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小鳥は夜明けに微笑んで
登場人物一覧
●絶望の淵で男は
夜になろうとする空の色。空の彼方に見えたほんの少し紅が完全に沈んで、夜となる。
幻想の国の片隅で、初老の男は街角の椅子に腰掛けて空を見ていた。気力を全て削ぎ落としたような、途方に暮れた表情で。
そして空を仰いだグレーの瞳を地面に落とす。次いで漏れるささやかな溜息。
「あら、どうしたのかしらおじ様?」
ふと降ってくるのは軽やかな鈴の音のような愛らしい声。
男が声に肩を揺らし、見上げると。
夜の紺に映える金色の髪と青薔薇を揺らし、透き通るような青の眼で男を見下ろす少女。
きみは? と問うように男の瞳が少女を捉えて。
その仕草の意味を理解した少女は優しく笑んで。
「私はルミエール・ローズブレイドよ、あなたは?」
「僕はエドワード・ブラウン。……お嬢さん、僕に何の用かな?」
エドワードの問いに、少女はくすりと微笑んで。
「おじ様がとてもつらそうに見えたから、何か力になれないかと思ったの」
そうでなければ話を聞くだけでも、と。少女は男の隣に腰掛ける。
優しく労るような彼女の表情は、少女のようにあどけなくて、母のように温かくて。先程までは何も感じられなかった心に、感情の波が押し寄せてきて。
ほろりと一条の涙が頬を伝い、エドワードの口は堰を切るように溜め込んでいたものを吐き出した。
それは、エドワードの今までの不幸を嘆くものだった。
裕福な家庭に生まれたエドワードは、特に不自由を知らずに育った。良い会社にも就職し、素敵な女性とめぐり逢い、結婚し、息子もできた。それまでは順風満帆な人生を歩んでいたと思っていた。
「それまでは?」
ルミエールが首を傾げる。
エドワードはそれに頷いて。次いで身に起きた不幸を語る。
まず最初に妻が自殺をした。遺書らしきものには『小鳥が……』と書かれていて。
次に起こったのは勤めていた会社の倒産と社長の自殺。何かに心酔していたようで、たくさんの借金を作っていた。『天使が』と語っていたのをエドワードも聞いたことがある。
そして三つ目の不幸は、息子が不治の病に罹ったこと。元々あまり身体は強くなかったが、それでも健康体だった。病は日々進行し、医者も匙を投げた。それ以前に職をなくしたエドワードには医療費を払う余裕もない。
「そうだったの、大変だったわね」
ルミエールがそっとエドワードの肩に手を乗せる。
柔らかく小さな手のひらから伝わるのは確かな温もりで。エドワードの暗く凝り固まった心を溶かすには充分な温度だった。
「ああ、ああ……もうどうしたら良いのかわからないんだ」
仕事ならばまた見付ければ良い。しかし、妻を亡くしてからは心の支えだった息子も病に侵され、どうしようもない。
「私に何か力になれることがあったら良いのだけど……あっ、そうだわ♪」
困ったように笑っていた少女は、ぱっと何かを思い付いたように笑んで。
「私で良ければお話を聞くことはできるわ。それに気晴らしにどこか出掛けたり。どうしようもないからって、そればかりでは何も良いことはないわ?」
少しでもあなたに癒しを、と少女は鈴音の声で言った。
「……優しいのだね、きみは」
エドワードも、ようやく少女に笑みを返すことができた。
●少女の笑みが解くのは
不思議な少女と出会ってから数日が経った。夜まで街を点々とし、仕事を探しては断られ、疲れ果てての帰路で少女と話をするようになった。
そんな中でのルミエールとの会話は、エドワードにとっては一つの癒しとなっていた。
「父さん、今日も仕事探し?」
エドワードが出掛ける準備をしていると、ベッドから身を起こした息子のアレンが声をかけてきた。
けほっと咳をこぼしながら、申し訳なさそうするアレン。
「お前は気にするな。僕は大丈夫だから」
本当は大丈夫とは言えない状況だけれど、もしかしたら近いうちに何かが変わるような気がしていて。
「お前はとにかく安静にしていろ」
ぽんと愛しい息子の頭を撫でて。
「それじゃ、行ってくるよ」
「うん、いってらっしゃい」
その日の夜に差し掛かった帰路で、数日前と同じ椅子に座っていた。
成果は今日もゼロ。職の内容を選んでいる余裕はないと思い、手当たり次第に求人に飛びついて行ったが、年齢のせいもあってか収穫はなかった。
「こんばんは♪ 今日もお仕事は見つからなかったのかしら?」
項垂れていると、いつものように少女がやって来る。
「こんばんは。ああ、儘ならないものだな……」
「そうね、簡単には上手くいかないものよね。それでもめげずに頑張っているのは凄いわ」
いいこいいこしてあげるわね、と無邪気にエドワードの頭に手を乗せるルミエール。
「いや。あの日、きみに出会ってなかったらこうしてはいられなかっただろう。とても感謝しているよ」
あの日、彼女に出会っていなかったら。きっとすぐに駄目になっていただろうから。
