って居る。忘れないでと幼い子供のように懇願したその響きに――
 稔は半ば狂乱したように机へと向かった。
『この世は舞台、人はみな役者である』
 その文言から始め、深き夜と海を閉じ込めたインクで描くのは過酷な運命に立ち向かう特異運命座標の物語。
 白紙の儘の魔導書に死に物狂いで書き進めた。美しい儘の天使で何て居られなかった。彼も、彼女も、志半ばで死に絶えた者の命の証を紡ぐのが劇作家だというように。傍観し、達観しているだけでは物語は描けない。心の奥底から畏れた恐怖という感覚を全て書き留めるようにペンを進め続ける。初めて認識した死という存在に畏れるように何度も何度もペンを滑らせた。
 死の輪郭が薄れて消えるようにインクへと溶け込んだ。何が有ってもペンを止める事はなかった。幻覚に幻聴に――其れが夢かうつつか、幻かさえも分からない。それでも尚、描かねばならぬとそう認識していたから――全てを誠と認識するように全てをかなぐり捨てて描き続けた。

 一冊の脚本。テーブルの上に置かれたままの其れを見下ろしてからシーツに埋もれるように眠りに着いた。瞼が開くことを拒絶して、恐怖など忘れ給えと優しく撫で付けるような響きが頬を擽った。ずるりと崩れ落ちるように眠った脚本家ぼうかんしゃの描いた其れは夢の中で何度も何度も見てきた景色。胡乱な世界に存在した漠然とした響きと恐怖。其れを其の儘に描いた戯曲。

 そのタイトルは――

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