SS詳細
絶望は足元に埋まっている。
登場人物一覧
●自業自得といえばそうなのだが、
正直やらかした、とでもいうのが早いだろうか、人畜無害は放屁を我慢していた。
混沌世界にやって来てからというもの、様々な美味しい食べ物が彼女は魅了してやまなかった。
木を主食としていた彼女が今では肉も米も魚も野菜も食べ、健康に、みるみるぽっちゃりと化してしまった。
見た目はあまり気にならないので本人も気にしていないのだが、しかし体臭は気になってきた。
それだけだった。
それだけの事実が後の彼女を苦しめることになるとは思っていなかっただろう。
彼女は非常に大食いである。
美味しい食べ物と合わせて混沌の木々から生まれた爪楊枝を付け合わせにして食べるのが最近のお気に入りの食べ方であった。
それは今日も。
とれたて卵で作ったきれいな黄金色のオムライスにざくざくのクルトンとしゃきしゃきのレタス、ふわふわの粉チーズがたっぷりかかり、挙句の果てにはカリッカリのベーコンと癖になりそうなドレッシングのかかったシーザーサラダ、それだけでは足りずに別の店へ。
訪れたいわゆる中華料理店では溢れ出す肉汁がおいしい焼売と濃厚な餡のかかった天津飯、店長のこだわりが詰まった魚介だしペースの醤油ラーメンを注文。ここでは割り箸を五本ほど失敬して。
食後のデザートにと訪れた喫茶店ではみかんやキウイ、バナナなど見た目から愛らしいフルーツサンドとチョコレートの甘みとほろ苦さが上品なガトーショコラ、極めつけは甘いフルーツパフェ。下からざくざくのコーンフレーク、ホイップクリーム、熟した苺のジャム、チョコソース、欲張りにもう一度ホイップクリームを伸せて棒状のクッキー菓子や苺、チョコチップをふりかけて、それのお供に爪楊枝。
傍から見れば異端すぎる光景だが彼女は周囲の目というものを気にしない。
美味しいものをおいしく食べて何が悪いのか。
大食いであるが故にたくさんの食べ物をおいしく食べることが可能である、ということは大変喜ばしいことではあるのだが、しかし。
その大食いである、ということが彼女を苦しめているのが、現在の状況であった。
今日は日ごろのご褒美にと
ようやく腹八分目になっただろうかと腹をさすりながら店を出た彼女を襲ったのは猛烈な腹痛だった。
ぐう、ぎゅる、ぎゅるるるるるる……
主に腸のあたりだろうか、尋常ではないほどの痛みに襲われみるみる立つのが苦しくなる。
ぎゅう、とお腹を押さえてうずくまりたい衝動に駆られる。
しかしこんなところで立ち止まれば通行人の興味の視線が注がれることは確実だろう、店の前でなんて風評被害を誘うのもいいところだ。
(っ……食べ過ぎたのかな……お腹痛いぃ……)
普段なら問題なくするっと消化してくれるはずであろう胃腸の調子がおかしい。尻のほうにはだいぶ限界が来ている。
しかたがないので速足で店の裏へと駆け込み、お腹を押さえて膝をつく。
「くっ……お腹……だめ、苦しい……」
その理由は簡単、おならが出そうなのだ。
けれど店裏であれ人の往来で放屁など年齢は抜きにして乙女ならば躊躇われるというものだ。
いつの間にか近づきグルルルル、と威嚇してきた野良犬に思わず尻の筋肉が緩みそうになる。
「あああっ……こ、ここで出すわけには……」
きっと噛まれたら痛いだろう。そんなのんきな考えが頭をよぎる。
しかも噛まれたら大きな音を出して放屁してしまうかもしれないし、音が出なかったらもっと醜悪なにおいの屁が出てしまうというのだとか。
それは躊躇われる。
「うぅ……くっ……!」
こうなったら、街のどこかにあるであろうトイレ、できれば人の少ないところで放屁するしかない。
決意した彼女の瞳には戦いに赴く戦士のように、輝きが宿っていた。
けれどもそれは、彼女にさらなる苦痛と羞恥を与えるだけの悪足掻きだということを。今ここでしてしまったほうが良いことを、今の彼女は知らなかった。
●立ち塞がる障壁
まずはトイレの場所を確認しなければ。街の中央にあるであろう案内マップが設置されたスペースに向かうことにした。
もちろん腹痛が治まるときと痛みに悶えるときがあるので、先ほど豊かな腹に押し付けた手は離さぬままで。
細く弧を描いた瞳といつもにまにまとした揶揄うような口元は、きりりと鋭く吊り上がり、きゅっと引き締まっている。
それが平静ではないということを理解しているから、無理くり笑みを顔に引っ付けて。
見知らぬ人が見たら腹に弾丸でも貫通したのだろうかと思わせんばかりの様子と形相であるのだが、本人はいたって真剣だし本気だ。
これでどうにかなっていると思っている。
そして辿りついたこの街のマップをみて、彼女の顔はみるみる青に染まっていった。
(嘘、でしょ……)
ここから、反対の位置にあるのだ。
つまり。
(あのまま反対方向に曲がっていたらもう苦しくなかったってこと……?)
