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或るキリトリ線
登場人物一覧
――アルトバ文具店。
その場所には薬屋が存在したことを皆はご存知であろうか。
墨色の髪に猫背に眼鏡、墨色よりも尚濃い硯の中の瑞々しい黒の瞳を眼鏡で覆った青年が店主を務めるその文具店にはある歴史が存在した。
その外観は洒落ており旅人が言うには『イタリアにありそう』という事だ。古びた椅子や棚にアンティーク調の時計の秒針が静かな音を立てる空間。この場所に旅人である青年が店を構えたのは、彼を拾った『元店主』が存在したからだ。
ある老夫婦が店を構えた薬屋。その場所を彼らはある旅人の青年に譲ったのだそうだ。
旅人。それは世界がセレクトしたことで否応なしにこの世界へと引っ張り込まれる事象を言う。青年――古木・文とて例外には漏れなかった。
右も左も分からぬ中、どうしたものか『世界が彼を受け入れた』事により、彼はこの世界の住民となった。
常識も違えば生活のスタイルさえ変わってしまうそれにある旅人は絶望し、ある旅人は適応する。彼はと言えばどちらかと言えば前者だったのだろう。
疑心暗鬼に塗れた彼を拾い、住居へと置いたある老夫婦は親切心と、そして、文という青年にたっぷりの愛情を向けてくれた。
「いや、その……」
自身とは何から何まで違う。言葉は通じれど、常識は通じない。そんな場所だ。
「僕がいても邪魔になると思うんだけど……」
言葉をどもらせた彼にそんなことはないと柔らかに笑う老人たち。
その優しさを受け入れられるほどに文は清廉潔白な人生を送っては来なかった。
生涯において、何を恥とするかは人によって違う。
少なくとも彼にとっては『当たり前』にその体に指が満足に揃っている事が恥であった。
彼の出自はニホン――それもショウワと呼ばれた時代だ――、その職は代書屋と呼ばれるものだ。
幻想国でもよく見られる裏の商人であり、稀覯本の写本を許にパスポートや有価証券を何時食って生きる複製や偽造職人だ。
ローレットのあるこの国であれば、彼の職業も受け入れられるのだろうが、『常識外の種族』を受け入れることは彼にとっても難しかった。
強者に従い、只、その技術を生かすだけの日々の中、心の平穏が為に着慣れたスーツを手放すことができず、臆病なまま過ごした彼を支えたのは穏やかな老夫婦だったのかもしれない。
店を譲り、息子夫婦の家に隠居した老夫婦には文は感謝してもしきれないほどの想いを抱えている。
「文君、最近はどうだい? 特にほら、練達から新しい商品を仕入れたんだとか。
特異運命座標ってのは便利だねえ……ワープ? なんてのができるんだろう」
「滞りなく。そうそう、新しい万年筆がありまして、これは別の国家の技術を生かしたそうなのですが、インク溜まりに星が生まれるんですよ」
魔法のようだと笑う文の言葉は『文具』が絡めば流暢だ。それを知っているからこそ、老夫婦たちは彼の話しやすい話題を探すのだろう。
「……あ、そろそろ、お暇しようかな」
時計を見遣った文に老夫婦は大きく頷いた。
茶会の席を立ち、店へと戻った文は店内奥へと足を進めた。
趣味の顔料作りも滞りはない。日々を穏やかに過ごすうえで趣味を持つというのは大切な事だ。
職人机の上にはその材料となる植物だけではない、何かの血潮や昆虫の屍骸、好物が並んでいた。
色見本棚に飾られたインクや顔料は彼が世界から与えられた『贈物』によるものも存在している。
もう、少しはこの世界には慣れて来ただろうか。
アンティークの時計がごおんと低く音たてる。
この空間は心地よい、只の一人誰にも害される事のない空間だ。
こうして店を構え、日々を過ごさせてくれるだけでもあの老夫婦には感謝と尊敬の念が堪えない。
珍しいものを見つけたらまた茶を飲みに行こうかと立ち上がる。
今日もインクが一つ、一つと増えていく。
彼の想いを切り取る様に。――さあ、あなたもアルトバ文具店へいらっしゃい。