それを彼女は、自分は話を聞いただけだと言って。
「それよりも今日は甘いお菓子を持ってきたの。一緒に食べない?」
そう言って取り出したのは小さな袋で。中から取り出したのは、砂糖をまぶした色とりどりのクッキー。
それを一つ摘まんでエドワードの口許へどうぞと言って近付けて。一口でそのクッキーを頬張った彼を見てくすくすと笑う。
「やっぱり男の人は口が大きいわね」
そう言って、ルミエールは一つ摘まむと数度に分けて食べる。
「ふふ、やっぱり甘い♪」
「そうだな、甘くて優しい味だ」
つられて笑顔になるエドワード。職も金もなく、つらい日々だけれど、ほんの小さな幸せはここにあって。
そう思うと、願いが生まれる。
この時間が続いて欲しい、と。
「そう思ってくれるのは嬉しいのだけど……」
いつかそれにも終わりが来るわ、と。ルミエールはエドワードの前に立つ。
「夜はずっとは続かない。いつか必ず夜は明けるものよ」
あなたの夜も、きっと明けるわ。
笑ってさらりと金色の髪を撫でて。微笑む顔は慈愛を孕んだ天使のようで。
綺麗な顔にエドワードは何も言えなくなった。
「頑張ってね♪」
くるりと踵を返して、歩き去る少女。
ふと足元を見てみれば、黒い小さな羽が落ちていた。
●幕はひそかに落とされて
エドワードが帰宅したのは夜遅く。
すでに家には明かりはなく、とても静かだった。アレンはすでに寝てしまっているかな、と思って。できる限り音を殺して戸を潜る。
心の内でただいまを言って、ベッドに横たわる息子の姿を見ようと寝室に入る。起こさないよう明かりを灯さずに見ていて、違和感を覚えた。
「寝息が聞こえない……?」
静かな夜だ。音がよく響くというのに、それはなく。それがエドワードの不安を掻き立てる。
「アレン?」
呼びかけても返事はなく。それだけならば、まだ眠っているだけなのかもしれないと思えたから。そっと手を肩にやる。
その手に触れた肩は、とても人の柔らかさとは思えないほどに硬くて。体温はとうの昔に失われていたかのように冷たかった。
そして彼の手にはナイフが握られていた。
終わりは唐突にやって来る。
ほんの些細なきっかけで、前触れなどなくても。あっても、気付けなければないのと同じで。
エドワードの終わりのきっかけは、息子の死だった。ベッドの縁に残されたアレンのメモが、医者に見せるまでもなく彼の死を証明していた。
そのメモには。
「『天使が楽にしてくれる』……よね♪」
家を出て、少女と会う場所までいつの間にか走っていた。
息を整えていると、後ろにルミエールが立っていた。
しかし、その姿にはいつもと違うものがあった。背中に緑と黒の六枚の翼。それでばさりと音を立てて、月光を背に舞い降りる姿はまるで。
「天使……?」
「みんな、そう言うのよね。でも、それでも構わないわ」
いっときでも幸福を与えたかったから。
そして一瞬で幸福は裏返る。
「あなたのように、ね♪」
きっかけはとても些細なものだった。
街を歩いていたら、忙しく仕事をしているエドワードを見つけた。別の日には優しく家族に笑いかける彼を見かけた。たったそれだけだった。
そんな彼を絶望させたらどんな風になるのか、興味が湧いたから。そしてそれを成そうと思ったきっかけは、アレンの病気だった。
「あれは、本当に偶然だったの」
笑う少女の笑みは、穏やかで。いつもは癒しだったそれが、今は狂い咲く花のようで。見上げるエドワードの背筋を凍らせる。
少女は笑う。
その偶然があったから、今があるのだと。
彼の妻に接触して、彼女の過去の不正について問い質したら自殺した。勤めていた会社の社長が貢いでいたのも彼女で、最後に正気に戻った彼は自ら命を絶った。アレンには父親の毎日の頑張りを話して聞かせた。
「そうしたらね、どうせ助からないのだから負担になりたくないって言ったの」
そっとアレンの手にナイフを握らせて。その手が喉を切るのをじっと眺めていた。
「どうして……」
天使の少女の話を聞いていたエドワードの顔は、数日前の絶望しきった顔以上に凄絶で。信じていた者に裏切られたような悲愴の表情は、ルミエールの心を躍らせた。
「勘違いしないでね? 私は全部、手を出してはいないわ」
全て、選択したのは当人達であると言う。
「ねぇ、これからあなたはどうするの?」
もう生きる気力は湧かないと渇いた笑いをこぼす。
「そう。じゃあ、おやすみなさいね」
●小鳥は夜明けに微笑んで
エドワードの最期は服毒だった。特に苦しまずに彼は逝った。
その姿を見届けたルミエールは空を見た。
暗い紺は明け、真白な光が空に広がり、やがて青になる。
「どんな夜でも明けないはずはないのに」
もしかしたら、違う未来もあったかもしれないのに。
「絶望がその選択を消してしまった」
憐れで愛しい人はするりとこの手からこぼれ落ちてしまって。
「さようなら」
少女は微笑んで、その地を後にした。