唇を噛む。自分の頑張りが無駄になったようで腹立たしくてたまらない。
そんなことは全くないのに。
仕方ない。そう気持ちに踏ん切りをつけてくるりと身体を反対方向に向け、一歩踏み出そうとしたとき。
「わぁっ!?」
「…………?!」
どんっ。
突然の、衝撃。
全身で踏ん張っていた力が緩み、緩み、抜けて……。
(だめだめだめだめ!!!!)
ぎゅっ。
身体に入れていた力を、しりもちをついてもぐっとこらえて、抜けないように。
「いてて……よ、よそみしててぶつかってごめんなさい!!」
「っ……まったく、次は気を付けるんだよ!!」
うまく笑うことなどできようものか。こんなにも我慢しているのに。
けれど子供相手に怒鳴りつけるのも大人げないだろう。少々言葉がきつくはなってしまったがぽん、と頭をなでて、人畜無害は走り出した。
(やばいやばいやばいやばい……そろそろ限界だ……っ!!)
急がねば。
できるだけ尻に刺激は与えぬようにして駆け出した。
あとは辿りつくだけだ。
トイレの位置はもう、頭に入っているのだから――。
●終焉
幾多の困難を乗り越えた。
野良犬に始まり、トイレとは反対の方向に直進していたことに気づき絶望し、それでもあきらめないと誓った瞬間にタックルしてきた子供。あの時はキレそうになった。
あわただしくかけていく郵便屋を交わし、迷子のおじいさんに道を教え、そうしてなんとかトイレはすぐそこだ。
(もうすぐ……っ)
我慢などできるはずがなかった。人の目もなさそうだから、とがちゃがちゃベルトをこじあけて、進んだ。
――ここなら大丈夫。
なんて、誰が言ったのだろうか。
化粧パウダーのにおい。甲高い笑い声。
閉まり切った白い扉。その前に並ぶ女性たち。
「そ、そんなぁ……」
ぶぅっ。
「……え?」
「嘘、絶対おならじゃーん!!」
自分の尻から放たれた、恐ろしく臭いそれ。
「そっ、そんな、あ、あ、あ、あっ……」
さっきまで我慢できていたはずなのに。
そんなこと知ったことではない。女性たちにとっては今起こったことがすべてだ。
しかも、彼女は下半身をさらし、醜悪な臭いの屁と大きな音を響かせているのだから。
ほぼ密室のトイレでそんな行為、人の視線を誘わないわけがない。
「え、嘘、ありえないんだけど!!」
「キャハハハ、やっばー?!! え、無理無理、せっかくおしゃれしてんのに臭い染みたら外出れないんだけどー!!」
「ないわ……え、私なら耐えらんない。だいじょうぶ? ふふっ、ごめんね!! はははは!!」
ネイルで彩られた指先がこちらを向く。
けたたましく響く笑い声も、こそこそと耳に這うように響く笑い声も、人の顔を見るのも耐えられなかった。
それでも尻は止まらない。
ぶっ。ぶっ。ぶぅぅぅぅぅぅぅ。
情けない音は止まらない。
先ほどまで一生懸命我慢したのだから。とでも言いたげに、尻は情けないほどの音を響かせていく。
「だめ、だめ、ちがうんですぅう……」
眦にたまる涙は違うのだけれど、違わないことを理解しているが故の涙。
その顔はみるみる赤くなっていく。
羞恥と絶望。まだ尻はそれを放つことをやめようとしない。
人畜無害にとって、その日は最悪の日になったのだった――。