SS詳細
カオス・カルヴァドス
登場人物一覧
●混沌
世界は混沌という色で出来ている。
この灰色の羽根の先端に黒が混じるように。
この瞳が碧と琥珀とで左右を違えるように。
男か女かも性別があるのかも分からぬまま。
白でも黒でもなく、その両方が交じり合った灰色でもなく。
彼という人間は誰とも交じり合えないものなのかもしれず。
混沌という言葉は混濁と似ているけれど、各々の色は交じり合わず、混じらぬ様を有りの儘とするだけ。
どっちでもありどっちでもなくて、どっちつかずなカティア・ルーデ・サスティン (p3p005196)という人間を灰色と括るしかないように。
何時から自分は混沌なのかと起源を考えてみるけれど、記憶は曖昧の宇宙に散らばる星屑のようなもの。
それでも林檎のことだけは覚えていた。
それは科学者に自然の摂理を発見させた真理の果実。
そして創世記の二人を楽園から追放した禁断の果実。
林檎を尖った歯で噛み砕きながら、そいつは『カティ』と親しげに呼びかけた。
●歯
「お前がいないうちにこっちである程度決めておいた。襲撃は今夜。カティには一足先にいつものように屋敷に忍びこんで貰いたい」
それでいいかと年上のそいつは問うけれど、作り直しの出来ない書類に承認印だけ押すようなもの。
カティアにとってはただ頷くだけの作業だ。
お前の手間を省いてやったと世話焼き顔で言い。
お前の考えは分かっていると訳知り顔で言った。
「女が好きなのか、それとも美少年好みなのか分からないからな。その点カティなら両方に応えられるし、いざとなったら窓から飛んで逃げられる。密偵にはうってつけだ」
性別の曖昧さは武器になるから武器として使えとそいつは言い。
訓練ならば俺が付き合うから武器として磨けとそいつは言った。
いつしか標的の元に忍び込み仲間を手引きするのも、時には閨で寝首を搔くのも彼の役目となっていた。
否と言わせぬよう皆の前で言い、嫌と言う前に皆に同調されてしまえば、拒む機会は既に奪われている。
「カティのことなら何だって分かるさ。俺達の仲だろう?」
誰よりもカティア知っていると言い、身も心も知り尽くしていると言う。
逃れられないと思わせて意のままに操り、外堀を埋めては逃げ場を塞ぐ。
カティアの細い首筋に口唇を寄せて、そいつが笑う。
林檎を噛み砕く尖った歯で所有者の印を付けながら。
●酒
「殺して」
「どうして?」
「仕事をしくじった僕に帰る場所はないから。仲間の居場所を吐いたと疑われるのがオチだよね」
いつものように忍び込んでみればそれは罠。
カティアだけが囚われて仲間に追っ手がかかる。
仲間のためと言われれば従わざるを得なくて、自分にしか出来ないことと言い聞かせて嫌なことを耐えてきた。
お前がいなければと言われることで自分の居場所を確認し、自分がいなくてはと思うことで存在意義を求めた。
親の顔を知らぬカティアにとって拾ってくれた旅芸人一座が全て。
例えその仕事が後ろ暗かろうとも、彼らは仲間で家族だったから。
「好きで悪事に手を染めている訳ではないのだろう? 君の心はまだ悪に染まりきってはいない。良心がちゃんと残っているんだ。ならばまだやり直せる」
「でも僕は一座にいるしかない。何処かに行けと言われても行く場所なんてないよ。行けないように首輪で繋がれてるしね」
「それは君がそういう風に洗脳を受けているからだ。ならば君の記憶と引き替えに、機会を与えよう」
カティアを捕らえた役人の男はそう言ってカティアから記憶を奪った。
奪うことで犯罪一座の情報を得て、同時にカティアを悪しき縁から解き放った。
「僕は……」
「混ざれぬことを恥じてはいけない。混じらぬことは時として正しい」
役人の男が口移しに飲ませた酒は林檎の香り。
噛み砕かれぬまま酒に溺れた林檎の味がした。
●林檎
目覚めてみれば昨夜の酒の名残りにか、見知らぬ誰かの幻が見える。
『俺を売ったな!? あれだけよくしてやった恩を忘れたのか!』
それは断頭台に導かれし男が放つ怨嗟の咆吼。
噛み付かんばかりの牙だけが顔の代わりに記憶の底に残っている。
『お前はもう自由だ。お前はお前のまま混沌を抱えて生きなさい』
それは記憶を奪い取った男が告げる解放の呪文。
飲み下された薬の味と共に記憶の代わりに擦り込まれている。
「何故だろうね。林檎を見ると妙に胸騒ぎかがして落ち着かない。思い出した方がいいような、思い出してはいけないような……」
林檎は真理の果実。思い出し、見つけなければならぬ真相の道標。
林檎は禁断の果実。封じ込み、空けてはならぬものの禁忌の隠匿。
新しき力が今カティアの中に生まれる。
「これは何かのトリガーかな。もしかしたら……」
混沌とした記憶から真理を導き、混沌とした記憶に禁忌を隠す。
それは砕かれぬように身を守り、溺れぬように心を導く林檎の魔法。
全ては来たるべき日のために。